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思ったより冷たかった、ディアリンドの視線

翌朝、昨日のように仕事に向かう母を見送って、蒼には19時頃まで帰らないと告げて俺は姿見の前に立っていた。 今日は前回のように手ぶらではなく、使い慣れたリュックサックに思いつく限りの荷物を詰めて、何だか非常用持ち出し袋のようなことになってしまったそれをずっしりと背負っている。 しかし、この横幅じゃ……鏡の幅を通らないよな……? と考えてから、そもそも自分の体格が既に鏡の横幅を超えていることに思い至る。 多分きっと不思議な力で移動するので、横幅は考えなくても大丈夫なんじゃないだろうか……? と誰にともなく言い訳しているうちに、スマホの時計が7時を示す。 途端に鏡がふわっと淡い紫色の光を放ち始めた。 この鏡って、この先ずっと俺がみてない時もこんな風に毎日2回光るんだろうか。 だとしたらなんか、カバーでもかけておく方がいいんじゃないか……? 家族が見てしまったら、きっとびっくりするに違いない。 そんなことを考えながら、俺は淡く輝く鏡に手を伸ばす。 そこに映っているのはいつもの俺の姿で、ピンク髪の少女の姿ではなかった。 ……あれ? と思う間に、世界は急激に反転する。 振り返ると、誰もいない俺の部屋が小さく小さくなってゆくのが見えた。 ぱあっとあたり一面が輝いて、視界が真っ白に染まる。 次に、ぶわっと全身を包む暖かい空気。 ああそうだ、こっちは夏なんだよな……。 眩しさに眩んだ目をゆっくり開けてみると、俺はゲートの前に立っていた。 石造の神殿もこの風景も、まだ記憶に新しい。 「おや、お帰りなさいませ元聖女様」 そう言って頭を下げてくれたのは見慣れた司祭様で、その姿にホッとする。 品よく挨拶をしようとしてから、ふと気づく。 以前は俺と同じほどの背の高さだったはずの司祭様が、やたらと小さい事に。 まさか……。 俺は自分の両手を見る。 ゴツゴツした男の手だ。 あの時映っていた通りの、普段通りの自分の姿に、俺は思わず叫んだ。 「うわっ!?」 目の前で司祭様が耳を押さえている。 見れば、周囲の人々の目もこちらに集まっていた。 少し離れた場所では、着いたばかりらしい聖女と、その傍に立つ青い髪の男が振り返った。 ああ、ディアリンドはほんの一年でまた背が伸びたみたいだ。 17歳になったのか。 まだ俺よりは僅かに低いが、この一年で追い抜かされてしまうかも知れないな。 なんて思っている間に、ディアリンドはその背に聖女を庇うようにして立ち塞がると、俺に厳しい視線を向けた。 あー……。 そうか。 そうだよな。 お前が今守るべきはその聖女で、俺は呼ばれてもないのにやってきた不審な男だもんな。 俺は視線を司祭様に戻すと「すみません、大きな声を出してしまって……」と謝った。 司祭様は小さく微笑んで答える。 「いいえ、こちらの説明不足でしょう。教会を代表して謝罪させてください」 どうやら司祭様は俺が何に驚いたのかすぐ分かったらしい。 「元聖女様には教会にお部屋をご用意致します。案内はこちらの者が……」 言われて司祭様の後ろに立っていた女性が半歩前に出て頭を下げる。 「私は案内役の……」 「エミーだね。元気そうでなによりだよ」 俺は、聖女時代に俺によく気を配ってくれた見慣れた彼女に微笑んだ。 赤毛を三つ編みにしたエミーのオレンジ色の瞳が丸くなる。 「は、はい……。よろしくお願いいたします」 聖女の俺より少し背の高かった彼女も、今では俺が見下ろす側だ。 司祭様は、儀式用の正装を翻して姿勢を正すと俺に向き直った。 「私はフロウリア聖教の司祭を務めておりますモンドベルと申します。失礼ですが、貴方様のお名前をお伺いしてもよろしいでしょうか?」 「モンドベル様、申し遅れて失礼いたしました。私は芦谷圭斗(あしやけいと)です。以前は大変お世話になりました」 俺は、今の自分の体に見合った仕草で礼儀正しく礼をする。 「ケイト様……!?」 声を上げたエミーに俺は「しーっ」と仕草で伝える。 チラと見たところ、ディアリンド達は新しい聖女を連れて神殿を後にしようとしていて、こちらに気づく様子はなかった。 「ごめんね、あの頃に比べたら随分ゴツくなっちゃったでしょ、怖くない?」 俺が苦笑すると、エミーはブンブンと首を振った。 「そのような事ありませんし、ケイト様が謝るような事ではありませんっ」 「あはは、ありがとう。俺もまだちょっと、びっくりしてるとこなんだけどね……」 俺の言葉に司祭様はもう一度謝ってから、俺の来訪を喜んでくれた。 「一年間、どうぞ教会でごゆっくりお過ごしください」 温かい言葉に頭を下げて、俺はエミーの案内で教会の居住区へと向かった。 *** それからあっという間に1週間。 それでも現実世界ではほんの15分足らずなんだなぁと思いながら、俺は教会でよくしてもらっていた。 教会には、俺のように元聖女が来訪したときに使われるための部屋がいくつも用意されていた。 話によると、2度と戻って来ない聖女も少なくないらしいが、戻ってくる元聖女は何度も来ることが多いとかで、中には定期テストや試験勉強の度に来る聖女もいるという話だ。 まあ確かに……12時間で1年分の勉強ができるとなれば、毎回来たくなる気持ちも分かる。 とはいえ定期テスト毎に来たってこちらの世界では100年くらいおきになるのだから、それを常に受け入れ続けられるこの世界はものすごい安定してるんだな……。 俺が聖女をしていた時がフロウリア歴4859年だったので、今年は4861年か……。 5000年にも近いこの世界の長い長い歴史を、俺は改めて凄いと感じた。 それをずっと支えているのが、毎年行われる聖女召喚と聖地巡礼という名の結界強化の旅か……。 俺は教会のテラスから中庭を見下ろす。 そこでは今年の聖女様……水色の長い髪をサラサラと揺らした女の子が初めての聖力操作の練習をしていた。 司祭様と向き合う彼女を囲むようにして、5人の騎士がぐるりと立っている。 彼女を守っているんだな……。 その中には、ディアリンドの姿もあった。 こんなに暑いのに騎士達は皆甲冑を身につけて、等間隔に並び立っている。 場所こそ日陰ではあったけど、それでも暑い中に皆頑張っているなと思う。 俺にも何か、手伝える事はないだろうか……。 「ケイ様、こちらにいらしたんですね!」 慌ただしい声に振り返ると、エミーがパタパタと小走りで駆け寄ってくる。 日頃から教会に仕える者として洗練された所作を徹底しているエミーが走るなんて、かなり急ぎの用みたいだ。 「どうしたの? すぐ行くよ」 俺が答えると、エミーは「こちらです」と踵を返す。 俺は黙ってその後に続いた。

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