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兆し

 静寂に包まれる寝室で夜中ふと目が覚めて横を見ると一緒に寝ていた筈の秋の姿が無かった。窓の外はまだ夜の帳が下りている。こんな時間にどこに行ったのかとベッドから抜け出して寝室の扉を開くと薄明りと共に甘い香りが漂っていた。 「あぁ……また割れた……」  仄かな明かりと甘い香りはキッチンからで、何やら苦戦しているらしい秋の姿があった。敢えて声を掛けずに壁に背を預けて眺めているとどうやらオーブンでマカロンを焼いていると思わしき事が分かる。こんな時間だというのに此方にも気付かずただひたすら真剣に練習を繰り返していた。水を差すのは辞めようとまた静かに寝室の扉を開いてベッドに戻るが隣に秋が居ないだけで少し寂しいと感じた。  だが秋の事だから何でも器用に熟せてしまうと思っていたのは間違いで、本当は水面下で足を必死にバタつかせる努力型の様だという事が分かったのは意外だった。  何となく寝付けず暫くぼんやりと考え事をしていると寝室の扉が開いてそっと秋がベッドに戻ってくる。思わず寝たふりをしてしまったが秋は気付いていない様子だ。 「俺、絶対一流パティシエになって智也さんに相応しい男に成長しますから……」  そう静かに呟いた秋に抱き締められるが寝たふりをしていますとは到底言えず、そっか、秋も将来を考えているんだと思うと心が温かくなった。秋の暖かさに包まれている内にまた睡魔が下りて来てうとうとと微睡んだ。  朝日が差し込んでその眩しさに再び意識が覚醒すると、また秋は隣に居なかった。眠い目を擦り欠伸を噛み殺してスウェットのポケットにスマートフォンを捻じ込みリビングへ向かうと、テーブルの上には後は温めるだけの状態でラップが掛かったオムレツの皿がある。その横に秋の字で『朝ごはん食べて下さいね』と書かれたメモも置いてあり、先に出勤したのかと察した。  電子レンジにオムレツの皿を入れてスイッチを押し、食パンをトースターにセットし電源を入れてから洗面台へと行き洗顔と歯磨きをさくっと済ませた。キッチンに戻る頃にはオムレツも温まりトーストも焼けていて丁度いい。  冷蔵庫からマーガリンとケチャップを出してフォークと共にマグカップに水を注いでテーブルへと運ぶ。先にスマートフォンのアラームを切ってリモコンでテレビをつけると朝のワイドショーで天気コーナーが始まった所だった。今こそ晴れていて穏やかな気候だが、どうやら夕方から夜にかけて雨に変わるらしい。 「頂きます」  手を合わせてからトーストにマーガリンをサッと塗り、ケチャップを掛けたふわふわのオムレツをフォークで切り取って頬張る。そういえば秋は傘を持って行ったのだろうかと気になり念の為『おはよ、傘持ってった?』と手短にトークアプリでメッセージを送った。  恐らく昼休憩までは返事は来ないだろうと踏んでいるのでそのままスマートフォンをテーブルの上に置き、トーストとオムレツを交互に食べ進める。  ニュースをぼんやり眺めているとスイーツコンテストが間もなく開催されるという情報が流れ、そういえば秋が言っていたのはこれかと推測する。ならば夜中の特訓も今日の朝がやたら早いのもその練習という事だろうか。  それならそうと言えば良いのに、とは思いつつ以前のパリ留学もギリギリまで悩んで隠していた秋を思うとそういう男なのかもしれない。  相応しい男になるとか、そんな事気にしていないのに秋なりにも思う所があるのだろう。  それなら陰ながら応援するのみ、とオムレツとトーストを完食して手を合わせ、皿を重ねると調味料と共にキッチンへと片付けに向かった。  昼休憩中、近所のカフェでカルボナーラを食べているとスマートフォンが振動した。手に取り確認すると秋からで、『ちゃんと傘持ちました!』と綴られている。ずぶ濡れで帰って来る心配は無くなってひとまず安堵すると『無理せずに』とだけ送って再びカルボナーラをフォークで絡め取り頬張った。  カフェのこういったパスタも勿論美味で悪くないが、即席で作った秋の和風パスタが恋しくなる。簡単な事しかしていないのに魔法でも掛けたかの様にあれは美味しかった。  今はすっかり秋が料理してくれるのが当たり前になり、栄養の偏っていたデリバリーや外食ばかりの日々がだいぶ見違えている。  受付のスタッフからも最近血色が良いと褒められたばかりだ。すっかり胃袋と健康面まで秋に掌握されていた。  するとまたスマートフォンが震え、メッセージを確認すれば『今日遅くなるので先に寝てて下さい』との文字。少し寂しいが今が頑張り時と思えばやむを得ない。最近は手料理で満たされていたから逆にジャンクな物でも食べようと夕飯はハンバーガーに決めた。  ホットコーヒーで口直しをし食事を終えると席を立ってトレーを返却口に持っていき店の外へ出る、ほんのり暖かくなり出した気配のする空気が心地いい。  歩いて数分の職場であるファッションビルへと足を向けて戻っていくと、街中はバレンタインも終わったばかりだというのにもうホワイトデーの装飾やポップが貼り出されていて人々は行事に全力過ぎると思わざるを得ない。  さてもうひと頑張りしますか、と軽く伸びをしてからビルの中へと戻って行った。  人にもよるだろうが、占い師は基本的に自分を占わない――というより占えない。不思議なもので、これが分かってしまうと人が変わってしまう占い師も居るからだ。  自分自身が見えた運命に左右されていてはプロとしての仕事に支障が出る。あくまでも己はフラットに、他人を導くのが使命。  ――とは言ったものの、一度気になると知りたくなってしまうのも人間の性というもので……休憩が終わる前に何となくタロットカードを混ぜてシャッフルし、その中からいつもの様に二枚のカードを引き抜いた。  右に現れたのは逆位置の星、そして左には正位置の太陽が姿を現す。これはあくまでも自分の事ではなく秋の事について。今は厳しい試練の時だが光明が差すと取っていいものか、その結果に頭を悩ませる。正位置の太陽は紛れもなく良い兆しのカード。それを手に取ってぼんやり秋を思い浮かべながら眺めた。

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