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シグマIF:執事フィサ
私は思い出す。
檻の中で泣いていた幼い子供を。
私は思い出す。
冷たい石床の上で震えながら、配られた食事を必死に口へ運んでいた子供を。
私は思い出す。
助けを求めるように怯えきった瞳をこちらへ向けてきた子供を──
「……グ……さん、シ……さん。シグマさん?」
はっと意識が浮上した。目の前には、成長したフィサが立っていた。
かつて泣いていた“あの子”とは違う。だが、どこか同じ影を宿す少年は今や立派な執事として、私の隣に立っている。
「……あぁ、失礼しました。」
「具合が悪いのでしたら、ルヴェーグ様にお伝えしますよ?」
「その必要はありません。さぁ、参りましょう。」
歩き出しながら、胸の奥で静かに思う。
(……昨日は新月でしたからね。つい、過去に引き戻されてしまいましたか)
最近のフィサは、驚くほど仕事が早い。理由を尋ねても、困ったように笑って誤魔化されるばかりだ。
(……あれ程度で絆されるとは。私もずいぶん丸くなったものですね)
今日の仕事は、まだ始まったばかりだ。
⸻
(……今朝のシグマさん、ちょっとぼーっとしてたけど大丈夫かな)
エプシアール家で執事として教育されることになった時、“シグマが教育を担当する”と名乗り出て、同室生活が始まった。
本来は個室へ移るはずだったが、「私はベッドを使いませんので」と平然と言われ、そのまま同室のまま。
改修してもらった結果、寝室の奥にフィサ専用の小部屋はできたが……
夜になると必ず、シグマは枕元に座り、本を読みながら見守っている。
(ページ全然進んでないんだよなぁ……今度聞いてみよう……)
「フィサ。考え事は後に。」
「し、失礼しました!」
「はは。どうした?気になることでも?」
「……そうやって甘やかすのはやめてください。」
「はいはい。」
その日、ルヴェーグには街での対談があったため、御者席にはシグマ、馬車の中にはルヴェーグとフィサの二人きりだった。
「フィサ。昨晩のシグマは……よく“寝て”いたか?」
「え……あぁ。今朝、ぼーっとしてましたよ。」
「……なるほど。昨日は新月だったからな。」
夜の血を引く者は睡眠を必要としない。だが新月だけは“夢に囚われる”日だ。
「大丈夫ですよ。シグマさんが自分で判断したんですから。」
「それもそうか……ありがとう、フィサ。」
⸻
人気のない路地を歩くと、シグマが静かに視線を動かした。
──敵襲の合図。
「……囲まれています。戦力差はこちらが上。フィサ、いいですね?」
コクリと頷いた瞬間、シグマは影へと落ちた。
カキィン!
「ルヴェーグ様、大丈夫ですか」
「おぉ……さすがシグマの弟子だな。」
「勿体ないお言葉。──はっ!」
投げ返したナイフが奥の敵を倒す音が聞こえた。
「お見事です。教えた通りですね。」
影から現れるシグマ。その気配は、完全な“夜”だった。
「残りは私が。フィサはルヴェーグ様を目的地まで。あとで合流します。」
⸻
無事に屋敷に戻り、シグマは夕食の準備へ向かった。
ルヴェーグはふと、フィサに問う。
「……なぁ、フィサ。」
「どうされました?」
「シグマのやつ……お前に優しいか?」
「えぇ……もちろんですけど?」
「……そうか。ならいい。」
フィサの耳元へ顔を寄せ、低く囁く。
「フィサ。嫌になったら……いつでも僕のところへ来い。僕なら、お前を甘やかしてやれる。」
その瞬間。
「ルヴェーグ様。」
戻ってきたシグマが、僅かに速い足取りで近づく。
「……距離感を誤らないよう、お願いしているはずです。」
⸻
湯浴みを終え、フィサが部屋へ戻る。
「お疲れ様でした、フィサ。」
「シグマさんも……。」
紅茶を注ぐ音だけが、静かな部屋に響く。
「この部屋、本当に静かですよね。」
「ええ。元々は……生活音を遮断するための場所でしたから。」
シグマは穏やかな目で続ける。
「今は……あなたと語らう、この時間が嬉しいのです。誰にも邪魔されず、二人だけで過ごせますから。」
フィサは思い切って尋ねる。
「そういえば……シグマさん。僕が寝てる時に読んでる本、ページ全然進んでないですよね?理由があるんですか?」
シグマは少し目を伏せた。
「……私は物語が得意ではないのです。必要な知識は読みますが……どうにも心に入りにくい。」
言いかけた言葉は飲み込まれた。
やがてフィサは眠りに落ちる。
──その静かな室内に、“別の気配”が近づく。
シグマは眠るフィサを一瞥し、静かに呟いた。
「……それに。夜はこうして“客”が多い。……フィサ。あなたは知らないままでいてください。私のようにならないためにも。」
影へ溶けるように、音もなく部屋を出た。
⸻
『私のようにならない為にも』
その言葉の裏には、彼自身の“深い闇”が沈んでいる。
檻の中で泣きじゃくる幼い子供。
冷たい床で震えながら食事を口へ運ぶ子供。
助けを求めるように怯えた目で、唯一の救いを求めてきた子供。
それは──フィサのようで、フィサではない。
シグマ自身の幼少期だった。
新月には影が濃くなり、夢は記憶と混ざり合い、
まるで“今、目の前で起きている”かのように蘇る。
だから彼は毎晩枕元で見守る。
同じ闇に、フィサを落とさないために。
⸻
翌朝。
枕元の椅子には、いつものように座るシグマの姿。
だが──本に挟まれたしおりは、昨夜よりほんのわずかに右へ進んでいた。
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