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儀式の日(後半)

ふ。と目を開く。 それでようやく、俺は自分が今まで目を閉じていたことに気づいた。 どこだここ……。 辺りを見回せば、本や書類が本棚から溢れてあちこちに山を作っている。 この部屋は確か前に一度訪れたことがある。 セリクの住んでいる、魔法研究所の宿舎だ……。 俺はこの部屋に1つきりの1人がけのソファに座らされていた。 ソファなんて、この部屋にあっただろうか? 「ケイ様気づかれましたか? よかったです……なかなか目を覚まされないので心配しました」 言われてそちらを振り返ろうとするも、両手首と両足首はそれぞれが黒光りする拘束具でソファーに固定されていて、俺が自由に動かせたのは首だけだった。 「な、なにこれ……。なんでこんな事に……」 セリクはそんな俺の前にするりと現れると、俺の頬をそっと撫でた。 「ケイ様が僕を置いて帰るなんて言うからですよ?」 その言葉に、ゾクリと全身が粟立つ。 「……ぇ、……嘘……でしょ……?」 俺は祈りを込めてセリクを見上げる。 どうか嘘だと言ってほしい。 しかしセリクは何も答えないまま、俺を見下ろしてゆっくりと口角を上げた。 ……そんな……本当に……? 「本当に……セリクが……こんなことを……?」 尋ねた自分の声は、どうしようもなく震えていた。 「はい」と答えたセリクが俺の前に屈み込む。 「これからは僕だけのケイ様ですね」 にこりと微笑むその顔が、あまりにも幸せそうで……。 ああ、彼にとってはこれが幸せなんだ。と俺は理解してしまった。 逃したくない者は拘束すること。 そこに相手の意思など関係ないこと。 それらは全部、セリクがここまでの人生で学んでいた事だ。 俺はそれらを覆すだけの体験を、彼にさせてやれなかったんだ……。 3年後と言わずに、もっとすぐ会いに来ていたら違っただろうか。 もっと長くそばにいてやれば……。 せめてこの1年だけでも、もっとセリクのことを見ててあげたらよかったのに。 俺は自分のことでいっぱいいっぱいで、魔法術式の研究に没頭してたから……。 セリクはきっと、ずっと寂しかったんだ……。 「セリク……」 セリクは俺にそうっと顔を寄せて、口付けた。 「!?」 「あはは、そんなにびっくりした顔されるなんて、思いませんでしたよ」 「だっ……て、驚くよ……」 「ケイ様はキスしたことなかったんですか?」 セリクが首を傾げて尋ねる。 その毒気のない様子に、俺はほんの少しだけ戸惑いながらも答えた。 「ないよ。そんな機会ないし」 「へぇ……、じゃあ今のが初めてのキスだったんですね?」 黄緑色の双眸が、にまりと歪む。 「ふふ、嬉しいなぁ。僕がケイ様の初めてを全部いただけるんですね」 そう言ったセリクの唇がもう一度俺の唇に重ねられる。 「ま、待って待って! セリクちょっと待ってよ!」 慌てて顔を振ろうとした俺の顎を、セリクの手が掴んだ。 そのままソファーに押し付けられるように、ぐいと奥まで口づけられる。 「……っ」 冬の頃より淡い色になったセリクのアッシュブロンドの髪が俺の目元をくすぐる。 唇を離して、セリクは言った。 「心配しなくても大丈夫ですよケイ様。僕、ケイ様に痛い事はしませんから」 痛い事ってなんだよ……。 正直考えたくないんだが……。 「ケイ様の身体は、僕がちゃんと優しく慣らしますからね」 そう言ってセリクは立ち上がる。 ダメだこれは。 確定だ。 セリクは俺を襲おうとしてる。 そりゃ今まであれだけお預けくらってたんだから、そうなるのもわからなくはない。 これまでずっと「二度とこちらにこられなくなるからダメだ」って断ってたのに、俺は今回「もう二度とこちらには来ない」と言って帰ろうとしたからな。 セリクがブチギレるのも当然だろう。 そもそもあの時俺はどうしたんだっけ……? あの時、ゲートに入ろうとした俺に、セリクが泣きついてきて……。 「お待ちください! もうお会いできないなんて、僕には耐えられません!!」 俺はその髪を撫でて……。 「お願いしますケイ様……。僕はずっとケイ様のために頑張っているのに……。行ってしまうなんてあんまりです……。僕は、ケイ様の事絶対に大切にします! ずっとずっと、大切にしますから……。僕のことを、好きになってください……」 「セリク……」 セリクを抱きしめた時、セリクから一気に魔力を流し込まれた。 あまりの量に眩暈がして……そこまでで、俺の意識は途切れた。 でもあの時、あの場にはロイスとエミーがいたはずだ。 「セリク、ロイスとエミーはどうしたの? 怪我させてない?」 俺が尋ねると、セリクは苦笑した。 「これからご自身が襲われようというのに、ケイ様は他人の心配をなさるんですか?」 セリクは書類に埋もれた机の引き出しから、何やら見慣れない道具を取り出した。 なんだあれ……。 あー……待て待て、想像するな俺。 それよりロイスとエミーはどうなったんだ。 「大丈夫ですよ。お二人には僕がケイ様を…………いえ、ケイト様とお呼びしてもよろしいですか?」 俺は小さく頷く。 今まで一文字取っていたのはディアリンドへの配慮で、別に本名で呼ばれることに不満はない。 セリクは俺の頷きに満足げに目を細めてから、話を続けた。 「お二人には僕がケイト様を攫ったことだけを忘れていただいたんです」 なるほど……。 ……早速犯罪に使われてしまったな。俺の生み出した禁呪が。 俺は自分のアホさ加減を呪う。 こうならないように、利用を終えたらすぐに厳重保管になるはずだったのに。 俺はよりによって自分の手で、犯罪を起こしうる者に禁呪を与えてしまったんだ。 ただ信じるだけでは、救われない者もいるということに、俺が気づいていなかったから……。 禁呪を生み出した俺が、責任持って使えばよかったのに。 俺が……、ディアリンドに嫌われたくなくて、痛い思いをしたくなくて、ずっと逃げていたから。 セリクに任せればいいと思ってしまったのは、臆病な自分だった。 俯いた俺の前に、セリクがもう一度立つ。 「まずは、気持ちよくなる魔法をかけますね」 待て待て、なんだよそれは。 「そしたら、もう全部が気持ちよくなるので、ケイト様は何も心配いりませんよ」 セリクはそう言って優しく優しく微笑んだ。 *** ディアリンド達護衛騎士が並んで見守る中で、ゲートから飛び出すように現れた聖女様は、濃い紫色のまっすぐな髪を長く靡かせた、ツンとした雰囲気の美少女だった。 アメジストのような深い紫の瞳は、ラズベリー色をしていたケイト様の瞳にどこか似ていた。 「ここは……!?」 驚いたように辺りを見回した聖女様は、我々騎士団を目にすると一瞬ためらった後に、心を奮い立たせるようにして話しかけてきた。 「オレは芦谷蒼と言います、こちらに兄が……芦谷圭斗が来ていませんか!?」 私はその名に息を呑んだ。 「おお……ケイト様の弟君ですか。ようこそおいでくださいました」 司祭様が深々と頭を下げる。 「ですが残念ながら彼は今朝お帰りになったようで……」 「は!?」 途端に、聖女様は眉間に深々と皺を刻んだ。 その瞬間、私は動いていた。 「じゃあオレも帰りますっ」 踵を返した聖女様の御腕を失礼ながらも掴ませていただく。 「お気持ちはわかりますが……」 司祭様の言葉が終わらぬうちに、騎士達がゲートの前を塞ぐようにして立ち並んだ。 ほんの時々いらっしゃるのだ。すぐに帰ろうとなさる方が。 聖女が不在となってしまう事態を、我々はなんとしてでも防がねばならない。 そのために、聖女の到着を待つための陣形が敷かれているのだから。 「え、何これ……」 アオイ様……とおっしゃっただろうか。 アオイ様が、引き攣った顔で私を見上げる。 私は「申し訳ありません」と頭を下げた。 司祭様が聖女様の前に一歩進んで、頭を下げる。 「どうか一年だけ、我が国をお助けください……」 「はあ!? 一年んんんんんっ!?」 ケイト様の弟君は意外と短気な性格でいらっしゃるようだ。 司祭様は、ケイト様の書き残していた『聖女がこの地に降り立った際に最初に伝えておく方が良いこと』リストを見ながら聖女様に説明を始める。 「あー、ふーん。そーゆー事か。そんで兄ちゃんもあの時間に消えて、あの時間に戻ってきたわけだな。……つかこれ兄ちゃんの字じゃねーの?」 「おお、よくお分かりですな。ケイト様から新しい聖女様には初めにこれを説明すると安心していただけるだろうと、まとめてくださったのです」 「ふーん…………。そういうお節介をどこに行っても焼くとこが、ホント兄ちゃんらしいなぁ……」 聖女様の細くきりりとした眉と、吊り上がった瞳が、ゆるりと緩む。 ああ、この方が……、幼いケイト様がその御腕に怪我をしてまで守った聖女様なのか……。 「まあ分かった。んじゃ仕方なく一年だけいてやるから、腕を離してくれ」 言われて、私はようやくまだ聖女様の腕を掴んだままだったことに気づく。 「大変申し訳ございません」 深々と頭を下げると「……別にいーけど」と聖女様はおっしゃった。 そのお心にホッとする。 私は、この方にどうしても嫌われてしまうわけにはいかなかった。 もう二度と来ないと言われたあの方と唯一繋がるこの方の信頼を、私は絶対に勝ち得なければいけなかった。

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