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第20話 生への執着
「彼方?……なんで……」
春の口から、茫然とした呟きがこぼれ落ちた。
声は自分のものなのに、ひどく遠い。
彼方は、答えない。
ただ春を見つめている。
瞬きひとつせずに……
その視線に、ぞわり、と背筋に冷たいものが這う。
彼方が、異質なものに見える。
(……これは、本当に
僕の知っている彼方なのだろうか?)
『はる』
名前を呼ばれただけなのに、胸の奥がざわついた。
『僕ね……直哉さんの恋人でいるの、ずっと不安だったんだ』
彼方が言葉を紡ぐたび、
室内の空気が、じわりと重さを増していくのを感じた。
『いつも、頭の片隅で終わりを想像してた』
『なのに……直哉さんの心は
誰にも渡したくなかった』
『僕だけを見て。
僕だけを、思ってほしかった』
彼方が生前に抱いていた不安と、
押し殺してきた思い。
春は、息を呑んだ。
室内の空気は、
いつの間にか湿り気を帯び、
肌にまとわりつくような不快さを孕んでいた。
彼方は感情をあらわにすることなく、
ただ淡々と言葉を紡いでいく。
『……こんな形で……死ぬことで
直哉さんの心を縛り付けたかったわけじゃない』
静かな声が、部屋に反響する。
夕焼けに染まった室内が、
まるで現実から切り離された空間のように感じられた。
「……彼方」
呼びかけた声が、わずかに震える。
彼方の瞳が、暗く淀んだのがわかった。
――悲しみ。
――焦燥。
――そして、執着。
一歩、彼方が近づいた。
春は、無意識に一歩、後ずさる。
「……その思いを、
直哉さんに直接伝えるんだろ?」
『……そうだね。最初は、そう思ってた』
一歩。
また一歩。
『はる』
背中が壁に当たり、逃げ場が断たれた。
彼方が、ゆっくりと手を伸ばしてくる。
夕焼けの光が彼方を照らし、
その輪郭が、どこか曖昧に揺らいで見えた。
(……だめだ)
心臓の鼓動が早い。
春は必死に靄を操り、
体の輪郭をなぞるように、全身に力をまとわせた。
形成直後、彼方の指が、春の頬に触れる。
その瞬間――
靄が、ぐにゃりと歪んだ。
だが、歪みを埋めるように、再び靄が形を形成する。
(彼方を説得しないと……)
そう思うのに、
心臓の鼓動が邪魔をして
思考が、うまく形を結ばない。
『……死にたくなかった』
喉の奥から絞り出すような声が、春の耳に届いた。
『生きたかった……
どんなに不安でも、どんなに悩んでも、
直哉さんと一緒に……生きていきたかった』
その言葉が、春の胸の奥に深く突き刺さる。
――それは、死者が語るには、
あまりにも生々しい「生」への執着だった。
靄が、大きく揺らいだ。
同時に――
体の奥から、何かが引き抜かれる感覚に、息を呑む。
「……っ」
気づいた時には、遅かった。
彼方の指先へ、
春の命が、音もなく吸い込まれていく。
(まずい……!)
力をコントロールしようとする。
けれど、心が追いつかない。
彼方の言葉に、心が引きずられてしまう。
――助けたい。
意図せず、
そう思ってしまった。
春の思いに、白鷺の力が呼応する。
力を制御する術は、身につけた。
だが――
心までは、どうにもならなかった。
春の命が、
止まることなく、彼方へと流れ込んでいく。
命が削られていく感覚に、
視界がぐらりと傾いた。
「……う、ぁ……」
声にならない声が、喉から零れ落ちる。
『——春の命、僕にちょうだい』
彼方が、笑った気がした。
春は、死者の「生への執着」が、
これほど残酷な凶器になり得ることを
初めて知った。
「……か、な……た……はな……せ……」
懇願は届かず、
命は、引き剥がされるように失われていく。
『僕の願い、叶えてくれるって言ったよね』
「ひっ……」
今までの比にならない程の濁流に呑み込まれた。
悲鳴にも近いうめきが、口から漏れ落ちる。
体の感覚が急速に失われていき、
反り返った喉は、
もはや声を形にすることすらできなかった。
――死、を意識した。
瞳に滲んだ涙が、
頬を伝って、静かに零れ落ちる。
薄れゆく意識の中で、
浮かんだのは――
「……れん……さ……
ご……め……」
それが、
最後に紡がれた言葉だった。
意識が落ちる、その瞬間。
眩い閃光が走り、
春の体は、力強い腕に抱きとめられた――。
彼方の気配が、遠ざかる。
「春……!」
……誰かが、僕の名前を呼んでいる。
その声が、誰のものかを考える前に
意識は、完全に闇に沈んだ。
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