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第4話
十代半ばの佐和紀は、直登と、彼の兄である大志(たいし)を置き去りにした。ただひとり、災難から逃げたのだ。
そのあと、兄弟が受けた不幸は想像もできない。後悔と贖罪の気持ちが入り乱れ、孤独に生きてきた直登に対して申し訳なさが募る。償いは義務だとすら思う。
けれど、いつまでも一緒には居られない。
それは説明できないままだ。結論を焦れば、直登は崩れてしまう。
危ういバランスを注視しながらも、佐和紀の心は離れてしまった周平のことを想う。
直登のために捨てた周平が、いつだって佐和紀を支えている。だからこそ、会えずに離れている時間と距離が、日を重ねるごとに佐和紀の胸へのしかかってくる。
なによりもたいせつなものが失われそうで、自分の選んだ道は袋小路だったと間違いを突きつけられるようだ。こんなはずじゃなかったと、口にすれば終わりになる。
どんなつもりで周平から離れたのか。
考えようとする端から、佐和紀は物思いを放棄する。いまは、直登と木下のことだけを考えていたい。周平のことを持ち出せば、ものごとの判断がいっそうつかなくなる。
「行こう、サーシャ」
下心のない直登に手を引かれ、佐和紀は見せかけの微笑みを浮かべた。
***
バスルームの鏡に映った濡れ髪姿を眺め、佐和紀は自分の外見を一カ所ずつ確かめる。
木下が施した適当なブリーチで傷んだ髪は、ところどころ縮れて先端に残っている。
横澤が探してきた美容師も困り果て、ばっさり切ってしまおうと提案された。佐和紀はかまわなかったが、横澤が即座に拒絶して、こまめなカットとカラーリングの施術が繰り返されたのだ。髪の色合いは、榛色に近い金茶程度で落ち着いている。
佐和紀は昔から、明るい髪色が好きだった。
脱色していたこともあったが、ホステスとして雇われているときは、小汚く見えるからと禁止された。しかたなく髪を伸ばしていた頃だ。
ホステスの仕事で得る給料は、年齢を隠していたこともあり、世間の相場よりもぐっと低かった。さらに、あれこれと手数料が引かれ、小遣い程度しか残らない。しかし、雨風がしのげる寝床と食事が提供されるだけでも、じゅうぶんにありがたかった。
日雇いの肉体労働に職を求めたこともあるが、幼い上に痩せていた佐和紀は見た目で弾かれ、男相手の売春を斡旋されそうになったことも一度や二度ではない。
住む家もなく、保証人もおらず、身分証明書さえない生活は困難の連続だ。
ままならないことは日常茶飯事で、そのうちに慣れてしまった。優しい女たちに寄り添い、気ままな猫を演じていれば、ひもじい思いをせずに生きていけると知ったからだ。
しかし、彼女たちの『子ども』や『性的対象』にはなるまいと務めた。同情は愛情に似ていたが、やがて歪んだ独占欲を呼び起こし、その果てには搾取と強制と虐待が生まれる。
それに、佐和紀には自分というものがわからなかった。男ではなく、女でもなく、子どもでもなければ大人でもない。
新条(しんじょう)佐和紀という個性さえあやふやで、未来に夢を見ることも知らなかった。
だからこそ、『男として生まれたのだから』と松浦(まつうら)組長に誘われたとき、答えを得たような気がしたのだ。
男らしく生きることが自分らしさになる、と信じ、それが『幸せ』であり、女のように生きることは、自然の摂理からはずれた『不幸』だと考えた。
なのに、病に倒れた松浦のため、男の身で岩下周平へ嫁ぐことになってしまったのだから因果だ。男なのに、女のようにもらわれていくことを不本意だと思ったが、こおろぎ組を存続させた状態で入院費を得るためには、身売りするしか方法がなかった。
病室の枕元には白無垢に身を包んだ佐和紀の写真が置かれ、人に褒められると松浦は喜んだ。そのことを不思議にも思わず、身内として写真を置いてくれる気恥ずかしさと、大事な松浦が死なずに済んだ安堵に浸った。
なにが不幸で、なにが幸福なのか。
佐和紀は知らなかった。
いま思えば、枕元の写真は、松浦の身勝手な狡さだ。
身体を売るのは恥だと散々繰り返したくせに、自己弁護のように花嫁姿を褒めそやす。
そして、周平の支援を受けて持ち直したこおろぎ組へ戻ってこいと、当たり前のように命じてきた。
松浦はそういう男だ。身勝手で横暴で、思い込みが激しく、おおらかな一方、後先を考えない。裏返せば、感情豊かで面倒見がよく、大博打が打てる度胸に求心力があった。
組へ戻るように強いた松浦への反発を思い出し、佐和紀は鏡から視線をそらす。
同時に、笑いが込みあげる。必死になっていた自分が可笑しい。
生まれて初めて感じた恋情に欲情が混じり、ひたすらに、生活を乱されたくないと願った。ようやく手に入れた安全な住み処を、親とも慕った松浦にさえ取り上げられたくなかったのだ。その挙げ句が、淫蕩三昧の日々に繋がる。
周平のしたいことをさせてやっている気になりながら、実際は、なにもかもを犠牲にした献身のそぶりに酔っていただけだ。
佐和紀の自己満足に黙って付き合った周平にも、手を尽くした色事へ没頭したい気持ちはあったかもしれない。それでも加減はされた。
一緒になって右へ左へと揺れ動き、ときには感情の渦に巻き込まれてしまいながら、いつも周平だけが理性の紐を一本掴んでいる。それが、周平のかわいそうなところだ。
佐和紀と怠惰の底へ堕ちることができず、自我を捨て去るふりもできない。
周平には周平の人生があり、目的があり、果たすべき約束がある。
あのとき、すべてを捨ててくれと周平に頼まなかったのは、まだ相手のことを知らなかったからだ。知ったいまとなっては、周平のことが解りすぎて言えない。
すでに一度、周平は地獄へ堕ちて、生活も家族も自我も捨て切っている。
未来も自尊心も踏みにじられ、汚れきって立ち直り、佐和紀と暮らしはじめてようやく人生を取り戻した。無声映画に音がついたように、モノクロ画面に色がついたように、周平の五感すべてを彩ったのは佐和紀だ。
自覚すれば、ため息がこぼれて、鏡の前から離れる。
下着を身につけて、湯上がり用のローブを羽織った。新しいタオルを片手に寝室へ出る。横澤が滞在するホテルのスイートルームだ。
整えられたベッドを横目にリビングへ入る。センスのいい家具が広々とした空間を埋めていて、高さのある壁には、佐和紀が手を広げたほど大きな山の絵が掛かっていた。
光と影が、切り立った山肌に交錯して、峰の向こうはスコンと抜けた青空だ。
「お茶を淹れましたが、お飲みになりますか」
岡村ではない柔らかな声に呼びかけられ、佐和紀はちらりと視線を向けた。
長い髪を後頭部でまとめた男は、凝った意匠のチャイナ服を着ている。星花(シンファ)だ。一筋二筋と残した毛が、華奢な肩のラインで波を描き、やけに色っぽい。横浜の情報屋であり、岡村の情夫でもある。
「もらおうかな」
そう言ってソファへ座ると、姿の見えなかった横澤がトレイを手に現れた。
「中国茶です」
岡村の口調で言われ、佐和紀は無言でタオルを差し出した。髪の手入れを任せて、茶托ごとガラスのカップを持ちあげる。
ふわりとした花の匂いが広がる中国茶は飲みごろにぬるんでいた。用意してくれた星花に礼を告げると微笑みが返ってくる。清楚を装っていても、濡れたような妖艶さは隠せない。三度の飯より、キラキラ輝く金貨より、濃厚なセックスを欲しがる淫乱だ。
「あちらに控えていますので」
スッと身を引いて、コネクトルームの扉の向こうへ消えていく。以前は、お忍びでやってくる周平が使っていた部屋だ。いまは情事の痕跡を佐和紀に見せたくない岡村のためのプレイルームになっている。
「今夜は、向こうでお過ごしなの? 横澤さん」
カップをテーブルへ戻し、ソファの上に両膝を引き上げた。身をよじらせて顔を向けると、髪の水気をタオルに含ませていた横澤の頬が引きつる。
今夜は『お泊まり日』だ。サーシャの不在をさびしがる直登のために、横澤の部屋に泊まる日は事前に決めていた。
対外的に愛人であることを示すための行動だから、同じベッドで眠ることはない。
「俺がヤッてたベッドなのに……」
「そういうことは」
言いかけてくちごもり、言葉を選ぶ。
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