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交わる心

ディアリンドは、ルクレイン邸の広い敷地の隅に建つ離れ屋敷に彼を移動させた。 身体を清められたケイト様は、大きな天蓋の付いた客人用のベッドでお休みになっている。 ケイト様は手足の枷を外され治癒魔法がかけられたが、既に繰り返し傷を治された部分に残った治癒痕は消えなかった。 ベッド脇に立つアオイ様は、悔しさを握りつぶすように両拳を震わせていた。 「……兄ちゃんに傷を残すのは、オレだけで十分なんだよ……」 アオイ様が涙を見せる事は一度もなかったが、ぽつりと足元に落とされたその言葉は、まるで涙のようだと思った。 その夜、アオイ様とロイスが渋々教会へ帰ると、部屋には私とケイト様の2人だけになった。 私はアオイ様が立っていたところまで歩を進める。 私は今……、傷付いた彼の枕元に立つ事を許されているのか……。 胸に、この方を今度こそなんとしても守らなければならないという強い使命感が燃え上がる。 エミーはあの後すぐ教会に戻っている。 早ければ明日にも司祭様の許可をいただいて、正式にケイト様付きの侍女としてこの方のそばに侍るつもりのようだ。 ロイスは私の抜けた穴を補う形でアオイ様の側についた。 元々ロイスは3年間ケイト様に仕える予定だったので、急に戻った今年の任務にそう重要なものはなかった。 しかし、私は小隊長として1小隊を任されている。急に抜けるには代役が必要だった。 いつだって何も言わずに我々をフォローしてくれるロイスには、感謝してもしきれないな……。 「……ぁ……」 小さなお声に、私は肩を揺らして布団の中で目を閉じるケイト様をじっと見つめた。 お目を覚まされるだろうか。 ここが私の屋敷だと知ったら、どう思われるだろうか。 私を、セリクのような人攫いだと思ってしまわれたら、なんと説明をすればいいのか。 そんな事で頭がいっぱいになる私の前で、ケイト様は目を開く事なく静かに涙を零した。 その透明な雫に、思わず息が詰まる。 心臓がぎゅっと握り潰されるようで、私は零れる涙を拭き取ろうとベッドに身を乗り出した。 その時、ケイト様の唇が弱々しく言葉を紡いだ。 「あ……、や、だ、やめ……っ、やめて、セリク……」 そんな、まさか……。 ケイト様の口から出たのはセリクの名だった。 この方は今も、夢の中でセリクに嬲られ続けているというのか。 「……もう、こんな事……、や、やめ、やめて、お願い、セリク、もう、やだ、も……ぅ、やめ、て……お願い……だから……」 延々と繰り返される懇願の言葉は、哀しみと苦しみに満ちていた。 こんな……、こんな思いをこの方にずっとさせていたなんて……。 こんなことが、毎夜繰り返されていたというのか? 私の勤める教会の、目と鼻の先で……? 痛烈な自責と懺悔と怒りに、力を込め過ぎた視界が赤く滲む。 これは全て、私に責がある。 この方は再会を求めた私のために……、私の心に応えようとして、こちらに来てくださったというのに……。 なのに、私はそのお心にずっと気づかぬままで……。 その結果、この方はこんな惨たらしい目に遭ってしまわれたのだ……。 私は震える指先でハンカチを握って、ケイト様の閉じた瞼から溢れる涙をできる限り優しく拭う。 しかしその雫は、終わらない悪夢の前にゆっくりと、とめどなく溢れ続けた。 どうすれば……。 どうすれば、私は、この方の涙を止める事ができるのだろうか。 悪夢ならば、起こして差し上げる方が良いだろうか。 医者にはなるべく安静にと言われたが、私が彼に触れて、揺り起こしてしまっても不都合はないのだろうか。 悩むうちに、ケイト様の表情が苦しげなものへと変わる。 後悔に染まるような悲痛に寄せられた眉。浅く苦しげな呼吸。私が意を決してその肩に手を伸ばした時、ケイト様の唇が動いた。 「リン……ごめん……」 あまりに悲しげなその声に、私は思わずケイト様の体を起こして腕の中に強く抱きしめていた。 思ってもみなかった自分の行動に驚く私の腕の中で、ケイト様がとろりと瞼を開いた。 「リン……?」 耳元で呼ばれたのは、あの頃あの方が2人きりの時にだけ甘く囁いてくださった愛称だった。 「……そんなわけないか……」 残念そうな声に、私は慌てて体を離して彼の顔を覗き込む。 私の顔が、彼によく見えるように。 すると、彼は優しく微笑んだ。 「ああ、リン……。ずっと会いたかった……。夢でも……会えて嬉しいよ……」 途端に私の胸はいっぱいになってしまう。 どうしようもなく嬉しくて、胸が苦しい。 どうしてこの方はいつも私にそんな優しい言葉をくださるのだろうかと、ずっと不思議だった。 けれどようやく、鈍い私にもわかった。 この方が私に特別お優しいのは、私のことを特別大事に想っていてくださるからなのだと。 私の見つめる前で、ケイト様は悔しげに眉を寄せた。 「ずっとずっと、謝りたかったんだ……。あの時……、俺は本当は男なんだって……言えなくて、本当に……ごめんな……」 私は痛感する。 私があの頃何も見えていなかったせいで、彼はこんなにも後悔していたのだと。 言えなかった過去と、それを謝りきれない日々に、どれほど心を痛めていたのか……。 謝らなくてはならないのは私の方で、貴方に落ち度などないのに……。 愕然とケイト様を見つめ続けるうちに、ケイト様はそっと頭を下げた。 「ずっと、寂しい思いさせて、ごめんな……」 私は慌てて首を振る。 こんな愚かな私の胸の内などを貴方が気に病む必要はどこにもないのだと、分かってほしかった。 「ケイト様が謝る必要など、どこにもありません」 私は精一杯心を込めて伝える。 この方をほんの少しも傷つけたくないと心から願っているのに、愚鈍な私はいつもこの方を悲しませてばかりだ。 こんな私を想うなど、もうやめてしまったほうがこの方のためではないだろうか。 しかしそう思ったのは私だけではなかったらしい。 「もう俺の事は忘れて、幸せになってほしい……」 悲しげに瞬いた黒い瞳が、私の視線から逃れるように逸らされた瞬間、私は愛しい人をもう一度腕の中に閉じ込めていた。 いくら貴方の頼みでも、そんなことは不可能だ。 天地がひっくりかえっても、その願いだけは叶えられそうにない。 「貴方を忘れるなどできません!」 思わず強くなってしまった私の声に、抱きしめられたケイト様の体がびくりと揺れる。 「え……、なんで、ディアリンド……、まさか本当に……?」 ケイト様の声には困惑と喜びが混ざっていた。 けれど「どうして……」と記憶を辿ろうとした途端、彼の呼吸は大きく乱れた。 「ケイト様大丈夫です。もう大丈夫ですから、どうか……」 もう、そんな事は思い出さないでください。 セリクに穢された記憶など、この方には二度と辿らないでほしいのに、私にはそれを止める事ができない。 「や……、嫌だ、俺……っ」 震えているのは声だけではなかった。 恐怖に襲われるケイト様の身体は酷く震えていた。 呼吸は浅く早く繰り返され、このままでは良くないとすぐ分かった。 「ご安心ください。私がお側におります。落ち着いて、ゆっくりと息をなさってください」 どうすればこの方をお慰めできるのか、必死で考える私の耳に、涙に濡れ滲んだ声が届く。 「ぁ……、俺……、リンに、あんな姿……見、見られ……」 私は瞠目する。 そして、今度こそ正しく状況を把握した。 この方が怯えているのは、身体を暴かれた事ではない。 それを私に知られたことで、今、私がどんな反応をするのかが怖くてたまらないのだと。 「私は何も見ておりません!」 私は力強く彼の身体を抱きしめたまま、ハッキリと答えた。 「……え……?」 驚きの伝わるその声に、そのお顔がのぞいてみたくなって私はそうっと体を離す。けれどその手は離すことなく、ケイト様の両肩をしっかりと支えている。 ケイト様は瞳に浮かべた不安を隠すこともできないままに、私を見上げていた。 私は、ケイト様の黒い瞳をなるべく優しく見つめて告げる。 「貴方が見るなとおっしゃるなら、私は何も見ません。貴方が聞くなとおっしゃるなら、そう致します。ですからどうか、ご安心ください」 「ディアリンド……」 「ケイト様……」 「ぁ……俺の、名前……」 私が『ケイト様』と呼んだだけで、頭の良い彼には私が何を理解したのか分かったらしい。 「ぇ、……ぁ……」 大きく瞳を揺らしたケイト様は、どうしたらいいのかまるで分からないという狼狽えた様子で、両手で顔を覆ってしまった。 私はそんなケイト様をそうっと胸に抱き寄せて、心を込めて伝える。 「ケイト様、私は貴方様が何より大切なのです。どうか私に貴方様のお側に仕えることをお許しいただけませんか……?」 「俺……、俺で、……こんな……、俺でも、ディアリンドはいいの……?」 ケイト様はどこか怯えた様子を残しながらも、わずかに喜びを滲ませて尋ねてくださる。 そんなに私を思ってくださっていたなんて……。 それを今までこんなにも長く、気付かずにいたなんて……。 「私こそが、そう思っております。こんな私で……こんなに貴方様を傷つけてしまった私でも、お側をお許しいただけるでしょうか……」 私は先ほど初めて知った。 自分を忘れて幸せになってほしいと願われても、私は絶対に彼を忘れたくなかった。 そして、それはきっと……彼も、同じなのだ。 私を忘れて他の方を想ってほしいと伝えたところで、彼を笑顔にはできないだろう。 それならば、2人で共にある方が、きっとずっと良い。 腕の中で彼がじわりと顔を上げる。 私はゆっくりと腕を緩めてその黒い瞳を見つめ返す。 ああ、本当によかった。 彼の瞳から恐怖と不安の色は随分と薄れていた。 「ディアリンドが……俺の……側にいてくれるの……?」 かわりに、彼の黒い瞳には、ほんの少しの期待が浮かんでいる。 それが私にはたまらなく嬉しい。 「許されるならば、私をずっと貴方様のお側に控えさせてください」 彼が望んでくださるならば、護衛騎士を辞めることも構わないと思えた。 しかし、私の言葉を耳にしたケイト様は、悲しそうにそっと目を伏せてしまった。

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