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初めての夜 1話
夕暮れの光がゆるやかに落ちはじめ、
廊下は薄金色に染まりつつあった。
フィサは──いつもより早い時間に、湯浴みへと案内されていた。
肌は湯の余韻でほんのりと紅く、髪は丁寧にほぐされ、
指の間までやさしく水気が拭われていく。
湯浴み係の男は、儀式を扱うような仕草でタオルを畳みながら静かに告げた。
「本日は……“大切な初夜”でございますので。」
「……しょ……しょや……?」
不意を突かれたフィサの声は裏返る。
湯浴み係は淡く微笑み、首を軽く傾けた。
「ご安心を。ルヴェーグ様は決して乱暴なお方ではございません。」
そして、小さな透明のカプセルを差し出す。
「こちらは体内を整えるためのもの。
召し上がってしばらくお待ちください。
厠は奥の扉から直接繋がっております。」
フィサが頷くのを確認すると、彼は香炉へ火を落とした。
白い細い煙がゆるやかに立ちのぼる。
「……では。良い夜をお過ごしください。」
静かに頭を下げ、扉を閉めた。
フィサはカプセルを飲み、
ベッドに腰掛けて小さく深呼吸をした。
しかし──異変はすぐに訪れた。
「……あれ……? なんか……すごく……暑い……」
胸の奥がふわりと熱を持つ。
息を吸うたびに、香の甘く淡い匂いが肺の奥に落ちていき、
そこから皮膚全体へと熱が広がる。
頬が赤く、首筋がじん、と熱い。
布の擦れる感触ですら身体がびくりと震えた。
「や、やだ……こんな……
レーベに見られたくないよ……っ……」
ブランケットを抱えて丸まっても、火照りはおさまらない。
呼吸は浅く、心臓は妙に跳ね、
思考にも甘い霞が差し込んでくる。
──そのとき。
ガチャ。
扉が静かに開いた。
「やぁ……フィサ。遅くなってごめん。」
淡い夕光の中で、ルヴェーグが歩み寄る足音が聞こえる。
フィサは、見られたくない一心で声をあげた。
「レ、レーベ……っ
だ、だめっ……近寄らないで……!
ぼ、僕……なんか変で……困らせたくなくて……っ」
その震えだけで、ルヴェーグは状況を悟った。
一歩だけ足を止め、薄く眉を寄せる。
(……この香り。“初夜の準備”として使われる、緊張を解す香……
効能が少し強い種類だな。
僕には効かないが──フィサには別だったようだ……)
まだ香の正体を知らないフィサを前に、
ルヴェーグはゆっくりと近づき、そっとブランケットへ手を伸ばす。
ぱさり。
軽い音を立てて剥がすと、
「あっ……っ!!
やっ……やだ……見ないで……恥ずかしい……っ……」
フィサの肌は、香にあてられたせいでほんのりと赤く、
指先まで小刻みに震えていた。
ルヴェーグはまるで宝物に触れるように、頬へ手を添える。
「大丈夫だよ。君が変なんじゃない。この煙のせいだ。」
「け、煙……?」
「湯浴み係が焚いていった白い煙。
初夜に使われる、緊張を解す香だ。
人によっては……火照る。」
フィサの呼吸が揺れる。
「レ、レーベ……僕……どうしたら……」
「ゆっくりでいい。」
ルヴェーグは手を差し出す。
だが触れた瞬間、フィサはびくんと震えて手を引っ込めた。
「ごめ……っ!!
レーベに触れたら……また……熱くなる……っ……!」
(僕の体温だけでこうなるなんて……愛しい……)
「大丈夫。僕はここに座っているから……ゆっくりおいで。」
ルヴェーグはベッド脇に腰を下ろし、手招きした。
フィサは布を擦らせながら、
熱に浮かされたようにじわりじわりと近づいていく。
呼吸は乱れ、瞳は潤み、頬は泣き出しそうに赤い。
──そして。
ふわり、と背中が触れた。
「レーベ……
こ、ここまでしか……行けなくて……っ……」
「……そっか。よく、ここまで来てくれたね。」
肩を包み込むように手を置き、
そっとフィサの手を取る。
震える指が触れ、また胸が跳ねる。
「ゆっ……くり……ゆっ……くり……」
深く息を吸い、ゆっくり吐き出す。
少しだけ落ち着きが戻る。
「どうだい? 少しは楽になった?」
「は、はい……でも……あついのは……まだ……」
フィサの肩がかすかに震え、声は息に紛れてか細く揺れた。
ルヴェーグはそっとフィサの頬へ指を添え、
落ち着かせるように視線を合わせる。
その声音は、驚くほどやわらかかった。
「……そう。大丈夫だ、フィサ。」
指先が優しく頬をなぞる。
「この部屋に焚かれていた香には──
媚薬と“似た”効能があるだけだ……。」
その言い方は決して脅すものではなく、
むしろ“安心させるため”の柔らかい説明だった。
フィサは一瞬、まばたきすら忘れたように固まる。
「……え……び、媚薬……っ……?」
声が裏返り、耳の先まで赤く染まっていく。
ルヴェーグは微かな笑みを浮かべた。
「そう、“似ている”だけだよ。
強制するものじゃないし、君の身体が反応しているのは……そのせいさ。」
フィサの呼吸がまた乱れ、胸が上下する。
「そ、それって……その……っ
レーベと……“そういうこと”を……!?」
言いながらさらに赤くなり、目を泳がせ、
肩まで小さく跳ね上がった。
その仕草があまりにも可愛くて、
ルヴェーグは小さく息を呑んだ。
フィサの顔は真っ赤になり、声は震え、肩は跳ね上がる。
ルヴェーグは苦笑した。
「はは。“初夜”だからね。
……でも、大丈夫。君が望まない限り、僕から何かすることはない。」
その瞳には理解と優しさ──
そして抑えた熱が宿っていた。
フィサは小鹿のように震え、
勇気を振り絞ってルヴェーグの肩へそっと触れる。
唇が耳元近くに寄り、震える声が落ちる。
「……レーベ……
ぼ、僕……い……いいよ……?
レーベだったら……大丈夫だって……信じてるから……」
ルヴェーグの呼吸が止まった。
優しさと欲が胸の奥で重なり、
ついに抑えきれなくなる。
「……そう。」
低く甘い声を落とし、
フィサの耳へ、
うなじへ、
肩へと──
ひとつ、またひとつ、深い口づけを落とす。
「……フィサ。
夜は……まだ長いからね……」
「ひゃ……っ……は、はい……っ……」
香の甘い煙が淡く揺れ、
寄り添ったふたりの影は、静かに夜へ溶れていった。
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