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惨状の痕跡

極限まで追い詰められて一際高く声を上げた男は、ぷつりと糸が切れたようにベッドに沈む。 その涙に濡れた黒い瞳がほんの一瞬だけ自分を捉えてくれた事で、ディアリンドは我に返った。 「何をしている!!」 叫んだディアリンドに、セリクはゆっくりと振り返った。 「……何をしているように見えるんですか?」 途端、腹の底から沸き上がる怒りがディアリンドの全身を包む。 「その方から離れろ!」 遅れて部屋に駆け込んできたエミーとロイスが、その惨状にそれぞれ小さく悲鳴を上げる。 「どうしてですか? 僕はケイト様に望まれて、こうしているんですよ?」 セリクの言葉に、ディアリンドは息を止めた。 ……そんな、まさか……。 「寝ぼけた事言ってんじゃねぇ! 兄ちゃんからすぐ離れろ!」 動きを止めたディアリンドの脇をズンズンと大股で通り過ぎたアオイはそのままベッドに乗り込み、乱暴にセリクの髪を掴んでそこから強引に引き摺り下ろした。 「いっ、痛っっ、なんでこんな……」 「うるせぇ! てめぇは黙ってろ! 殺されたいのか!!」 口を開きかけたセリクを、髪を掴んだままのアオイがグイと髪を引き上げて脅す。 「ディアもこんな言葉を真に受けるな! 現状をよく見ろ!」 アオイの一喝で、ディアリンドは呼吸を取り戻す。 そんなディアリンドを嘲笑ったのはセリクだった。 「その人はダメだよ。言ったって無駄だ。だって全然見えてないもん」 「黙れ」 アオイの圧にもセリクは怯まず喋り続ける。 「ケイト様が帰るとこなんか見てないのに、帰ったと思ってた? アンタにとってケイト様はその程度なんだろ? ケイト様があんなにアンタのこと考えてんのに、アンタはケイト様を悲しませてばっかりじゃないか! アンタがケイト様を受け取らないんなら、僕がもらったっていいだろ!?」 苦しげに叫んだセリクを、アオイが蹴りつける。 しかしその細い脚では体格の良いセリクを蹴り飛ばすには至らない。 「誰がてめぇみたいな奴に大事な兄貴をやるもんか! てめぇは死ね!」 アオイは両手をセリクに向ける。 術の構成を始めるアオイを一瞥してセリクは言った。 「僕が死んだらケイト様も死ぬよ?」 「は?」 片眉を上げたアオイの後ろで、ディアリンド達は顔色を変えた。 「まさか……!」 「兄貴がお前みたいなクズの後なんか追うか!」 「アオイ様! お待ちください!」 エミーの制止の声に、アオイは術を霧散させる。 「なんだってんだよ」 「……止めなくてよかったのに」 セリクがポツリと零した言葉にアオイが怪訝な顔をする。 「ケイト様には僕が死んだら発動する呪印を刻んであるから……」 セリクの言葉にアオイは頬を引き攣らせた。 「な、何だよそれ……」 アオイが確かめるように後ろを振り返ると、ディアリンドはケイトの無事を確かめるように懸命にその輪郭を見つめ、エミーは悲痛な面持ちで俯き、ロイスは怒りに拳を握りしめてセリクを睨んでいた。 「……はぁ!? マジでそんなんあんのかよ!?」 アオイの叫びに、ディアリンドとロイスから悔しげな答えが返る。 「……はい」 「残念ながら……」 アオイは舌打ちしつつ、ベッドに力なく横たわったままの兄に駆け寄る。 それに続いたエミーが素早くケイトの衣服を整えると、ディアリンドがその身体を抱き抱えた。 アオイはその役目を担えない自らの細腕に眉を顰めつつも「絶対離すなよ」とディアリンドに告げる。 「はい」とディアリンドは低い声で答えた。 ロイスは部屋の外に人の気配を感じて振り返る。 「僕は、ケイト様が世界で一番好きなんだ! 他の誰かじゃダメなんだよ! ケイト様が……ケイト様でないとダメなんだ!!」 まるで正当性を主張するかのように声高にセリクが叫ぶ。 それを真っ向から否定したのはアオイだった。 「はあ!? オレ以上に兄貴が好きな奴なんか、いねーし!!」 「!?」 セリクが思いもよらない答えに瞠目する。 それは、ディアリンドも同様だった。 「兄貴じゃなきゃダメな奴なんて、てめぇひとりじゃねーんだよ!! そんでも、兄貴はひとりだけなんだ! 誰かが勝手にその気持ちを押し付けていいわけねーだろ!?」 騒ぎを聞きつけて、セリクの宿舎の扉の前にいくつかの人の気配が集まり始める。 遮音の術が破れた事で、外に叫び声が漏れていた。 騒ぎになるのはマズイと判断したのか、ロイスとエミーが部屋の外へ対応に出る。 部屋ではアオイが両拳を強く握りしめていた。 「本当に大事なら……、相手の気持ち無視してこんな事できるかよ……」 ディアリンドは、アオイの言葉に、腕の中で眠る情事の痕を色濃く残した人の姿を見つめた。 その頬にはいく筋も涙の跡が残り、眉はまだほんの少し苦しげに寄せらせていた。 その姿に、ディアリンドの心が軋む。 どうして……。 どうして私は、こんなに近くにいらしたケイト様に、3か月もの間気づく事ができなかったのか。 以前ケイト様が攫われた時のように、せめてその日のうちに助け出せていたら、こんなに長い間辛い思いをさせ続ける事はなかっただろうに……。 不意にあの時ケイト様に言われた感謝の言葉が蘇る。 『俺はディアリンドなら絶対来てくれると思ってたから全然不安じゃなかったし、ディアリンドが来てくれるのを待つ間も楽しかったよ。助けに来てくれて本当にありがとう。ディアリンドが来てくれて、俺、凄く嬉しかった……』 もしこの方が、あの時と同じように私を待っていたとしたら……。 私はいったいどれほど、この方を悲しませてしまったのだろうか。 「む、無理矢理とかじゃない! ケイト様は僕に許してくれたんだよ!」 「どーせ泣き落としたんだろ!? 兄貴は本っっ当に人がいいんだよ! 自分に縋る相手を突き放すような事、できるわけねーだろ!?」 「っ……!」 セリクが言い淀む。 それは肯定と同じだった。 アオイの瞳に一層の怒りが宿る。 アオイは床に座り込むセリクにビシッと指を突きつけ叫んだ。 「てめぇは兄貴の優しい心を利用した最っっっ低のクズヤローだ! 兄貴が許してもオレはてめぇを許さねーからな!!」 外をロイスに任せたのか、エミーが部屋に戻ってくる。 部屋の外にいる人の気配は随分と減っていた。 アオイはエミーを見て言う。 「兄貴を安全な場所に移したい。当てがあるか?」 「安全な場所、ですか……」 エミーは思案する。 今まで使っていた教会の部屋に戻っては、教会の者達の中にはケイト様にこれまでどこで何をしていたのかと尋ねる者もあるだろう。 それは、この方のお心を傷つけてしまうはずだ。 どこか、人目に触れない場所で、この方の安全を守れる場所が……。 手を挙げたのはディアリンドだった。 「私の屋敷はいかがでしょうか」 青く深い色の双眸が、アオイをまっすぐ見つめる。 「ディアの家か……。そこなら兄貴が不自由なく安全に過ごせるんだな?」 濃紫の瞳に念を押されて、ディアリンドはしっかりと頷き返した。 「私が必ず、そうします」 「分かった。じゃあそこにオレが自由に出入りできるようにしろ。できるな?」 「はい」 ディアリンドは頷いて立ち上がる。 腕の中で眠るその人を、一層大切に抱き上げながら。 アオイはディアリンドに歩み寄ると、兄の目尻に残った雫を指の背で優しく拭った。 それから、アオイの視線は再度セリクに向く。 「こいつはどうすっかなぁ……」 今は殺すわけにいかないが、かといってこのまま野放しにしておくつもりはない。 アオイの言葉にディアリンドは「屋敷の牢に入れましょうか」と提案する。 「あんまこいつを兄貴の近くに置きたくねーんだけど……」 「恐れながら、呪印には距離が離れるだけで発動する物もあります。この舎宅と魔法研究所ほどの距離からあまり離さない方が良い可能性があります」 「はぁ!? ……マジかよ」 ディアリンドの助言に、アオイは眉を顰めてセリクを睨んだ。 しかしセリクはアオイを見る事もなく、ひたすらに、ディアリンドの腕の中にいるその人を見つめ続けていた。 その執拗な視線に、アオイは思わず兄の姿を背に隠す。 「条件を考えますと、致命的な術とは考えづらいですが……」 ディアリンドの言葉には、それでも、この方をこれ以上少しも辛い目に遭わせたくないのだという意志が込められていた。 「わかった。そんじゃそれで。絶対兄貴に近付けんなよ」 「はい、必ず」 ディアリンドはアオイの言葉に決意を込めて答えると、深く頭を下げた。

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