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屋敷からの帰りは下りなうえ、隠された道を探す手間がないため、怪我をした身体でも一時間程度と、案外短時間で近くのカチカの町までたどり着けた。
さらに大きなクボンの街まで乗り合いの馬車で三十分、そこから王都カジャリまで同じく乗り合いで一時間三十分。
これなら自分の馬車と馬とを駆使すれば二時間かからずに王都からあの屋敷までいけそうだ。
そんな計算をしている自分が可笑しかった。
……姫どころか、シュウ殿にまで避けられているのに、またあの屋敷に行くつもりなのか。
いや、ただ、看病の礼をしにいくだけだ……。
王都へ戻り、頭の傷を医者に診てもらって、自宅と同じ建物の一階にある商会事務所へ顔を出す。
俺がいなくても仕事は問題なくまわっていた。
やる気はあるが、ツメの甘い俺は軌道にのった事業は全てひとまかせだ。
そちらの方が上手くいく。
だからせいぜい最終決定の印を押さなければならない書類がたまっていたくらいだった。
それから王都に戻って一週間。落ち着いて仕事をし、頭の包帯もとれた。
するとまた落ち着かなくなってきた。
そして俺は、王都へ帰る道すがら考えていたことを実行に移そうと決めた。
あの屋敷にほど近いクボンの街に、主力商品の一つである、馬具の販売拠点を作る。
王都では騎馬向けの高級ライン。クボンでは農耕馬向けの実用品。こうやって拠点をわけることによって、より効率的に販売ルートを増やす。
……という事業計画を口実にクボンに滞在して、ちょこちょこと姫の屋敷に顔を出そうという算段だ。
あれだけ会うのを拒否されたのにまだ懲りていない。
俺はめっぽう打たれ弱い。
そのかわりに、のど元過ぎれば熱さを忘れるタイプなのだ。
今はシュウ殿に会うことを拒否され続けたことよりも、ベッドに運んでもらった時の体温、そして看病して貰ったときの手の温もりが恋しくてしかたがない。
何度も思い出しすぎて、見えていなかったはずなのに俺を抱き上げるシュウ殿の姿や、俺を優しく撫でてくれるシュウ殿の姿を勝手に作り上げていた。
川から俺を救い出し、館へ連れ帰り、服を脱がして身体を拭いてくれて……その身で俺を暖めてくれるシュウ殿。
100%妄想だ。
大人になってから人の体温をあんなに近くに感じたのは初めてだった。
キスすら飲み会の罰ゲームの記憶しかない。
そして、妄想まみれの純愛をこじらせながらも、自己処理を怠っていた俺は、いい年をして遺精してしまった。
元々あまり処理をしないのだが、小心者の俺は深淵の森の屋敷でも当然できるわけもなく、今日まで二十日近くまったく自らの性の処理手をしていなかった。
商会の事務所の上階を自宅にしているため、気分的に皆の職場の頭上で自己処理(自慰)…というのがしづらいのだ。
そんな状況なら思春期の少年のような失敗をしても仕方がないだろう……?
なんて、言い訳してみても…こんなダメな自分が死にそうに恥ずかしい。
自分の体にすら触れられないだなんて奥手にもほどがある……。
とにかく、このままじゃ俺はダメだ。
もう一度だけ…いや、あと三回くらい近づいてみて、どうにかシュウ殿の顔だけでも見たい。
いや、ヘタレすぎるぞ俺。覗きはもう卒業だ!自分でもさすがに気持ち悪いし。
話はしないとダメだろう。直接礼をいわなければ。
……まあ、それしか話すことがないからな。
ああ、礼だけ言って、すごすごと引き下がる自分の姿が目に浮かぶ。
とにかく俺は、馬具の販売拠点を作るためクボンに長期出張を決めた。
精力的に動き回って、条件にあった空き店舗を見つけすぐに契約。
改装の手配などトントン拍子に話は進んだ。
まだ、三日しかたっていないのに、タイミング良く縁がつながり拠点開所と販売店舗のオープンまで決まってしまった。
従業員を王都から呼び寄せ、店舗で飼う馬も二頭買い付けた。騎馬と農耕馬だ。
話がスムーズに進みすぎて、すぐに時間の余裕ができた。
この猪突猛進ぶりがなぜ恋に活かせないのか。
いや、恋愛が上手くいかないことによる、鬱屈したパワーを仕事にぶつけているんだ……。
従業員に視察だと言って、あの屋敷のそばのカチカの町まで来てみた。
小さな商店がいくつかある。
菓子や料理を売る露天も少しだが出ている。
館にキャンプを張ったときは王都ですべて準備をしたため、この町はほとんど見ていなかった。
馬具を扱うような店はないようだ。
日用品を売る店に代理店契約をしてもらい、注文に応じて商品を持ってくるようにしよう。
他の町でも一様にこの形式で。
そんな事を考えていたら、菓子屋から出てくる小間使いのミンさんを見つけた。
声をかけようかと思ったが、思い直してミンさんの出てきた菓子屋に行く。
「先ほどの女性が買い求めたものを知りたいのですが」
そう言うと、店員の若い女性は少し不審げな表情を浮かべた。
「ミンさんの勤めるお屋敷で少々世話になり、お礼の品を選ぼうと思っていたら、さきほどたまたまこちらの店から出てくるのを見かけまして。よくこの店をご利用になっているなら好みもわかるのではないかと」
包み隠さず話せば、店員の女性は良く相談に乗ってくれた。
「ミンさんはこちらのジャムの乗った焼き菓子が好きで、シュウさんはこちらのナッツの乗ったバターケーキがお好きですよ」
シュウさんという言葉にぴくりと反応する。
「シュウ殿もこちらにお見えになるのですか?」
「ええ、見た目によらず甘いものが大好きなようで、たまにこの店にもミンさんと一緒にいらっしゃいますよ」
少し驚いた。屋敷は隠されているが、住人たちは隠れ住んでいるわけではないようだ。
シュウ殿は甘いもの好き…いい情報を手に入れた。
この店には置いていないが、砂糖菓子なども好きなようだ。
クボンにいる従業員のために菓子の詰め合わせを買い、さらにいくつか店に寄ってさりげなくシュウ殿の話を聞いた。
大した話は聞けなかったが、やはりあの屋敷の人たちは隠れ住んではおらず、町になじんでいるようだった。
狩猟の獲物の肉や皮、角やツメ、そして貴重な山菜や木の実などを売り、けっこうな収入を得ているらしい。
王家に連なる屋敷のはずなのに、自分たちで収入を得ているということに驚かされた。
日用品店ではついでに馬具の代理店契約の話もしていい反応をもらえた。
◇
数日後、俺はまた深淵の森へ向かった。
手みやげにと王都から美味しいと評判の砂糖菓子とバターケーキを取り寄せ、さらに看病のお礼の品として、騎馬用の美しい手綱も用意した。
シュウ殿のあの優雅な馬に似合う手綱を選ぶだけでも少し幸せな気分になれた。
思っていた通り馬でなら屋敷までは楽な道程だった。
また居留守を使われないよう、午前中のシュウ殿が馬の世話をしているだろう時間を狙い訪れた。
来客用の馬留めからは、庭の端にある馬小屋が見える。
ちらっと、シュウ殿の姿が見えた。
…ああ、姿を目にするのは一体何日ぶりだろう。
うっかり見惚れてしまった。
急いで荷を降ろす。手綱はけっこうな重さがある。
シュウ殿に見惚れ、感動で手は震え、心ここにあらず……そんな状態で荷下ろしをしようとしたために、手綱の包みに潰されてしまった。
驚いた馬がいななく。
みっともない!よそ様の庭先でひっくり返ってもがいている……こんな恥ずかしい姿、シュウ殿に見られたくはない。
しかし、嫌な想像ほど現実になるものだ。
俺の上から荷物がどけられ、手が差し伸べられる。
思わず仰ぎ見れば、そこには愛しいシュウ殿の顔……。
差し伸べられた手……この手を取っていいんだろうか。
躊躇しながらも手を握る。
俺の手がみっともなく震えてるのはシュウ殿にも伝わってしまっているだろう。
恥ずかしい。
手を引いて起こしてくれたシュウ殿の顔をまともに見れなかった。
本当はこんな至近距離にいるのだから、たっぷりしっかりこの目に焼き付けたいのに。
自分の失態が悔やまれる。
「なにか御用でしょうか」
シュウ殿が俺に向けた声をきちんと意識のある状態で聞いたのは初めてかもしれない。
少しだけかすれが混じる艶のある声。
ドキドキが止まらない。
「あの……?」
無言で固まっている俺を不審がって覗き込んでくる。
無理だ心臓が壊れる。
まだ掴んだままになっていた手に気づき慌ててバッと放す。
「あのっ。お礼に…治療のお礼にっ」
シュウ殿が抱きかかえてくれていた手綱の包みをグイグイと押した。
『差し上げます』の意味のつもりだったが、シュウ殿は困ったような表情で押しやられるままに数歩離れて包みを置いた。
そしてシュウ殿は俺を館の中ヘ案内し、ジントウイ殿を呼びに行ってしまった。
来客用のティールームに通され、ミンさんが目の前でお茶を入れてくれている間にジントウイ殿が来た。
「あの、改めてお礼に参りました」
そう言って菓子を差し出す。
本当はこれは手みやげで、お礼の品は手綱だったはずなのに、肝心のものは馬留めに放置されたままだ。
「礼をしていただくようなことは何もございません。もうお怪我の具合はよろしいのですか?」
もう何度も繰り返されたやり取りだ。
「あのっ、シュウ殿に直接お礼を言いたくて……」
「そうですか。すでに先ほどお会いになられたようですね」
これはとても優しい口調だけれど、さっき会ったからもう用は済んだだろう……ということだろうか。
「その、また馬留めで助けていただいて…。そのことで動転して礼を言いそびれてしまったのです。またシュウ殿をお呼びいただけないでしょうか」
そんなやり取りをしていると、外でバチバチと音がしはじめた。
予兆のない豪雨だった。
驚いて外を見ると、簡単な屋根しかない馬留めからシュウ殿が俺の馬を馬小屋へ移動させてくれていた。
俺も外へ飛び出して、放置されたままの手綱を持って馬小屋へ続く。
急に入って来た俺にシュウ殿が驚いていた。
「先日は助けていただいて、ありがとうございました」
やっとシュウ殿に直接礼を言えた。
……たったこれだけなのに、本当に長い道のりだった。
「…‥礼など…。本来ならば私が謝罪をするべきなのです」
申し訳なさそうな表情でシュウ殿が頭を下げた。
シュウ殿が川から俺を引き上げた際、不手際で俺に怪我をさせたと謝っているらしい。
しかし……困った。シュウ殿に使って欲しくて選んだこの手綱、お礼を断られたら渡す口実がなくなってしまう。
正直、お礼もシュウ殿に会いたいがための口実。
シュウ殿に罪の意識があるのならそれもどうにか利用できないものか。
小賢しい考えが浮かんだ。
………。
けど、うーん。具体的な手法は何も思いつかない。
いい歳をして駆け引きの一つも出来ない自分が情けない。
「ずいぶん雨に濡れてしまいました。館に戻って乾かさないと風邪を召してしまうかもしれません」
シュウ殿が俺を屋内へ促す。
が、俺は『濡れた』という言葉に反応し、ついシュウ殿の様子を観察してしまった。
瞬間的にくわっと頭に血が上った。
わずかな時間でもずぶぬれになるほどの豪雨。
頬を伝う雨があごからぼたりと落ちる。
濡れた生成りの服がぴったりと身体に張り付き、しなやかに盛りあがる筋肉のラインが浮きでた。
それに……素肌が透けて…胸元がすごく、いやら…い、いや、色っぽい。
危ない……濡れて色気を増したシュウ殿の姿に高ぶって、また遺精 してしまうのではないかと思った。
奥手すぎるゆえの遺精も、はたから見たら色情狂のように思われてしまうかもしれない。
何が何でも耐えなければ。
血がのぼりすぎて目眩 がする。
ふらついた俺をシュウ殿が支えてくれる。
あぶない……。シュウ殿の体温にドキドキしすぎて、必死でこらえないと、出る。
情けない。
こんなところで粗相をしたら、もう一生恋なんか出来なくなってしまう。
必死でこらえてぷるぷる震える俺をシュウ殿が心配そうに覗き込んでくる。
こんなみっともない俺を見ないで欲しい。
願いが通じたのか、シュウ殿がスッと目をそらした。
耳が少し赤くなっている気がする。
濡れて寒いんだろうか。でも……ああ、色っぽい。
どうにか衝動を耐えてホッとため息をついた俺を、支えるようにしてシュウ殿が室内へ案内してくれる。
支えてもらわなくても、もう平気なのだが役得というやつだ。
好きな男にすがって歩くなんて俺の人生初だ。
死んでもいい。
いや、死ぬんだったらさっきの状態で粗相をしてから死にたい。
……なんか俺、人生の目標がお粗末すぎだな。
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