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「なんだそれ」 「……パセリ」  窓の前に置かれた小さなプランターを見て、蓮が怪訝そうに片眉を上げる。望夢は居心地悪くそう返答すると、プランターの横に殺虫剤を静かに置いた。よくよく考えると、室内で育てるのに殺虫剤は必要なかったかもしれない。恐らくアキはベランダ菜園のようなものを想像していたのだろう。 「なんでパセリ?」 「いや……その、なんとなく……」  一緒に買った農薬はキッチンの隅に隠している。今夜にでも使うつもりでいるが、そう思うと妙に口が乾いた。無意識のうちに生唾を呑み、パセリから目を逸らす。復讐の道具を買いにいっただけのはずなのに、生活に彩を与えるようなものを買ってしまうなんて。  望夢は静かにソファへ移動すると、無言で小さく膝を抱えた。夕飯時までまだ少し時間があるが、これといってやることもない。しいて言うならば心の準備をするくらいだ。蓮は冷蔵庫から缶ビールを取り出し、望夢の隣にどかりと腰掛けた。プルタブの上がる軽やかな音が響き、蓮が豪快にビールを呷る。規則的な喉の音を聞いていると、やがて「ぷはぁ」と唸る声が聞こえた。 「おじさんくさい」 「おじさんじゃないけどな」  望夢の小さな暴言を、蓮はなんてこともないように受け流す。そういえばこの男は一体いくつなのだろうか。顔立ちは若々しく肌もハリがあるのに、目の下の薄い隈はくたびれた中年の雰囲気を作っている。ちらと横目で蓮を観察していると、眠たげな瞳がゆっくりとこちらを向いた。夜空を思わせる漆黒と視線が重なり合う。ぱち、そう音がしたのは気のせいだろうか。望夢は小さく飛び上がり、逃げるように顔を背けた。 「いや、中学生から見りゃ、ハタチ超えたらみんなおじさんか」 「だから中学生じゃない! ……っていうか、二十代なんだ」 「どう見てもそうだろ」 「いや、分かんないよ」  それきり二人の会話は途切れ、テレビもない部屋にむず痒い沈黙が充満する。別にこの男相手に気まずくなる理由もないが、それでも落ち着かないものは落ち着かなかった。蓮はまるで気にもしていないかのように、缶ビールを口に運びながらぼうっとどこかを眺めている。 「……あのさ。あんたは、殺し屋なんだよな?」  おずおずとそう問いかければ、蓮が静かな視線を寄越す。こうして見ていると、まるでどこにでもいる普通の中年のようだった。害のない顔をしながら、平然と人を殺す。空想上のキャラクターのような分かりやすい殺し屋像ではないのが、また不気味さを醸し出していた。 「これまで何人殺したの?」 「五十二」 「え?」 「だから、五十二人」  覚えているわけないだろうと思いながら聞いたのだが、返ってきたのはあまりに具体的な数字だった。それも望夢からしてみれば随分と常識外れな数だ。その予想外すぎる返答に困惑し、思わず蓮の顔を覗き込む。そこにはいつもの眠たげな無表情があるだけで、嘘や冗談というわけでもなさそうだった。 「え……まさか、数えてる?」 「別に数えてはない。覚えてるだけだ」 「覚えてる、って……」  落ち着き払った蓮の返答に、望夢はつい息を呑む。蓮はまたひとくちビールを呷ると、黒々とした瞳を望夢に向けた。 「殺した奴は、みんな覚えてる」 「え……」  途端、望夢の脳裏を過ったのは、夕焼けに染まるリビングの光景だ。頭から血を流す母、銃を握る黒い男──望夢の記憶はそこで途切れ、次に見たのは病院の天井だった。それでも母の最期ははっきりと記憶に焼き付いている。もちろん、母を手に掛けた、この男の姿も。 「──母さんのことも、覚えてるってこと?」 「そうだな」  蓮は短く頷いたあと、ことりとテーブルにビールを置く。自然と喉がひくつき、息が乱れて苦しくなった。この男ののんびりとした空気に騙されてはいけない。こいつは何の罪もない母を殺し、そして何人もの命を奪ってきた、冷徹な殺し屋なのだ。 「……っ」  今夜だ。今夜から、食事に薬を入れる。そうして少しずつ弱らせて、その瞬間がきたら心臓を刺してやる。迷いなど見せている場合ではない。人を殺すことに何の躊躇もないこの男を、今度は、無力な子供でしかないこの自分が殺めるのだ。 「教えてやろうか」 「え?」 「人の殺し方」  ふと掛けられた言葉に、望夢は心臓が跳ね上がるのを感じた。答えることも出来ず固まっている望夢に、蓮は無表情のまま徐にカーテンを開ける。外を見るよう促され、望夢はおずおずと窓を覗き込んだ。 「あのサラリーマン、いつもこの時間に帰ってくるのは知ってるか?」 「え? 知らない、けど……」 「自分を取り巻く環境には常に気を配れ。たとえ話したこともない他人でも、自分の行動圏内にいるやつは全部把握しておけ」  背中を丸めたスーツの男が、とぼとぼとした足取りでアパートへと入っていく。このアパートの住人なんて気にしたこともなかったし、蓮が誰かと交流しているところも見たことがなかった。 「独身で、多分恋人もいない。いつもコンビニ袋を引っ提げてるから、自炊もしないんだろう」 「そんなこと知ってて意味があるの?」 「もしかしたらそいつが敵かもしれない。あるいは次の標的になるかもしれない。そうでなくとも、アリバイ工作に利用できるかもしれない」  蓮は静かにカーテンを引くと、再びソファにどかりと腰掛けた。 「殺しに必要なのはナイフの捌き方や銃の撃ち方だけじゃない。大切なのは、日々の観察と心構えだ」 「観察と、心構え……」 「覚悟のないやつに人は殺せない。そんなガタガタ震えた手じゃ、引き金は引けねえだろ」  蓮に指摘され、はじめて自分が震えていることに気が付いた。望夢は大きく息を呑み、震えを抑えるように自分の肩を抱く。蓮はそんな望夢にも構わずソファを立つと、のんびりとキッチンに吸い込まれていった。そして冷蔵庫を開けると「あ」と小さく声を上げ、何も持たずに戻ってくる。 「ビールなくなった。コンビニ行ってくる」 「あ、え……」  つい先程まで殺しの話をしていたのに、その一瞬で日常へと引きずり戻される。蓮はボサボサの髪にスウェット姿のまま、ぼりぼりと頭を掻きながら玄関ドアの向こうに消えていった。 「……いや、せめて着替えろよ」  望夢の小さな呟きは、冷えた沈黙の中に溶けるだけだった。

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