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第18話 夢と現実の狭間
春は、庭先で一人、修練に励んでいた。
集中することで、力をコントロールする感覚を研ぎ澄ませていく。
だが、ふとした瞬間に、意識が散漫になる。
気づけば視線は、何度も玄関先へと向いてしまっていた。
――蓮に、もう来なくていいと言ったのは自分だ。
一人で鍛錬できると口にしたのも、この口だった。
来るはずがない。
そう思っているのに、
門扉が開く音を、無意識に待ってしまっている自分がいる。
春は、深く息を吐いた。
(……何をやってるんだろう、僕は)
両手で頬を軽く叩き、気合いを入れ直す。
再び修練に戻るが、胸の奥に沈んだ重みは、消えてはくれなかった。
*
太陽が西へ傾きかけた頃。
春は休憩のため和室へ上がり、そのまま大の字になって寝転がっていた。
天井の木目をぼんやりと眺めながら、
これまでに起きた出来事を、一つひとつ思い返していく。
――彼方のこと。
――蓮のこと。
――選定者のこと。
耳に届くのは、風に揺れる木の葉の音と、遠くで鳴く鳥の声だけ。
静かすぎるほどの午後だった。
その静けさの中で、ふと思い出す。
今日は、年に一度の精霊祭だ。
毎年、当たり前のように楽しみにしていたはずなのに。
ここ数日は、それを考える余裕すらなかった。
(……蓮さんと、お祭りに行けたら)
思考がそこまで辿り着いた瞬間、
春は自分で自分を戒めるように、息を吐いた。
「……ばかだなぁ」
片手で両目を覆い、強く瞳を閉じる。
時計の秒針が、やけに大きく耳に響く。
その規則正しい音が、次第に遠ざかり――
春の意識は、ゆっくりと眠りの世界へと沈んでいった。
*
――気がつくと、春は深い森の中に立っていた。
冷たい空気が、肌にまとわりつく。
あたり一面は、真っ白な霧に覆われ、数メートル先すら見えない。
音が、ない。
風の音も、鳥の声も、
自分の呼吸音さえ、ひどく遠い。
胸の奥が、ざわりとした。
「……ここはどこだろう?」
答えは、返らない。
その時、霧の一部が歪んだ。
水面に石を落としたように、ゆらりと揺れる。
目を凝らすと、
霧は少しずつ形を成し――
彼方の姿へと変わっていった。
『春』
その声を聞いた瞬間、胸が締めつけられる。
彼方は、穏やかに笑っていた。
けれど、その笑顔は、どこか“遠い”。
『そんなところで、何してるの?
こっちにおいでよ』
言われるまま、春は一歩、足を踏み出した。
「彼方こそ……なんでここに?」
問いかけながら、春は理解している。
これは夢だ。
現実ではない。
それなのに――
夢にしては、感触が生々しすぎた。
『僕はね、春を迎えにきたんだ』
彼方が、静かに手を伸ばす。
『一緒に行こう』
その言葉に、
胸の奥で、微かな警鐘が鳴った。
――どこへ?
問い返す前に、
春の手は、自然と彼方の手を取っていた。
白い霧の中を進む。
足元から、カツン、コツン、と硬い音が響く。
森のはずなのに。
土でも、枯葉でもない。
『春、僕ね。ずっとこの島に来てみたかったんだ』
彼方は、前を向いたまま話し続ける。
『直哉さんが、よく話してくれたから。
別荘から見る景色がどれだけ素晴らしいか。
海がどれだけ広いか。
星空がどれだけ近いか』
落ち着いたその語り口が、春の心をざわつかせていく。
『精霊祭のこともね、直哉さんに教えてもらったんだ。
二人で見に行こうって、約束していたんだよ』
彼方は足を止め、ゆっくりと振り返った。
『……すごく、楽しみにしてた』
声は優しい。
けれど、心は警戒音を鳴らし続けている。
「……彼方?」
呼びかけた瞬間、
彼方の輪郭が、霧に溶けはじめた。
『はる』
声が頭の中に反響する。
「彼方!?」
伸ばした手は、空を切った。
『だから、もう
……待てないんだ』
霧が、音を立てて崩れ落ちる。
足元に、真っ暗な穴が口を開き――
落ちる、と思った瞬間。
*
春は、激しく息を吸い込んで目を覚ました。
心臓が、壊れそうなほど鳴っている。
喉が渇き、背中が冷たい。
夢だ。
そう思おうとして――
違和感に、全身が凍りついた。
畳の感触が、ない。
代わりに、冷たく硬い床。
視界に入るのは、白と金で彩られた天井。
「……は?」
春は、ゆっくりと周囲を見回す。
大理石。
豪奢な調度品。
天井から下がる、見慣れないシャンデリア。
自宅では、ない。
夕暮れの光が室内を染め、
影だけが不自然に伸びていた。
立ち尽くす春の耳に、
直接“内側”へ響く声が落ちてきた。
『――やっと、来てくれた』
背筋に、ぞくりと寒気が走る。
恐る恐る、振り向いた先。
そこにいたのは――
床に足をつけず、
まるで重力を忘れたように宙へ浮かぶ、彼方だった。
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