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クッキー缶

翌日、セリクはケイト様との約束通りにディアリンドの記憶を消しに行った。 そんなセリクを騎士団の詰め所に入る手前で止めたのはロイスだった。 「悪いなセリク、事情が変わった。ディアリンドがケイ様とケイト様が同一人物だったことにやっと気づいてな。今ケイト様のことを忘れさせちまうと、ケイ様のことまで全部忘れかねない」 そんな事はセリクの知ったことではなかった。 むしろ、ケイト様の心を奪うあの忌々しい男がケイト様の事を全て忘れるのなら、セリクにとってはその方がずっと好都合だった。 「だから今は待ってくれ」 そう言ってセリクを止めるロイスの隣には、エミーもいた。 エミーが男と同様に頷くのを見て、セリクは内心でため息をついた。 待ったところで、ケイト様は二度とこちらにこないとおっしゃったのだから、答えをいただけるはずもないのに。 そう思いながらも、セリクは「わかりました」とだけ答えた。 ケイト様のためでなければ、別にあんな男が過去の記憶に苦しめられようがセリクには関係がない。ずっと勝手に苦しんでいればいいとすら思う。 そんなことよりも、今日は家に帰ったらケイト様にどんなことをして差し上げようか。と考えるので頭がいっぱいだった。 魔法をかけていたせいではあるが、昨日のケイト様はとにかく敏感で、どこに触れても切ない声を漏らしてくださった。 それをまた今夜もいただけるのだと思うと、セリクの胸は高鳴る。 「それでは、僕はこれで」 セリクはそれだけを告げると、頭を下げてその場を去った。 今の聖女様がどんな人かなんて事は、セリクにとって全く興味のない事だった。 *** 「ディアリンドってのはあんたか」 教会の廊下で、背に声をかけられてディアリンドは振り返った。 そこには腕を組み仁王立ちする聖女様の姿があった。 今年の聖女様は小柄で小顔でどこもかしこも細い。 身長は145センチほどだろうか。 もちろんこの姿はこの世界での仮の姿であるのは分かっているのだが、それでも、そんな彼女が仁王立ちをする姿は、なんとも不釣り合いに見えた。 「ああ、あんたは最初にオレの腕を掴んだ奴だな」 その声の冷たさに、ディアリンドは息を呑む。 あの時の事を怒ってらっしゃるのだろうか。 だとしたら一刻も早く謝罪をしなければ……。 しかしアオイは言葉を続けた。 「お前、兄貴にこんくらいの缶を渡した事あんだろ?」 アオイが手で示したサイズには覚えがあった。 あのクッキーが詰まった缶のことだろう。 「はい」 ディアリンドが頷けば、アオイはズカズカと大股でディアリンドのそばまでやってくる。 ディアリンドは緊張のあまり、姿勢を正して息を止めた。 「ふーん。そっか。あんたがな……」 アオイはジロジロと不躾な視線で、ディアリンドを四方八方から眺め回す。 「まあ、顔は……いいな。かなり。背も兄ちゃんより高いか……。いやでも問題は中身だろ、中身」 アオイは何やらぶつぶつ呟きながらもう一度ディアリンドの正面へと戻ると、片手を腰に当て、ジロリとディアリンドを睨む。 ディアリンドはその視線をまっすぐに受け止めた。 何を言われたとしても、この方には誠心誠意尽くさなくてはならない。 それが、今ディアリンドにできる唯一のことだと思っていた。 「お前、兄貴のことどう思ってんだよ」 突然の質問に、意図を汲みきれずディアリンドは瞬いた。 「どう、と、おっしゃいますと……?」 間違った答えを返してしまうリスクよりは、たとえ愚鈍に思われるとしても尋ね返す方をディアリンドは選んだ。 「好きとか嫌いとか、そーゆーことだよ」 それをなぜこの方に尋ねられるのか、分からない部分はまだ残っていたが、尋ねられたことへの答えは、ディアリンドの中でハッキリしていた。 「何よりも大切な方です」 ディアリンドは深い青色の瞳をまっすぐアオイに向けて、心を込めて答えた。 だからこそ、もう一度会って話がしたい。 ケイト様の事が、どの姿であろうと、一番大切なのだと伝えたい。 彼の心に残ってしまった傷を、なんとしてでも癒したいとディアリンドは願っていた。 青髪の騎士の答えに、アオイは瞠目した。 その真摯すぎる視線と言葉だけで、彼がどれだけ一途に兄を想っているのかが伝わってきそうで、アオイは思わず視線を逸らした。 「ふーん……。そんならいーけどさ……」 兄の部屋の机の上に乗せられていた見慣れない缶。 それを兄は何度も手に取っていた。 金曜の夜、風呂上がりに部屋を覗いた時にも手にしていたし、土曜も何度となくそれに触れていたのを見た。 中身は菓子のようだったので、それを食べているなら幾度か触れても不自然ではなかったが、兄は缶の蓋を閉めたままそれを愛しげに眺めているのだ。 今まで兄が見せた事のなかったその表情。 それがどうにも気になって、蒼は尋ねた。 「兄ちゃん、その缶どうしたの。誰かからもらったの?」 「これはディアリンドから……ぁ。えと、友達から貰ったんだ。すごく美味しいクッキーで……、蒼も食べる?」 一枚出して差し出す兄に、そんな大事そうな物がもらえるもんかと思った蒼は「今クッキーって気分じゃねーから」と答えた。 兄は「そっか」と苦笑して、取り出したクッキーを箱に戻した。 戻すのかよ! 食わねーのかよ! そんだけ大事にしてるなら、気安くオレに差し出すんじゃねーよ!! そもそも友達からクッキーもらったくらいで、そんな嬉しそうな顔する訳あるかよ。 ……あの電話の女か……? 今まで男子校に通っていた兄も、春からは大学生となる。 兄は見た目は多少ゴツいが頭も悪くないし気遣いもできるし何より優しい。 人として優れた兄の魅力に気づく者は少なくないだろう。 そこで彼女ができてしまう可能性は十分にある、と思ってはいた。 しかし兄にはそれよりも早く、好きな相手ができてしまったらしい。 「はぁぁ……」 思わず漏れたため息に、兄が「どうしたの? 蒼、悩み事?」と親身に相談に乗ってくれようとする。 蒼は『お前のことだよ』と思いながらも「はぁ? 兄ちゃんには関係ねーし」と答えた。 *** アオイ様は召喚時の様子からは考えられない程真面目に聖力の制御練習を続け、あっという間にその力をモノにしてしまった。 ただし、その態度だけは常に斜めである。 練習の時間だと伝えれば「はぁ? めんどくせーな」とおっしゃり、終了の時間を告げても「やっとかよ、やってらんねーな」とおっしゃる。 今日の座学でも、ケイト様のまとめた資料をご覧になるなり憤慨した様子を見せていた。 「はぁ? 何これ、このまとめノートも兄ちゃんの字だけど? ったく、1人でいったい何冊まとめてんだよ。理解度別とか習熟度別とか親切にも程があんだろ」 けれど、文句を言いながらもそれを真面目に書き写し、繰り返し繰り返し理解できるまで学ぶのである。 なるほど、これはまた新しいタイプの聖女様だ。とディアリンドは思った。 その素直でないくせに懸命な姿をなんとなく可愛らしく思ってしまってから、きっとケイト様もそう思っているのだろうと気づいた。 アオイ様がいらっしゃれば、今年の巡礼も無事に行えそうだ。 ケイト様の大切な弟君であるアオイ様の事は、命にかえても必ず守り抜こうとディアリンドは強く誓っていた。

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