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明日の約束

 私の問いに、ケイトは少しだけ驚いたように瞬いた。  それから、彼は慎ましく並んだ黒いまつ毛を小さく伏せた。  ……ダメだろうか。  私は、断られてしまうのだろうか。  私には……彼の弱い姿は、見せてはもらえないのだろうか……。  後退しそうな自身の心を、先ほどアオイ様にいただいた言葉で鼓舞する。  先ほど……夕食の前。  私は風呂場に向かうケイトを見送って洗面所の扉を閉めた。  そのまま、扉を背にして立つ。  今日、公園でしばらく立ち尽くしていたケイトは、その後も普段と変わらない様子で私に笑みを向け話しかけていた。  ……どうして彼は、私にその苦しみを見せてくれないのだろうか。  私はどうすれば、彼にとって全てを打ち明けるに足る存在となれるのか……。  そこへやってきたのはアオイ様だった。 「ディアは兄ちゃんが出てくるまでそこに立ってる気か?」  言われて、私は扉の前で待機していた自身に気づく。  そんなつもりではなかったが、体が勝手にそう動いていたようだ。 「いえ、リビングで待つようにと言われていました……」 「なのにお前がそこにつっ立ってたら、兄貴が気にすんだろ」 「はい……。申し訳ありません……」  思わず目を伏せた私の肩を、アオイ様がポンと叩いた。  励まされたのだろうかとアオイ様のお顔を見れば、小さな顎の動きにクイッと招かれる。 「ディア、ちょいツラ貸せ」  その貫禄すら感じさせる仕草は、相変わらず何とも悪役じみていた。  アオイ様の後につきアオイ様のお部屋に通される。  そこでは部屋に一つきりの机をセリクが完全に占拠していて、何やら計算式のようなものを延々と解いていた。  私が部屋に入っても、セリクはチラとも振り返らない。  そんな事でセリクはアオイ様を守る事ができるのだろうか、と一瞬思ってしまってから、セリクは自分とは役割が違うのだと思い直す。 「セリクの事は気にすんな。ゲートの件で、飯ん時以外はずっとあの調子だ」  それはつまり、セリクはケイトの為に持てる力を尽くしているということか。  ……何もできないままの私とは違って。  セリクはケイトとアオイ様のお役に立っているのだ……。 「ディア、よそ見すんな。よく聞け」  ぐい、とアオイ様に肩を引かれて、セリクを見ていた私はアオイ様の方へと向き直される。 「兄ちゃんは平気なフリすんのが上手いんだよ。でも、普通に考えて平気なはずねーんだ。分かるか?」  メガネの奥から鋭く私を見据えるアオイ様の瞳に、私は「はい」と深く頷きを返す。 「ったく、その七凪って女も余計なこと吹き込んでくれたよな」  アオイ様はガシガシと片手で頭を掻く。 「ディアはさ、フロウリアと兄ちゃんのどっちかしか守れないならどっち――」 「ケイトです」  アオイ様の言葉の終わりを待ちきれずに答えた私に、アオイ様は一瞬瞠目してから苦笑を滲ませ「早ぇな」と言う。 「けどお前にはまだ向こうに家族も仲間もいるだろ?」 「それでも、彼を失う事と比べるのなら、迷いはありません」  私がハッキリ言い切ると、アオイ様は足元に視線を落とした。 「……ディアは……両方守れると思うか?」 「まだ詳細が分からないので、現時点では何とも言えません」  正直に答える私に、アオイ様はご自身の首の後ろを撫でるようにしながら言う。 「オレとしては、場合によっちゃ兄ちゃんから昨日一日分の記憶を消すのもアリだと思ってる」  それは以前にも一度、苦しむケイトを救うためにアオイ様が選んだ方法だった。  けれど今回彼が辛いと感じているのは、起こってしまった事ではなく、これから起こるだろう事に対してだ。  アオイ様は……、その全ての罪を一人で被り、ケイトの為に見てみぬフリを貫き通す事ができると言うのか……。  私は……。  私には、アオイ様ほどの覚悟もなく、セリクほどの知識もない……。  こんなに頼りのない私では、ケイトが何も相談できないのも当然だ。 「だからさ、ディアは兄ちゃんに弱音吐かせてやってくんねーか?」  アオイ様の言葉に、私は弾かれたように顔を上げる。 「私が……?」 「今までこーゆーのはエミーが上手くやってくれてたんだけどな、今はお前しかいねーだろ? そんで、兄ちゃんが迷ってんのか心を決めてんのかをオレに報告しろ」 「わ、私……では……」 「ん?」  アオイ様はメガネの向こうから黒い瞳で私を射抜く。 「私では……ケイトのお心には、触れられないかと……」 「そんなん、お前ができなきゃ誰にもできねーだろ」  その言葉に私は衝撃を受けた。  それは……、私の方が、アオイ様やセリクよりもケイトの心の近くにいる……という意味なのだろうか……。  私は喜びに震え出しそうな両手を強く握りしめる。  アオイ様はそんな私の背をバシンと力強く叩いた。 「ちったぁ自信持て。お前はオレの兄ちゃんが認めた唯一の男なんだぞ?」  アオイ様は私にそうおっしゃった。  ケイトの認めた唯一が、私だと……。  私は躊躇いを浮かべるケイトを期待を込めた瞳で見つめる。  ケイトは申し訳なさそうな表情で、口を開いた。 「今夜はちょっと……明日があるから……」  控えめな、けれども明確な拒絶に息が詰まる。  けれど、ここで引くわけにはいかない。  私はアオイ様からの命を完遂しなくてはならない。 「では、明日ならどうだろうか……?」  私の声は、自分が思うよりも熱っぽく聞こえた。  ケイトも私の熱を感じてくれたのか、その頬がカアッと染まる。  ああ、彼はなんて美しいのだろうか。  優しさで全てを隠して弱さを見せないその姿は、どこまでも気高く強い。  そんな彼の一番近くを私は……私だけが、許されている……。  歓喜に思わず伸ばしてしまった手で、私はケイトの髪を撫でる。  短めの髪がサラサラと私の指の間で踊る。  私が顔を寄せると、彼はそっと目を閉じた。  唇に精一杯の敬愛を込めて、彼の柔らかな唇に重ねる。  喜びがどうしようもなく私の胸を震わせる。  顔を離して見つめると、彼は黒い瞳で私を見上げて「あ、明日の夜……なら……」と答えてくれた。  許しをいただけた僥倖に、心臓が早鐘を打つ。  私はごくりと唾を飲んでから、精一杯紳士的に微笑んで答える。 「ありがとう。……楽しみにしている」  ケイトは私の言葉にさらに頬を染めて、慌てて私に背を向けるように寝返りを打った。 「じゃ、じゃあまた明日、ね。……おやすみ、リン……」  恥ずかしそうなその声に、背を向けてしまったその顔が見たくてたまらなくなる。  それでも、私は明日の約束を胸に大人しく布団に戻った。 「おやすみなさい、ケイト」  愛を込めて囁くと、もう一度小さく「おやすみ」が返ってくる。  それが本当に嬉しくて、堪えきれずに弛む口元を布団で隠す。  私は、これまでもこれからも、彼の為に全てを捧げる決意を固めながら眠りについた。

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