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ティッシュがわり

 衝撃を覚悟してギュッと体に力が籠る。 「きゃあっ!」「ぶつかる!」  上がった悲鳴は周囲からだった。  けれど、俺に迫ったブランコが俺にぶつかる事はなかった。  俺がそっと目を開けると、リンは女児ごとブランコをしっかり抱き止めていた。 「ケイトさ……、ケイト、お怪我はありませんか」  突然の急停止に「ふぇ?」とリンの腕の中で女の子が驚きの声をあげる。 「よかった……。ありがとう、リン。俺は大丈……」  答えかけた時、俺の隣で女性が「おぇっ」と苦しげに呻いて身を震わせた。 「す、すみません急に!」  俺が大慌てでパッと身を離すと、女性が更に「うぇぇ」と体を揺らす。  これはもしかして……吐く!?  俺が反射的にコロッケが入っていた紙袋を開いて差し出したのと、彼女が吐いたのはほぼ同時だった。 「大丈夫ですか!?」  俺は思わず苦しげな女性の背をさする。  吐いた女性は、目に涙を浮かべて言った。 「コロッケの、におい、無理ぃ……」  その言葉に、俺は慌てて袋を回収する。  袋の口を閉じている内に、彼女は自前のエチケット袋のような物を広げた。  ん……? 彼女は吐く準備をしていた……?  しかし、体調が悪い状態でわざわざ公園に来るだろうか。 「ママだいじょーぶ? またおえってしちゃったねぇ、よしよし……」  リンが地面に降ろした女の子が、やれやれといった様子で女性のそばに回るとポンポンと頭を撫でる。 「う……ごめん、今は触んないで……」  苦しげな言葉に、女の子はしょんぼりと手を引っ込める。  吐く事に慣れた様子の母と子……。  それでも公園に来ている時点で病気とは考えにくいし……。  これはもしかして、つわりだろうか。  だとしたら俺は随分と無神経なことをしてしまったのかもしれない。  それどころか、そもそも彼女が具合を悪くしたのは、俺達がこんなところでコロッケを食べていたからではないだろうか。 「すみません、俺達がこんなとこで食べてたから……」  謝罪をしながら俺は彼女から距離を取る。  コロッケを食べていた俺達は、2人ともコロッケの匂いを放っている気がしたからだ。 「ぅう……」  蹲ったまま青白い顔で小さく呻く彼女に、俺は思わず手を翳し浄化をかけてしまう。  病気じゃないなら治癒は効かないだろうけど、浄化でせめて少しでも不快な気分が抜けますように……と願いながら。  この眩い日差しの中なら、ちょっと光るくらい目の錯覚だと思ってくれるんじゃないかな。  あ、なんとなく彼女の顔色が良くなったような気がする……。 「……ぇ……これ……?」  彼女の驚いたような声に続いて、女の子が目を丸くして言った。 「わー、ママとおんなじ、キラキラだぁ」  同じ……? 「おにーちゃんのじょーか、とってもきれいねぇ」 「……え?」  女の子の言葉に、今度は俺が驚いた。  ***  昼下がりに差し掛かり始めた公園では、舞い散る桜の花びらの中で、沢山の親子が春のひと時を楽しんでいる。  俺はブランコ脇のタイヤに腰かけて、膝の上に幼い少女を乗せてブランコを漕ぐリンを眺めていた。  女の子……2歳の実玖(みく)ちゃんはとってもお喋りで、休むことなく延々とリンに話しかけている。  うんうんと実玖ちゃんの話を聞き続けるリンは、将来良いパパになりそうだ。  ……彼に将来子どもができるなら、だけど……。  俺の隣で同じようにタイヤに腰かけて2人の姿を眺めているのは、吐き気もすっかりおさまったというママさん、朝陽 七凪 (あさひ なな)さんだ。 「それにしても、近所の公園でバッタリ元聖女に遭遇するなんてねぇ……」  七凪さんは感慨深げにそう言った。 「俺も、実玖ちゃんに浄化って言われてびっくりしました。七凪さんはよく浄化を使うんですか?」  そんなに頻繁に使うほど、つわりは辛いのだろうか。  症状は人それぞれだと聞くけれど、俺の浄化でよければまだまだ余力があるし、俺に何かできることがあるだろうか……。 「ほら、浄化って何でも汚れが落ちるでしょう? ついつい便利に使っちゃうのよ、ウェットティッシュがわりに」 「ティッシュがわり……」  ティッシュがわりに使うのは、流石に浄化が可哀想では? と一瞬思ったけれど、確かに自分もそれに近い使い方をした事はあるな……。  穢れも、血も汗も涙も、泥汚れも、確かに大概の不浄は何でも浄化で落ちる。 「あはは、だってこっちには魔物も穢れもないんだもの」  明るく笑われて、俺は軽く衝撃を受ける。  そうか。俺達はこの世界で、魔物に襲われることはないんだ……。 「けど、浄化がつわりにも効くなんて、もっと早く試してみればよかったなぁ……」  あれ? そんなに日常的に浄化を使っているなら、当然つわりにも試していたんだと思ってたけれど……。  俺が不思議そうな顔をしていたのか、七凪さんは「ほら、怪我や病気には浄化って効かないでしょ?」と言う。  俺はここ最近体調を崩していなかったのでその辺は試したことがないけれど、そうなんだなと思いながら頷いてみる。  けれど浄化がもし『人に害をなす物質を除去する』という作用で原因菌とか原因物質を除去できるなら、二日酔いにも効きそうな気がするし、風邪にも多少は効きそうな気がする……。  機会があったら今度試してみよう。 「ディアリンド君は向こうから連れて来たの?」  急に問われて、思わず動きを止める。  これは……、頷いてもいいところだろうか……。  返事に迷う俺の態度を肯定と取ったのか、彼女は続けた。 「私と一緒ね。私の夫も向こうの人なの」 「え……」 「もう7年前になるかしら……。戸籍が無いから最初は本当に色々大変だったわぁ」  俺は思わず尋ねる。 「あっ、あのっ、旦那さんは今、お元気なん……ですか……?」  これだけは、今一番の懸念事項だったから聞かずにいられなかった。 「ええ。今日も会社でお仕事頑張ってくれてるわよ」  さも当然とばかりに答えられて、俺は盛大に安堵の息を吐いた。 「そっかぁ……。……よかったぁぁぁ……」 「……もしかしてディアリンド君はこっちにきて日が浅いの?」  ん? 彼女の声がどこか冷たくなったような……。 「ええと、彼は昨夜こちらに来たばかりで、今日が初めての外出なんです」 「それは……本当に直後だったのね。そう……。まだあそこは続いてるの……。しぶといわね……」  言葉の終わりは小さすぎて聞き取れなかった。  ふむ。と彼女は顎に手を当ててなにやら考え込むような仕草をする。 「もう二度と関わることはないと思ってたんだけど」と彼女は小さく呟いてから、俺をまっすぐ見て「向こうの様子を少し尋ねてもいいかしら」と言った。

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