10 / 13

第9話 闇に触れた代償

砂浜に着く頃には、すっかり日が暮れていた。 空は薄紫から群青へと沈み、 海はその色を静かに映し出している。 誰もいない浜辺で、 波の音だけが規則正しく耳に届く。 春は立ち止まり、 崖の上の別荘を仰ぎ見た。 ――彼方の姿は、どこにもない。 いくつあるのか分からない窓のひとつに、 ぽつりと灯りがともっている。 なぜだか、そこに直哉と蓮がいるような気がした。 確証なんてどこにもないのに。 胸の奥が、 ひどくざわつく。 ――帰ろう そう思った、次の瞬間。 ぞくりと、肌が泡立った。 潮の匂いが、 浜の空気が、急に重くなる。 恐る恐る振り返った、その先で―― そこに“在る”はずのない黒い影が、 視界の端で、ゆらりと揺れた。 咄嗟に悲鳴を飲み込み、目を凝らす。 「……彼方?」 呼びかけた声は、小刻みに震えていた。 彼方の身体が どす黒い靄のようなもので覆われている。 「……彼方?」 もう一度呼びかけ、一歩づつ、慎重に近づいていく。 表情が見える距離まで近づいた時、 彼方の唇がかすかに動いた。 「……なお、や……」 直哉の名前。 彼方は、焦点の合わない虚ろな目で ぶつぶつと何かを呟き続けていた。 それは、 春が幼い頃から何度も見てきた姿。 意思を失い、 未練だけで彷徨う、死者の姿だった。 「彼方……! ダメだ!」 春は、思わず手を伸ばしていた。 指先が彼方の肩に触れた、その瞬間―― 心臓が、ドクン、と異常なほど大きく跳ね上がる。 体の奥から、 得体の知れない何かが一気に抜け落ちていく感覚に眩暈がした。 「ひ……あ……」 口からは苦し気なうめき声が零れ落ち、 頭の中ではしきりに警鐘が鳴り響いている。 (……彼方から、離れないと) (手を、離さないと) ――なのに、身体が言うことをきかない。 磁石に引き寄せられるように、 彼方から離れることができない。 視界が歪み、体から力が抜け落ちていく。 彼方の影が、 ほんのわずかに、濃くなった気がした。 「……あ、たたか……」 地の底から這い上がってくるような、 そんな声が耳に届く。 それを最後に、意識が急速に遠のいていった。 (……落ちる) ――そう思った、次の瞬間。 「――白鷺!!」 背後から伸びた腕が、 春の身体を強引に引き寄せた。 同時に 閃光のような眩い光が眼前で弾ける。 「……っ」 空気が震えた。 (れ…ん、さん…?) 重たい頭をゆっくりと持ち上げて見上げた先に、蓮がいた。 (…ど、して、ここに?) 「……馬鹿か、お前は」 低く、抑えた声。 だが、その奥に滲む感情は 明確な怒りだった。 「こんな事を繰り返していれば、いづれ命を落とすぞ」 はっきりと告げる、その言葉の意味がわからない。 何か言おうとしても、頭がうまく働かない。 連は、春を一度だけ見下ろすと 迷いなくその端正な顔を近づけた。 (……え?) 息が触れるほど近くまで迫る。 その距離に、逃げ場はなくて。 次の瞬間、 唇が、塞がれた。 ――な……に……? 思考が追いつかない。 抵抗しようにも、身体が言うことを聞いてくれない。 何が起きているのか理解できないまま、頭が混乱をきたし出す。 唇越しに ひやりとした感触が伝わった。 ――冷たい。 まるで冷気のような息を吹き込まれて、春は体を小さく震わせた。 口の中に流れ込んできたそれは 喉を通り、胸へと落ち、 身体の奥へと染み渡っていく。 それと平行して、 失われかけていた体の感覚が指先から少しずつ戻ってきた。 心臓が、強く脈を打つ。 体に血が巡り始める。 「……っ、は……」 空気を求めるように、春の唇が開いた。 それを合図にしたかのように、 蓮がさらに深く口付けてくる。 逃げることを許さない。 強引で、容赦がなくて―― それなのに、触れ合う唇はどこか温かい。 徐々に、意識が現実へと引き戻されていく。 ――瞬間、 春の全身が一気に熱を帯びた。 「ん……んぅー……」 抗議の声をあげたくても、 蓮に全て吞み込まれてしまう。 冷気が、呼吸ごと奪うように体内へと満ちていき、 やがて、蓮の唇がゆっくりと離れていった。 「……戻ったな」 何が? なんて聞く余裕すらなくて、 「ーーーーこ、の。腐れ外道がーー!!」 ひっぱたくつもりで、思いっきり腕を振り上げた。 なのに、意図も簡単に交わされて、 体勢を崩して前のめりに倒れそうになった体を蓮の腕に支えられる。 「ーーーーっ!」 情けなさと悔しさと恥ずかしさで、春の目の奥が熱くなる。 それでも負けじと蓮を睨みつければ、 (……え?) その瞳の奥に、 “赤い光”が揺らめいていた。 今度は見間違いじゃない。 ぞっとするほど綺麗で、 同時に、底知れない危うさを孕んだ色。 気づけば、春は吸い寄せられるように距離を詰め、 その瞳を至近距離で見つめてしまっていた。 「……まだ、し足りないのか?」 「え?」 「キス」 一瞬、何を言われているのか理解できなかった。 息が触れ合うほどの距離で、 瞳の奥を覗き込んでいる自分の姿に気づくまで。 理解した瞬間―― 「っ!? そんなわけ、あるか――!」 春の叫びが 夜の海に響き渡った。 ――少し離れた場所で、 彼方がその様子を静かに見つめていた。 その表情が 笑っているのか、泣いているのか―― 春が気づいた時には、 もうそこに彼方の姿はなかった。

ともだちにシェアしよう!