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禁呪と臆病な俺
「……まだ起きてらっしゃるんですか?」
心配そうなエミーの声に、俺は謝る。
「うんごめん、ここまでできたら寝るから……」
「あまりご無理をなさらないでください。お体を壊してはたまりません」
エミーはそう言ってホットミルクを作ってくれた。
教会で過ごす初めての冬は、雪に覆われていた。
南端のキリアダンでは、雪は降ってもチラつく程度で積もることはほとんどなかったけど、北端のこの地ではしっかりと降り積もり、この時期の朝の仕事は除雪からとなる。
「エミーは先に寝ててね」
「そういう訳にはまいりません」
これはエミーなりの『早く寝ろ』だ。
俺は「分かったよ」と苦笑してホットミルクを両手で包む。
エミーとロイスには既に、この魔法術式が儀式の日までに完成したら俺は帰ると伝えてある。
エミーはやっぱりという顔をして頷いていた。
ロイスは俺についていれば3年は巡礼に行かずにゆっくりできるのでは? と期待していたようで俺の言葉にがっくりしていたが、俺の決めたことならと笑って許してくれた。
俺は今回、こちらに来てからずっと『特定の記憶だけを消す』魔法術式の開発を続けていた。
記憶を消す術というのはすでに存在していたけど、指定できるのは現在時刻から遡る時間までで、その間の記憶を全て消すだけのシンプルなものだった。
これでは、ディアリンドの中のケイトの記憶を消そうとした時、彼からごっそり7年分に近い記憶を奪ってしまうことになる。
そんなの、騎士を一からやり直せと言っているようなものだ。
そんなこと絶対にさせられない。
最初は期間を指定するところから始めた。
そこまではそう難しくなかった。
これでディアリンドに捨ててもらうのは1年分の記憶となったけれど、それだってそんな簡単に捨てていいものではない。
騎士として最初の一年だ。
彼の学んだことは膨大だったはずだ。
それで、今度は特定のものに対してだけ記憶を消すことができないか研究を始めた。
ここからは、人が記憶をどうやって管理しているのか、そして事象をどのように捉えているかを理解するために勉強を続けた。
資料だけではわからなくて、セリクやエミーが何度も魔法の実験台になってくれた。
記憶を消す魔法の実験台なんて、俺が計算をミスしていたらどんなことになるのかもわからないのに。
……本当に、2人にはどれだけ感謝しても足りない。
おかげで、冬の終わりが近づく今、この課題にもようやく終わりが見えてきた。
ディアリンド達ももう少ししたらキリアダンを発つだろう。
あと4か月で、なんとか完成させなきゃ……。
……俺は、彼の初恋の記憶を、大切な記憶を、自分勝手に奪おうとしていた。
眠い目を擦って、カップをトレイに戻す。
エミーのおかげで、かじかんでいた指先も少し温まった。
カップを無言で回収するエミーが、小さく息を吐いた。
「エミー……、俺はディアリンドに酷いことをしようとしてるのかな……。やっぱり、こんなのは自分勝手だと思う……?」
深夜だったせいか、つい不安がぽろりと口から零れてしまった。
「ご自身の記憶なのですから自分勝手とまでは思いませんが、臆病であるとは思います」
臆病……か。
そうだよな。
ディアリンドのためと言いながら、これは……ディアリンドに嫌われてしまうことが怖くてたまらない、臆病な自分のために作っている術式なんだろう……。
「……そっか。答えてくれてありがとう」
エミーはどこか苦しげに「いいえ」とだけ答えた。
***
巡礼を終えた一行が戻ってから2週間ほど過ぎて、ようやく術式は完成した。
ギリギリだったけど、なんとか間に合ってよかった……。
そう思ったのに、俺はその術をいまだにディアリンドに使えないでいた。
ディアリンドは巡礼から戻ったその足で、俺の部屋に来てくれた。
それからも、2日と空けずに顔を出してくれていた。
滞在時間は30分もないけれど、俺の顔を見て、安心したように笑ってくれる彼を見ていると、こんなのは夢なんじゃないかとさえ思えてくる。
そんな彼に、俺はどうしてもこの魔法を使いきれなくて……。
今日も、彼を見送った俺は部屋で立ち尽くしていた。
「ケイ様、私でよければ行いましょうか……?」
エミーが声をかけてくれる。
そうか。術式はもう完成しているんだから、俺がかけなくてもいいのか。
顔を上げてエミーを見る。
けれどこの術は複雑で、エミーにはちょっと難しいかも知れない。
そう判断して、俺はセリクを頼ることにした。
「セリク、お願いがあるんだ。俺が帰ったら、ディアリンドにこの術を使ってもらえないかな……」
儀式の日まで残り5日となったその日、俺は夕食を共にするために部屋に来たセリクにそう頼み込んだ。
セリクは黄緑色の瞳を見開いて、信じられないようなものを見るような目で俺を見上げた。
「帰る……って……、ケイ様が、あちらへお戻りになるんですか……?」
「うん。急でごめんね」
セリクの黄緑色の瞳が見る間に滲んでいく。
俺は、毎日仕事で忙しくしている研究所入所一年目のセリクに、まだ向こうへ戻ろうと考えていることを伝えられていなかった。
セリクは涙を溜めた瞳で俺の差し出した紙を見る。
そこにはこの術式を使うための手順が全て書き出してあった。
それを見て、セリクの瞳がほんの少し色を変えた。
セリクは俺から紙を受け取って、興味津々といった様子でその内容を読み込む。
「かなり難しい術なんだけど、できそうかな……?」
「……はい、なんとか……」
まだ読み込むことに必死な様子のセリクが、それでもそう答えてくれた。
俺はほっとして胸を撫で下ろす。
ディアリンドの事はこれできっと大丈夫だろう。
俺はエミーにも頼む。
「セリクがその術を無事に使ったら、その紙は必ず協会に提出しておいてね」
「かしこまりました」
俺の作った術は、その効果ゆえに既に禁呪として指定されていた。
悪人の手に渡れば大変なことになる術だという自覚はある。
それでも、俺はこれを作り上げた。
ディアリンドに、あの聖女を忘れて幸せになってほしかったから……。
「指定対象は何ですか?」
読み終えたらしいセリクが、紙から顔を上げて俺に尋ねる。
「『ケイト様』の記憶を消すって指定してくれる?」
「ケイト様……?」
セリクが首を傾げる。
「うん、俺の本当の名前、圭斗って言うんだ」
「……女性名ではないですか」
セリクは驚いたように呟いた。
「こちらではそうだね。文化の違いで、俺のとこでは男の名でもおかしくないんだ」
「そうなのですか……」
セリクが俺をじっと見つめる。
それから、セリクは妙に優艶に微笑んだ。
「ケイト様……。とても素敵なお名前ですね」
俺は首の後ろにチリリとした感触を感じて、息を呑む。
今何か……。
何か一瞬、強烈な悪意を感じたような……?
慌てて部屋の中を見回したけど、部屋に居たのはエミーとロイスとセリクだけだ。
俺は、気のせいだろうか……と首を傾げるしかなかった。
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