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小間使いの女性が朝食を運んできて、俺が窓辺にいるからと、小さなテーブルを移動してそのままそこで食事をとれるようにしてくれた。
本当は護衛さまが見れないならここにいる意味もない。
けれど、朝の清々しい空気を感じ食事をとるのはとても気持ちがいいものだ。俺は女性に感謝の言葉を述べた。
食事をとろうとして、まだ名乗ってすらいなかった事に気付いた。
こんなに世話になっておきながら、なんと失礼をしてしまっていたことか。
「俺…いえ、私はイチハと申します。お名前を伺ってもよろしいですか?」
「あら、可愛らしいお名前でらっしゃいますね。私はミンと申します。不自由がありましたら、なんなりとおっしゃってくださいね。さあ、お食事が冷えてしまいますから、お召し上がりになって」
小間使いのミンさんは、王都の貴族のお屋敷に勤める女中とくらべれば庶民的で親しみやすい印象だが、それでもこの近隣の村では見かけないような、上品な所作と言葉使いだった。
きっと元は王都の屋敷にいたのだろう。
こちらのお屋敷にはもう十年近く勤めているらしい。
軽めの病人食だったため、俺はすぐに朝食を終えてしまった。
だいぶ調子も良いようだからと、昼からは通常の食事を用意してくれるとのことだった。
ミンさんは、食事を片付けると、頭の怪我の治療してくれた。
頭には包帯が巻かれ、自分では見ていないからよくわからないが、結構な傷ができているようだ。
こちらに運び込まれて丸一日目覚めなかったらしい。
治療を終えたミンさんに、俺はずっと気になっていた、川の上流から流れてきた布のことを聞いてみた。
俺が怪我をするきっかけとなった赤い布。
そう、俺はあのとき「あっ」と小さく叫ぶ女性の声をたしかに聞いた。
幼い頃からたくさんの物語を読んだ。
そして、この森には物語そのままの隠された姫の噂がある。
となれば、この館に来るきっかけとなったあの赤い布は、俺を運命に導くアイテムにちがいない。
あの布を流したのは……。
「大変申し訳ないことをいたしました」
ミンさんがうっかり流してしまった洗濯物だったことが分かった。
ミンさんは謝ってくれるが、あれは俺が足を踏み外したせいもある。
しかし、川から流れてくる布に女性の声…と、劇的な要素がそろっているのだから、『姫が流してしまった布』というのが物語のお決まり展開というものだろう?
……いや、隠された姫なんだ、ミンさんが姫をかばっているのかもしれない。
一瞬そう疑いかけたが、よくよく思い返してみれば、赤い布はハンカチ程度のものではなく、かなり大きな…そう、護衛さまが着れそうなほどだった。
深窓の姫君が川で護衛の服を洗濯……。
ありえない。
たとえ二人が夫婦だったとしても、小間使いがいるのに姫君が足場の悪い川で洗濯などするわけがない。
ということは、あれは運命のプロローグなどではなく、単なるおっちょこちょいなミンさんと俺のドタバタ劇だったということか。
正直、がっかりせずにはいられなかった。
また後で家の者が参りますと言ってミンさんは部屋を出て行った。
家の者!
姫だろうか…と、ドキドキする。
けれど、来たのは昨日の使用人の男性だった。
家の者と言ってこの人物が来るということは、チーバイ家に縁のある者で、それなりの身分なんだろう。
年齢不詳なその顔も、ただ美しいだけでなく気品に溢れている。
俺は改めて名前と身分を名乗り、治療や逗留の礼を言った。
この方はジントウイという名でこの屋敷や周辺の土地などを管理する家職であるらしい。
「あの、この家のご主人に直接、治療と逗留の感謝を申し上げたいのですが」
「いえ、礼は不要でございます」
薄い唇の端をやわらかく引き上げ、見惚れるほど美しく頭を下げた。
「その、せめて助けてくれた人に会ってお礼を……」
「お気遣いは不要でございます。それに今は不在ですので、また後ほど…。どうぞ身体をおいたわりになってくださいませ」
はぐらかされているような気がするが、ジントウイ殿が本当に俺を気遣ってくれているというのもしっかり伝わってくる。
俺はもう何も言えなくなってしまった。
俺の寝具をさりげなく整えてくれたとき、シルバーグレーの髪がキラキラと白く輝いた。
「何かありましたら、こちらのベルを鳴らし、お呼びください」
そう言い残してジントウイ殿は部屋から出て行った。
ジントウイ殿は穏やかで上品なのに、ふとした瞬間、華奢な身体に何とも言えない色香が見え隠れしていた。
もしかしたら姫とではなく……胸に焼き付くような痛みが走った。
ダメだ。護衛さまがジントウイ殿と…なんて、おかしなことは考えるな。
でもきっとジントウイ殿は…貴族だ。
そして、護衛さまも貴族の出だろう。
貴族は男同士でも、そういう関係になることが少なくないという噂を聞いた。
きっと護衛さまよりは十から二十歳は年上のはず。
……。
『私が大人の作法を教えて差し上げましょう』
貴族の家には子息に性の作法を教える風習があるらしい。
護衛さまが少年から青年へと変わる頃、そんなやり取りがあったとしてもおかしくないかもしれない。
いや、そんな以前から共にいたかどうかはわからない。
けど、少年の頃の…過去のことだと思ったら……。
あ……。
何故だろう。
うっかり、大人になりかけの護衛さまがジントウイ殿に男としての手ほどきをうけているところを想像してしまったというのに、胸が痛むどころかロマンスの物語を読んでいた時のようなドキドキ感が。
考えるな、俺。
もうずいぶん自分で自分の身体にふれていない。
なのに、まだ自由に動きまわる体力のないこの身体で変に興奮してしまったら、ミンさんに恥ずかしい洗濯物を手渡すことになってしまうかもしれない。
想像するな。
在りし日の護衛さまが、ジントウイ殿の小さな身体を抱き込み大人になろうとしているところなど……決して想像してはいけない。
そう言えば、軍部では男同士で関係を結ぶのが当たり前で慣習のようになっていると聞いた気もする。
護衛さまは武人。
かつて軍に所属していた可能性がある。
………。
どうにか自分にも目を向けて貰える可能性がないか、微かな希望を見出すためだろう、俺は考えても仕方のない想像をいつまでも続けてしまった。
◇
昼も、夜も、そして次の日も、姫どころか護衛さまにすら会えなかった。
ジントウイ殿に聞いてみたところ、俺を助けてくれたのはやっぱり護衛さまだった。
ベッドに連れ戻してくれた時には俺の手を握ってくれたのに、今じゃなぜか会ってもらえない。
……やっぱり俺が顔を見て失神したので『コイツは何かヤバい…』と警戒されているのかもしれない。
逗留も意識を失っていた日数を含めると五日目。その間、護衛さまの朝稽古はなかった。
ほんとうにどこかへ行っているのかもしれない。
俺の調子もそれなりに良くなり、そろそろ街へ戻らなければいけない時期になっていた。
屋敷の主人…つまり姫は俺に会う気はないんだろう。
けど、せめて護衛さまには会って屋敷を去りたかった。
家職のジントウイ殿に許可を貰って庭を散歩させてもらう。
チラとでも護衛さまに会えないかという悪あがきだ。
護衛さまが世話をしていた馬を見に行く。
近くでみると、こんな森の中には似つかわしくないほど優美な馬だ。
これも護衛さまの愛情のたまものなんだろうか。
優しい気質のようですぐに撫でさせてくれた。
馬の首にそっと抱きついた。
あったかい。
…俺は抱き上げられた時の、護衛さまの体温を思い出していた。
それからキャンプを張っている場所に行き、キャンプを解いて道具一式を風雨にさらされないよう隠した。
今の体調じゃ道具全てを担いで帰るのは無理だ。持ち帰れそうなものだけ荷物にまとめた。
それを館に持ち帰り、ジントウイ殿に明日この館を去る旨を伝えた。
「それで…その……。ここを去るまでに出来れば俺を助けてくださった方に感謝をお伝えしたいのですが」
どうにも情けない顔で懇願する俺に、ジントウイ殿が一瞬言葉を詰まらせた。
「それは……本人がおりませんもので。イチハさまのお気持ちは必ずお伝えいたします」
会いたいという気持ちを伝えるのは、ヘタレな俺にとってなかなか勇気のいることだった。
礼を伝えたいという大義名分がなければ、俺はもうあの人に近づくことは出来ないかもしれない。
あえなく断られてうつむく俺に、ジントウイ殿が優しく微笑んだ。
「かの方は名をシュウと申します」
不意の言葉に目を見開いた。
俺はただ会いたいばかりで、あの人の名を聞く事すら忘れていたのだ。
「シュウ殿…」
大切なものを貰ったように、その名をつぶやいた。
ただそれだけで、自然と頬が緩んだ。
◇
次の日、俺は出立の為に門扉に立った。
見送りはジントウイ殿とミンさん。
やはり姫もシュウ殿も出てきてはくれなかった。
「また、後日お礼に伺います」
往生際悪く再来の意思を伝える。
「礼など不要です。お身体をお大事になさってください」
判で押したようにジントウイ殿が答えた。
ジントウイ殿もミンさんも、とても優しく気さくに接してくれた。
けれどやはり…シュウ殿にもう一度お会いしたかった。
寂しい心地で屋敷から遠ざかる。
名残惜しく、森の細い道で足を止め振り返った。
初めて見た時と何も変わらない屋敷の姿。
変わったのは俺か…。
なにがなんでも会ってやると決めていた恋しい姫を忘れ、たくましい武人のシュウ殿に心を奪われた。
………いや。
変わった…?俺が?
これじゃ、何も変わってなんかない。
かなわぬ恋に惨めに立ち去る。
いつもどおり、好きな人に近寄ることも出来ないダメ人間のままだ。
俺はここで何をした?
必ず姫に会うと心を決めてこの森に来た。
あとは川で魚を獲ったくらいだ。
館の窓の中で影がちょっと揺れた気がした。
姫だろうか。
それともシュウ殿?
しかし、負け犬の俺はすごすごとこの屋敷を去るしかないのだった。
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