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第11.5話 ――Side.黒鷺蓮 無防備という名の罪

「今日は、ありがとうございました。 明日もよろしくお願いします」 そう言って、春が頭を下げる。 ――近い。 蓮は、無意識にそう思った。 距離そのものは、これまでと変わらないはずなのに。 夕暮れの柔らかな光の中で、 春の存在だけが、やけに輪郭を持って迫ってくる。 答えずに見つめ返すと、 春は視線を逸らさなかった。 無垢な顔で、まっすぐこちらを見上げてくる。 ……無自覚か。 その眼差しが、 どれほど人の内側を揺らすかも知らずに。 「……なぜ、お前はそこまでする?」 低く抑えた声が、 夕暮れの空気に静かに滲む。 春は一瞬だけ戸惑ったように目を瞬かせ、 首を傾げた。 「……?」 その仕草が、ひどく無防備で。 蓮は、ほんのわずかに奥歯を噛みしめる。 「彼方とも、直哉とも、面識はなかったはずだ。 ほぼ見ず知らずの他人のために―― なぜ、自らの命を賭けようとする?」 探るつもりだった。 確かめるための問いだった。 だが、春を捉える視線は、 いつの間にか、逃がさぬように絡め取っている。 「それとも…… 彼方に命を吹き込む行為が、 どれだけ危険を伴うか、 まだ理解できていないのか?」 「……理解は、しているつもりです」 少しだけ間を置いて、春は答えた。 その声は震えていない。 迷いも、恐れも、そこにはなかった。 「でも、彼方も直哉さんも…… 今はもう、他人じゃないです」 ――だから、厄介だ。 蓮は、心の奥でそう呟く。 彼方と初めて出会った日のことを思い出すように、 春は一度、視線を伏せた。 「彼方に会って、 彼方の苦しみを知ってしまったから」 言葉を選びながら、 それでも逃げずに、想いを差し出してくる。 「心の底からの懇願を、聞いてしまったから。 それを叶える力が、もし僕にあるなら……」 春は、はっきりと顔を上げた。 その瞳は、 夕焼けを映して、驚くほど澄んでいる。 「……何もしない、っていう選択なんて、 僕にはできないです」 ――無防備にも、ほどがある。 蓮は、思わず息を止めた。 守りたいと思わせるのも、 踏み込ませるのも、 そのすべてを、春は自覚なくやっている。 まっすぐに向けられた視線を、 逸らすことができない。 沈黙が落ちる。 竹藪が風に揺れ、 ざわめきが二人を包み込む。 その中で、 蓮の胸の奥に沈めていた何かが、 静かに、だが確かに揺れた。 やがて、蓮は短く息を吐く。 「明日までに、 今日覚えたことを、完璧にこなせるようにしておけ」 言葉を区切り、 わずかに声を落とす。 「……まずは、そこからだ」 それは命令ではない。 だが、拒否も許さない。 選んだのは、お前だ―― そう告げるような、静かな声だった。 踵を返し、歩き出す。 背中に、 春の気配を感じながら。 「ありがとうございました……!」 その声が、 不思議なほど、胸の奥に残った。 夕暮れの中、 春が見えなくなるまで、 蓮は一度も振り返らなかった。 ――振り返れば、 もう一歩、近づいてしまいそうだったから。

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