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ピアノを弾く人
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結界柱の中で、俺は自分の体をしっかり意識して、それから目を開く。
結界柱の底には、暗く澱んだ澱みの中に蹲るようにして、人影があった。
まだこの柱は俺達の時間で9か月前に立てられた柱だもんな。
怪我を負っても、自分の姿を見失うほどの時間は経っていないか。
俺は慎重に、なるべく相手を刺激しないよう気を配りながら声をかける。
『こんにちは、初めまして』
俺の言葉に、その人はゆらりと立ち上がった。
腰下までありそうな長い黒髪が、結界柱の中でゆらゆらと漂い揺れる。
まるで全ての感情を失ったかのような、そんな虚ろな顔が、ゆっくりとこちらへ向けられる。
何も映していないような、底なしに真っ黒な瞳が、俺を見た。
ぞくりと背筋が凍えて、肌が粟立つ。
ダメだ! 彼女を怖がるな!!
俺は怯える自身を叱り飛ばして、なるべく温和に微笑んだ。
『俺は芦谷 圭斗(あしや けいと)、大学生だよ。君は高校生かな……?』
『……ぇ……?』
彼女に纏わりつくようなドロドロとした黒い闇が、ゆらりと揺れる。
揺れたそれはただ揺れただけで、攻撃に転じる様子はないけれど、薄まる様子もない。
どうする……?
フロウリアの話はなるべく避けて、彼女の意思がはっきりするまでは、向こうの世界の話をするべきか……。
『君は何年生かな? 俺は大学1年生だよ。あ、ナンパとかじゃないから、心配しないでね』
俺は恐怖を抑えて、軽く肩を竦めて明るく笑って見せる。
それだけでも、ほんの少し空気が解けたような気がした。
『私……、私、は、……高校2年で……』
高2……、未受験のパターンは免れたか。
彼女を半分以上覆っていた黒い闇が、ゆらゆらと揺れながら、少しずつ彼女の足元へ溜まる。
彼女の姿は見やすくなったけれど、闇が減る様子はない。
俺は内心で冷や汗をかきつつも、のんびりした声で話を続ける。
『高2かぁ。高校は家から近いの? 通学は徒歩? 電車かな?』
『……私は、自転車で……』
後は……どんな話題ならセーフなんだ!?
進路とか、親兄弟や友達の話は、そこから一気に覚醒するとマズい可能性があるよな……。
9か月前といえば、7月か……。
夏休みの予定でも振ってみるか? それも危険か……?
『自転車通学なんだね。自転車はどんなのに乗ってるの?』
『自転車は、赤い…………――』
不意に言葉を途切れさせた彼女の周りで、ざわりと闇が揺れた。
『赤……、そう……赤くなって、目の前が……全部、何も……見えなくなって……』
ぐい、と実体の左手を引かれる感覚に、俺は抵抗する。
まだだ!
まだもう少し、待っててほしい、リン!!
『大丈夫だよ、君の目は俺が治したから。俺を見てごらん』
俺の言葉に、リンが手を引くのを止める。
彼女の瞳が、ようやく光を宿して俺を見る。
そうか。彼女の瞳がずっと虚ろだったのは、彼女は自分の目が見えるようになったことを知らなかったからだったのか……。
『ぁ……見える……。本当だ、私、ちゃんと見えてる……っ!』
彼女を包んでいた黒い闇がサラサラと霧散してゆく。
『ふふ、よかった』
俺が微笑むと、光を取り戻した彼女の瞳から涙が溢れた。
『あっ、ありがとうございますっ、あのっ、えっと……』
『俺は芦谷 圭斗、好きに呼んでくれていいよ』
『芦谷さん……。あ、私は滝川 澪(たきがわ みお)です』
『滝川さんだね。初めまして、よろしくね』
『はっ、はいっ。こちらこそ、よろしくお願いしますっ』
落ち着きを取り戻した様子の滝川さんに、俺は順を追って説明する。
自分が滝川さんと同じ元聖女であること、ここは結界柱の中であること。
ピアノが特技で趣味だという滝川さんに、ピアノがまるで目の前にあるかのように詳細に思い浮かべられるかと尋ねてみる。
彼女は『できます!』と胸を張って言った。
それなら……と、俺は滝川さんに結界柱の中でイメージを具現化する俺なりのコツを教えてみる。
すると、滝川さんは見事に立派なグランドピアノを結界柱の中に生み出した。
そうか、後から結界柱に入れられた元聖女達は、魔力制御を教会で教わっているから基礎ができてるんだな。
滝川さんは大喜びして、椅子を出して座るとポロンポロンと白鍵を叩く。
俺は色々と話をして、すっかり落ち着いた様子の滝川さんに、目について尋ねることにした。
『実は、滝川さんの入っている結界柱の周辺地域では、目の悪い人が多いんだ』
俺の言葉に、滝川さんはちょっとバツの悪そうな顔をしてから、正直に答えた。
『あー……、それは確かに、私のせいかもです。私、目を潰されて、捕まって、意識を失うまで、正直めちゃくちゃ呪っちゃいました。私をこんな目に遭わせた人もみんな私と同じように目が見えなくなればいいのに……って』
『それはそうだよね。きっと俺でもそう思うよ』
それなのに、そう言う彼女の周囲にはほとんど闇は浮かばなかった。
思い出した時にほんの少し漂ったそれも、俺の言葉に合わせて霧散する。
そうか……、あれは呪い……、目を奪われた元聖女の、呪詛だったのか……。
『でも関係ない人達がそれで困っちゃうのは、申し訳ないですね』
『それなら大丈夫だよ、俺が明日村の人の視力を治して回るから』
『芦谷さんが、一人で……村の人を全部、ですか……?』
『うん、まあぼちぼちやるよ』
笑って答えると、滝川さんがちょっと難しい顔になる。
『……でも、これが私の呪いだとしたら、それをあんまり一気に解くと、芦谷さんにも何か影響が出ませんか……?』
『え、そうかな……? 昨日は村の子ども達を結構治したけど、今は何ともないよ?』
『それなら良いんですけど……。あんまり無理しないでくださいね』
自分の尻拭いをさせるようで申し訳ないと謝る滝川さんに、俺は大丈夫だよと笑って答える。
『また必ず会いにくるから、もう少し待っていてくれる?』
『ピアノがあるからいくらでも待てますよ』
滝川さんはそう言って、一曲聞かせてくれた。
『この曲知ってますか?』
尋ねられて、俺は音楽に疎いことを平謝りする。
きっと蒼なら流行りの曲は大体抑えてるんだろうな。
期待に添えず申し訳ない。
俺も向こうに戻ったら、流行りの曲とかを少しは聞いておいたほうがいいかもしれないな……。
滝川さんと和やかに別れて、結界柱から戻る。
ふっと目を開いた途端に、ぐいと左手を引かれて、俺はリンの腕の中に包まれてしまった。
「ケイト様……」
耳元でリンの感極まったような声が聞こえた。
次いで、クロイスとヒアッカが声を上げる。
「ケイト様! ご無事で本当に……良かったです……っ!」
「やっぱケイト様はすげーっス! 最強聖女様っス! カッケーっス!」
うん……?
今回って、別に戦うような場面はなかったよね?
中の様子を知らないはずのドルーグとカイルとフォーンにもよかったよかったと安堵の籠った労いの声をかけられる。
あ、もしかして今回は入る前の反撃でぶっとい生木が2本、木っ端微塵になったからかな?
すごい音立てて吹き飛んだよね。
確かにちょっと……迫力はあったけど……。
俺達が中でも危ない目に遭ってるんじゃないかと心配して……?
……まあ、確かに、そう安全ではなかったけど……。
ラドムやアークが声をかけてくれる向こうでは、シヴァルも静かに微笑んでくれている。
「ありがとう皆、もう大丈夫だよ。戻ろうか」
俺は、俺を抱えたまま放そうとしないリンに根負けして、リンの抱っこで馬車に向かう。
こんな格好のままでごめんなさい、と謝りながらも、俺は馬車までの道で、騎士団長さんにあの村に視力が悪い人が多く出た原因について説明した。
「そんなわけで、あの村の人達に浄化と治癒をかけたいのですが……」
俺がお願いすると、騎士団長さんは困った顔で苦笑してから、あの村への滞在を伸ばしてでも、俺があの村で納得いくまで治癒にあたって良いと許可をくれた。
「まだキリアダンを出てすぐですから、ケイト様のお力でしたら、いくらでも後で取り戻せるでしょう」
そう言って笑ってくれる騎士団長さんには、本当に感謝しかない。
「いつも余計な仕事を増やしてしまって、本当に申し訳ないです……」
俺が心から謝ると、騎士団長さんは「ケイト様との巡礼は、私にとって生涯忘れられない巡礼になりますよ」と楽しそうに答えてくれた。
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