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急に雨の中に飛び出していったと思ったら、しばらくしてシュウ殿に支えられて戻った俺にミンさんとジントウイ殿は驚きの表情を見せた。 「ご心配おかけして申し訳ありません。この急な豪雨です。気圧の変化により体調がおかしくなったのでしょう。じっとしていればすぐに良くなりますので」 さもよくある事のように誤摩化して、少し休ませてもらうことにした。 今度は居間へ通された。住人専用の空間だ。 俺が休ませてもらっているソファで、シュウ殿や姫もくつろぐのだろうか。 ◇ シュウ殿にお会いするという本来の目的は果たされた。 いや、肩を抱きかかえられるなんて、想像以上の成果だ。 ささやかな幸せを噛み締めている間に、雨に濡れた服も少し乾いてきた。 雨も上がったことだし、そろそろお(いとま)した方がいいだろう。 そうだ、縁をつなぐために何か忘れ物をして帰るといいと女の子たちが話しているのを耳に挟んだ事がある。 ハンカチを……あ、しまった。折り畳んでしまっていたから、全く乾いていない。 こんなずぶ濡れのハンカチじゃ、ソファにこっそり置いておくどころか、この上質な床に置くことすら躊躇われる。 ダメだ。忘れ物作戦はやめよう。 情けない。 卑怯な小細工などするなと神様に叱られている気分だ。 「お礼に参りましたのに、再びご迷惑をおかけして申し訳ありません。そろそろお暇致します」 丁寧に頭を下げ、出立の意思を伝えると、ジントウイ殿に思いがけない事を教えられた。 「豪雨の後は山路に水が出て通れなくなってしまいます。短時間ですがあれだけの豪雨でしたので、水が引くまで出立を遅らせた方が良いでしょう」 なんと、夕方まで館に滞在するようにと勧めてくる。 あまりの幸運に、また目眩が……。 そんな俺にシュウ殿が素早く反応し、かばうように手を動かした。 「大丈夫ですか?やはりまだお加減がよろしくないのでは?」 「いえ、身体はもう問題ありません。お気遣いありがとうございます」 シュウ殿の手が俺に触れることはなかったが、気遣ってくれたことが嬉しい。 好きな人が側にいるから緊張してはいるものの、それを上回る幸福に頬が緩んでしまう。 「顔色も良くなりましたね。……安心しました」 シュウ殿が、薄く微笑んでくれているような気がする。 少しだけ強面なので、キツめの目が細くなって睨まれたのかと思ったけど…顔全体で判断すると、とても優しい表情をしている気がする。 ドキドキが加速する。 俺の表情はだらしなくないだろうか。 ああ、また倒れそうなほどフラつけば、抱きとめてもらえたかな…。 そんな妄想をしても、実践する度胸はなかった。 「イチハさま、もうお加減がよろしいようでしたら、一緒に昼食はいかがですか?」 ミンさんが、昼食を勧めてくれた。 「ありがとうございます。勝手に押しかけてきて図々しい限りですが、他の方がご迷惑でなければ是非ご一緒させてください」 「イチハさまがご一緒してくだされば、食卓がパッと華やぎますわ。ねぇ、シュウさま」 笑くぼを作ってニコニコと笑うミンさんに、シュウ殿が曖昧に頷いた。 どう考えてもこの中では俺が一番地味で、食卓が華やぐとは思えないが、それでも悪い気はしなかった。 使用人であるミンさんがこうやって俺を食事に誘うなど、普通の貴族の屋敷ではまず考えられない事だ。 だからと言って上の者を軽んじているという風でもない。 主人の人徳か、この屋敷ではそれが許される関係性というものが出来ているのだろう。 少しだけ期待をしていたのだが、昼食にも姫は姿を見せなかった。 まあ、貴人が使用人と一緒に食事をするわけはない。当たり前と言えばあたりまえだ。 俺はシュウ殿と一緒のテーブルで食事をとれた幸せで、味が全くわからなくなってしまった。 シュウ殿の美しい食事の作法に目を奪われそうになったが、あまりじろじろ見ては不躾だと思われる。必死で目をそらした。 しかし、その食事の様子だけでシュウ殿の育ちの良さは一目瞭然だった。 やはり貴族なのは間違いないだろう。もしかすると、かなり上位の貴族の子息なのかもしれない。 そして食後にまた居間へ案内された。 しかし常にシュウ殿かジントウイ殿が近くにいる。 何となく、見張られているような感じがする。 何度礼は不要と言ってもしつこく食い下がって、無理矢理にでもこの屋敷の主人やシュウ殿に会おうとする俺を何かおかしいと思っているんだろう。 しかもここは高貴な方のお屋敷だ。もしかしたら、何か陰謀や計略じみたものを警戒しているのかもしれない。 もちろん、俺にはそんなものはない。 しかし、こんなふうに警戒するってことは、やっぱりこの屋敷には隠さねばならない秘密があるってことなんだろうか。 陰謀はなくとも、俺も元々はその『秘密』を暴きに来たみたいなものだった。 けど、もうそんなことはどうでも良くなっている。 秘密…つまり『深淵の森の姫』を見つけることができなくても、今こうしてシュウ殿のそばに居れるだけで幸せだ。 とはいえ、そばに居れるだけで…なんて、本当はいろいろ話しかけたい。けど、ヘタレな俺にはそれができなかった。 ときどきチラチラと伺うように見るのが精一杯だ。 しかしそれがまた疑わしい行動に見えてることは間違いない。 直接シュウ殿に話しかけられないため、ジントウイ殿と雑談をする。 クボンに事業所を作ろうとしていること、カチカの町の用品店に代理店契約を持ちかけていること。正直にこちらの事を話せば、陰謀などという物騒な疑いは自然と晴れるはずだ。 シュウ殿がなにか作業用の道具の手入れを始めた。 雨の日だからこういった仕事に手を出すのだろうが、居間でとなるとかなり不自然だ。 それでも、視界の内に居てくれることが嬉しい。 やはり直接話しかけられずにジントウイ殿を介して何をしているのか聞いた。 ラッカの実を収穫する道具の手入れらしい。 他にもかぶれやすい木の実などにあわせて自作で収穫のための道具を作っているそうだ。 こんな便利なものを自作しているなんて。 俺は、興味津々になってしまった。商売にも活かせるかもしれない。 不安定な姿勢で身を乗り出して覗き込む俺に、シュウ殿が道具を見せてくれた。 道具の使い方や特徴など、次々に質問していく。 ラッカの実などは落ちているものを拾って売っている者がほとんどだ。 道具を使えば効率もよく、実の見栄えも良さそうだ。すごく勉強になった。 はっと気付くと至近距離にシュウ殿がいた。 いや、俺が無意識のうちににじり寄っていたんだ。 あまりの近さにびっくりして飛び退いてしまった。 不自然だ…俺、めちゃくちゃに不自然だ。 動揺が納まらない。 シュウ殿が様子のおかしい俺をどう思ったか……。 好きな人に近寄ってじっとしていることすらできない、ヘタレな自分が情けなかった。 ミンさんがお茶にしましょうとみんなに声をかけた。 いつの間にそんな時間になっていたのか。 俺の手みやげをお茶請けに出してくれている。 シュウ殿は俺の持って来た砂糖菓子を気に入ってくれたようだ。 一つつまんで上品に口に運ぶ。 嬉しそうに笑顔がこぼれる。 ………………ああああああああ。笑顔がかわいい。 奇跡の光景だ! また一つ口に運んで、また微笑む。 か、かわいい。鋭い目をしたシュウ殿が砂糖菓子を口にしてあんなに可愛くなるなんて。 俺の心はトキメキすぎて制御不能だ。 口を半開きにして見惚れていたら、シュウ殿と目が合って少し不審げな顔をされてしまった。 恥ずかしさにうつむくと頬に血が上ってきた。 きっと真っ赤になってしまったに違いない。 ちらりと伺うと、まだ見ていた。 もう、無理矢理ミンさんに「お気に召していただけましたか?」などと聞いてしまう。 菓子の感想なんてさっきもう聞いた。でもどうしていいかわからない。 視線を彷徨わせ、ジントウイ殿が意味ありげな視線をこちらに向けていることに気づいた。 先ほどまでの、俺の魂胆を探ろうという目ではない。 これは。 そう……まちがいなく。 ジントウイ殿には……バレた。 ◇ お茶が終わると、シュウ殿もジントウイ殿もどこかへ行ってしまった。 つまり俺は今ここで一人。 なんだかもう、今日は動揺しすぎて神経がすり減ってしまっていた。 ぐったりしているのに、胸に色々なものが詰まって息苦しい。 俺はこっそり周囲を伺ってまわりに人が居ないのを確認すると、ソファに置いてあるクッションに顔を押し付けて大声で叫んだ。 これが俺の昔からのストレス解消法だ。これだけ大きくて柔らかなクッションなら音はだいぶ吸収される。 このクッションいいな……。 もう一度キョロキョロとまわりを見回す。 誰も来てない。バレてない。 もう一度叫ぶ。 『シュウ殿かわいすぎですっっっっっっ!』 顔を上げて「ふぅ」とため息をつく。 少しすっきりした。 よそのお屋敷にも関わらず、脱力してまたズボッとクッションにうつぶせる。 その時視界の端にちらりと人影が見えた。 バッと振り返ると、そこに居たのはこちらを静かに見つめるジントウイ殿だった。

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