10 / 13
9
食器を並べる手が自然と震えそうになる。それを必死で誤魔化しながら、望夢は狭いローテーブルに夕飯の支度をしていった。今日のメインは、いつだかの調理実習で学んだ白身魚のホイル焼きだ。軽い味付けはしているが、各自で好きにポン酢を掛けて仕上げるタイプだ。これなら味が薄いなどと文句も言われないだろう。
ホイル焼きにしたのにはもう一つ理由がある。蓮のことなので、ポン酢を多めに掛けることは想定済みだ。つまりはそう、味の違和感を誤魔化すことができるからだ。
──蓮のホイル焼きには、買ったばかりの農薬が少量垂らされている。
「これ、味噌汁っていうか、味噌風味のお湯だな」
「へ?」
だが望夢の耳に届いたのは、想定外なところからのクレームだった。今日の味噌汁は、きちんと自分で味噌を買って作ったものだ。変なものは何も入れていないので、決して不味くなんかないはずである。だが蓮は味噌汁を啜ったあと、そんな言葉を口にした。
「お前、味噌汁どうやって作った?」
「どうやってって……そりゃ、普通にお湯沸かして味噌入れただけだけど……」
蓮はまたひと口味噌汁を啜ると、「やっぱ味噌湯だな」と小さく呟いた。それにはさすがの望夢も怒りに震え、そんな筈はないと自身の味噌汁を口に運ぶ。……が、しかし、望夢の舌が受け取った情報は、自身の想定からは外れたものだった。
「えっ!? なんか……えっ? なんか違う……」
「お前さ、普通の味噌を湯に溶かしただけで、出汁とか入れてないんだろ」
蓮の言う通り、スーパーで一番安かった味噌を買い、それを湯に溶かし入れただけだ。蓮は『味噌湯』と呼んだそれをテーブルに置くと、ポン酢をひたひたに掛けたホイル焼きに箸を伸ばした。
「……っ」
「ん。こっちは美味いわ」
緊張に強張る望夢を他所に、蓮はひとくち、またひとくちとホイル焼きを頬張っていく。あんたは気付いてないかもしれないけど、そこには毒が混ざってんだよ──心の中でそう呟き、望夢は震える手で自分のホイル焼きをつつく。正直、食欲なんか全くなかった。それでも下手に怪しまれたくなかったので、吐き気を堪えながら食事を続ける。
やがて一足先に蓮が食事を終えると、テーブルに食器を残したままソファに寝そべった。片付けくらいしろよ……そう出かかった言葉は喉の奥に押し戻す。無事農薬入りの食事を平らげてくれたのだから、そのくらい目をつぶってやってもいい。どうせあと数日もすれば、そのソファで永遠の眠りにつくのだ。
蓮より数分遅れて望夢も食事を終えると、二人分の食器を片付けに向かう。黙々と食器を洗いながら、望夢は時折ソファに眠る蓮を盗み見た。どうやらよく眠っているようだ。ひょっとしたら、運よく一度の投薬で効果が出てくれたのかもしれない。もし体調を崩してくれているのだとしたら、今がチャンスだ。
洗い物を終え、望夢はそっとシンク下の扉を開ける。しゃり、と音を立てながら包丁を抜き取ると、なんだか掌に吸い付くような奇妙な感覚がした。足音を殺し、一歩、また一歩と男に近付く。安らかな寝息が耳に届き、目の前が赤く染まるような感覚を覚えた。
──母は、正しく心優しい人だった。
運悪くやくざの男と恋に落ちてしまった母は、望夢を出産後、その男に捨てられ女手一つで望夢を育て上げた。貧しい生活の中でも、母はいつだって優しく微笑み、望夢に最大限の愛情を注いでくれた。
そんなある日、母に恋人が出来た。これまで一人で頑張ってきた母だったから、それを支えてくれる人が出来たのなら、素直に嬉しいと思ったのだ。まるでカラスのような黒い男は、どこか浮世離れした不思議な印象があったものの、それでも母や望夢にはいつだって優しく接してくれた。その男が新しい父親になることがあったとしても、受け入れていいとさえ思っていた──それなのに。
茜色に染まるリビング。血の匂い。倒れた母と、立ち尽くす黒い男。──あの時の光景は、今でも脳裏に強くこびりついていて離れない。
「は、……っ」
思わず洩れそうになる息を押し殺し、ゆっくりとソファに近付く。男は無防備に目を閉じたまま、時折小さないびきと共に鼻を鳴らしている。望夢は静かに、男の上へと乗り上げた。ソファが小さく軋む音がする。両手で包丁を握りしめ、頭の上まで高々と掲げる。
「……っ!!」
男の喉元に向かって、勢いよく振り上げたその直後。望夢の手はぴたりと止まり、ナイフはただ、男の喉の皮を軽く切った程度に終わった。何より望夢を戸惑わせたのは、眠っていたはずの男がまっすぐこちらを見つめていることだ。相変らず眠そうな目付きのまま、ただ何も言わず静かに望夢を眺めていた。
「なんで……避けないんだよ……」
そもそも最初から、蓮は起きていたのだろう。それなのに避けないで望夢の攻撃を待っていたのだ。蓮の考えていることが分からず、ぞわりとした悪寒が背筋を走り抜ける。泳がされている? それとも、試されている? もしかしたら、夕飯に薬を入れたのだって気付かれているのかもしれない。そう思うと、恐ろしさのあまり身体の芯が凍った。
「風呂入るなら、髪乾かしてから寝ろよ」
「は……?」
蓮はそうとだけ告げると、再び横になって目を閉じた。間もなく安らかな寝息が聞こえて来て、望夢は思わず手から包丁を取り落とす。ソファから滑り落ちたそれはカラリと床に叩き付けられ、虚しく乾いた音を立てた。
「……っ、くそ!」
望夢は飛び退くようにしてソファを降りると、包丁を拾い上げキッチンの定位置へ乱暴に戻した。そのまま風呂場へと勢いよく駆け込み、服を脱ぎ捨て頭からシャワーを浴びる。あんな男の言葉に動揺してしまう自分が情けなかった。そしてそれ以上に、どうしてあの勢いのまま包丁を突き立てることができなかったのか──それが分からなくて、どうしようもなく気持ち悪かった。
ともだちにシェアしよう!

