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第8話
天国はいつも音楽が流れているものらしい。
天使の歌声は伸びやかに青空に広がり、ハープの心地よい音色がどこからともなく響く。降り注ぐ陽光は母の腕に抱かれるような安らぎを与えてくれ、誰もが笑顔溢れる場所なのだそうだ。
薄っすらと瞼を開けたレナードの視界は靄がかっていた。なにも見えない。でも確かに心地よい音色が聞こえる。
(ここが……天国か)
身体を包んでくれるデュベがすべすべしていて気持ちがいい。どうやらベッドに寝かせられているようだ。
窓から差し込む日差しが眩しい。手で覆いたいのに身体が砂袋を詰め込まれたように動けなかった。
息を吸い込もうとすると、何日も飲み食いしていないように喉がカラカラで引っついてしまう。かは、と渇いた咳をこぼすと靄の視界がわずかに暗くなる。
いや、違う。人、だろうか。
ここが天国なら天使か。
天使がレナードの顔を覗き込んでいるようだ。
「ーー」
なにか言っている。でも音楽ばかりが鼓膜に響き、天使の声がわからない。
レナードは力尽きて瞼を閉じた。
再び目を覚ますと今度は暗かった。音楽は止んでいる。天国にも夜があるらしい。そして夜は音楽が鳴らないのだと知った。
いいことを知った気分でいるとまた視界に人影が映る。
顔は見えない。
でも月明かりに照らされた髪色は、夜空に浮かぶ天の川のような金色をしている。
「ーー」
天使はまたなにか言っていた。でも言葉が意味を持ってレナードの耳に届かない。 音楽はちゃんと聞こえるのにどうしてだろう。
ぼんやりしていると薄く開けたままの唇に細い管が入ってきた。ゆっくりと水が流れてくる。それをこくりと一口飲み、レナードはまた眠った。
次に目を覚ますとまた明るい。心地よい音楽が流れている。そして必ずそばにいる天使。レナードの世話係なのだろうか。
また管を押し込まれる。水を飲み下し、再び眠った。
目を覚ますとまた水を飲み、眠る。
何度も何度もそれを繰り返し、ようやくレナードの視界が開けた。
窓から差し込む陽光が眩しい。空中に舞う埃が光の粒子に姿を変え、楽しそうに踊っている。
外から明るい調子の音楽が流れていた。祭りのような騒がしさで、とてもじゃないが天使が歌っているとは思えない。
太鼓や笛などが騒音に近い音を奏でている。
(ここはどこだ?)
視界を巡らせるとどこかの一室らしい。だが見覚えがない。
調度品の類はなく、ベッドとサイドテーブルだけの粗末な部屋だ。
サイドテーブルには細い管の吸い飲みが置いてある。ガラスの陶器の中には少量の水が入っていた。
どうやらこれで水を飲ませてもらっていたらしい。
一体誰が? いや、どの天使がと言った方がいいのだろうか。
「目が覚めたか?」
レナードの視界に人影が入る。プラチナブロンドの髪がウィンドチャイムのように揺れ、いまにでも美しい音色を奏でそうだ。
「……フリッツ皇子?」
名前を呼ぶとフリッツは目をかっと開き、レナードが寝ているベッドごと抱きしめた。その肩が小刻みに震えている。
「よかった。意識があるな」
「ここは……天国ではないのですか?」
「ダンテ殿のお屋敷の一室だ。まだ寝ぼけているのか」
こつんと額と額をぶつけられ、アクアマリンの瞳に自分の弱り切った顔が映る。 頭には包帯が巻かれ、頬や首にもガーゼが貼られていた。
「自分は死んでいないのですか?」
「おまえが死んだら俺も死ぬ。地獄の果てまで追いかけるぞ」
「確かにあなたならやりかねない」
レナードがこっそり旅に出たのについてきたのだ。フリッツなら地獄の悪魔さえ仲間にして、レナードを探すだろう。
身を捩るとレナードの脇腹に痛みが走り、くぐもった声が漏れた。全身が燃えるように痛みだす。
「うぅ……」
「すまない。そろそろ痛み止めの時間だな」
フリッツはそう言ってベッドサイドから粉末の薬を取り出し、吸い飲みに入れて丁寧に混ぜてくれた。
「これを飲むと楽になるぞ」
「従者がやるようなこと、あなた様はやらなくていいのです」
「なにを今更。おまえの世話はずっと俺がやっていたんだぞ」
「……嘘ですよね?」
信じられない。皇族ともあろう御方がただの騎士に施しをするなどあってはならないことだ。
まじまじとレナードが見返しているとフリッツは大きく胸を仰け反らせた。
「おまえの身体を拭いて着替えさせたり、寝返りを打たせたり、足や腕を動かしたり。それはもう甲斐甲斐しく世話をしたさ」
「そんな……申し訳ありません」
意識が浮上するたびに水を飲ませてくれたのは天使ではなく、フリッツということか。
(俺はなんて罰当たりな)
頭を下げたいところだが、痛みで身体がまったく動かせない。額に脂汗が浮かぶとフリッツは慣れた様子で木綿のハンカチで拭ってくれた。
「とりあえず薬を飲め」
「ありがとうございます」
フリッツに支えられながらの飲み終えると驚くほど痛みが引いた。まるで魔法のように一瞬で身体が軽くなる。
驚いたレナードを見て、フリッツは肩を揺らした。
「すごいだろ。ブランデンの薬は」
「はい。これならすぐ任務に戻れます」
こぶしを開いたり閉じたりを繰り返しても痛くない。不思議と活力が湧いてくる。
「莫迦か。おまえ、五日も昏睡状態で生死を彷徨っていたんだぞ。丈夫だというオメガでもこうして目を覚ましたのは奇跡に等しいんだ」
「すいません。心配……かけましたよね」
「あぁ、そうさ。死ぬほど心配した。本当にもう駄目かと思ったぞ」
フリッツの目元には濃いくまがあり、よくよく見れば無精ひげまで生えてしまっている。頬は痩せこけ、何日も食事を取っていないような憔悴した姿は初めて見た。
どれほどの心労をかけてしまったのだろうか。
でもどうしても気になることがある。
「自分が眠っている間になにがあったんです?」
毛玉の魔獣と対峙したあとーーレナードは意識を失い、その後のことをなにも知らない。
フリッツは脇にあった木椅子を引き寄せて腰を落ち着けた。
「魔獣を倒して、金木犀を植え直した。燃やされる被害もなくなり、街は平和を取り戻しているよ」
その言葉を聞いて大事な任務を遂行できたという安堵が広がった。
フリッツは続ける。
「整合騎士団も応援に駆けつけてくれ、いまは復興の手伝いをしている。まだしばらくかかるだろうだが、順調だよ」
窓の外に視線を向けるフリッツの横顔を見上げた。魔獣は去り、街は元通りになりつつあるのにどこか浮かない表情をしている。
「まだなにかあるのですか?」
「いや、いい。あまり一気に話すと疲れるだろう。薬が効いているうちは休め」
「ですが」
「そんな生き急ぐな。これ以上俺に心労をかけないでくれ」
頭をくしゃりと撫でられ、フリッツは顔を寄せた。
だが唇が触れる寸前で止まり、ふいと背中を向け部屋を出て行ってしまった。
(キス、してくれるかと思った)
期待してしまった唇になぜか熱が籠る。恥ずかしさてデュベを引っ張り、頭まで被った。
一度寝て起きると外はすっかり暗くなっていた。まだ傷は痛むが朝よりだいぶいい。
レナードは起き上がり水を一口飲むと、もっとせがむように胃がきゅうと締めつけられた。
「腹が減ったな」
ベッドに寝転んだまま腹を擦っているとタイミングを見計らったようにノック音がした。
「やぁ、体調はどうだい?」
「ジン皇太子!」
レナードが慌てて起き上がると「急に動くと危ないよ」とやんわりと制された。 だがそういうわけにもいかない。間借りしているとはいえ一般人の部屋を一国の皇太子が訪ねるなど前代未聞だ。
「なぜジン皇太子がこちらに?」
「ブランデン辺境地の視察にーーという名目上だけど、本当はレナードに会いに来たんだ」
「自分に……ですか?」
嫌な予感がする。
ジンは勿体ぶるように口を開いた。
「フリッツと番になっているそうだね」
「……はい」
瞬きもできずにレナードはジンをみつめた。フリッツより濃い菫青石色の瞳に光明が差す。
「おめでとう! よくやったね!!」
割れんばかりの拍手を受け、レナードは首を傾げた。
「……は?」
「思いを通じ合ったってことだろう。長年片思いしていたもんね。僕たち「失恋同盟」は今日をもって解散だ!」
「なにを仰っているのですか」
「きみはフリッツと結婚するんだろう?」
「まさか、あり得ません」
ようやくレナードの困惑に気づいたのかジンは黙り込んだ。
これは順を追って説明する必要がある。
「……事故つがいなのです」
「嘘……」
「事実です」
卒業プロムの日にあった話をするとジンの顔に暗い影が落ちる。
「フリッツ皇子は、自分のフェロモンに抗えなかっただけです。いわば被害者です」
突発的だったとはいえ、オメガのフェロモンでフリッツを誘ったようなものだ。全責任はレナードになる。
話を聞き終わったジンは険しい顔のまま細い顎に指をかけた。
「聞いていた話と違うな」
ブツブツと言いながら思考を巡らせるのはジンの悪い癖だ。すぐに自分の世界に入ってしまう。
しばらくするとようやくジンは顔を上げた。
「二人でよく話し合ったの?」
「必要ありません。もう決めたことです」
「なんでも決めつけてはダメだぞ。ちゃんと相手の想いを聞いてから決断しても遅くない」
長年傷を慰め合ってきたジンの言葉は深く刺さる。だが一方でなにを言われても結果は変わらないという強い意志もあった。意志というより意地か。
レナードの頑固な様子にジンは小さく息を吐いた。
「どうしてそう昔から頑固かな」
「一度決めたことは曲げません」
「そういうところはレナードらしいけど、ちょっとはフリッツの気持ちも聞いてあげなよ」
「フリッツ皇子の気持ち……?」
ミナスで酔っ払いの男たちに「俺の番は可愛いだろ」と自慢していた。でもあれは番になったせいで、思考が書き換えられているからだ。
だからいまのフリッツは番になる前までの彼ではない。番という制約の元、彼の気持ちはおざなりにされている。
なにを話しても無駄なのだ。
再びノック音がするとフリッツが顔を覗かせた。ジンを認めるとあからさまに怪訝な顔をしている。
「兄上、いらっしゃったんですか」
「ただの見舞いだよ」
「レナードはまだ本調子ではないのです。あまり無理を強いることはやめていただきたい」
「はいはい。すぐ退散しますよ」
二人の戯れを久しぶりに見たような気がする。ジンはいつもフリッツに気を使い、一歩後ろに下がっていた。レナードが寝こけている間に心情の変化があったのだろうか。
ジンとの会話をやめ、フリッツはレナードと向き合った。
「そろそろ腹が減る頃合いだと思ったんだが、食べられそうか?」
よく見るとフリッツは銀のワゴンを押していた。スープやティーポット、ミルク粥が並べられている。
(まったくこの兄弟は皇族というお立場を理解されているのだろうか)
これでは本当に使用人ではないか。レナードが眉間に皺を刻ませているとフリッツは首を傾げ、ジンは擽ったそうに笑っている。
「では素敵な晩餐を」
ジンは入ってきたときと同様に優雅に去ってしまった。
部屋に二人きりに残され、なぜか決まりが悪い。お尻がむずむずする。
悪いことはしていないはずなのにフリッツからは非難するような瞳を向けられているせいだ。
「で? 兄上となに話してたわけ?」
「……特に他愛もない雑談ですよ」
「まぁいいよ。腹が膨れたら問い詰めるから」
不機嫌そうな顔をしながらもフリッツはてきぱきと食事の準備をしてくれた。
フリッツはコーンスープを純銀の匙ですくうとレナードの口元に恐る恐る運んだ。
「ほら、食べさせてやろう」
「そのくらい自分でできます」
フリッツから匙を奪おうとするとひょいと躱されてしまう。高く掲げられてしまえば動けないレナードの手では届かない。
フリッツは意地の悪い子どものように口角を上にあげた。
「照れることないだろう」
「照れてません」
「なら俺の手からでは食べられないというのか」
「……そういうわけではありません」
甘い恋人のようなやり取りに恥ずかしいのだとは到底言えない。
レナードの耳殻に熱が集まる。こういうとき表情に出づらい顔でよかったと両親に感謝した。
じっと匙を睨みつけ、その後ろにいるフリッツを見やる。早く飲め、と言わんばかりなアクアマリンの瞳を向けられてしまえば観念するしかない。ゆっくりと口を開くとフリッツがスープを注いでくれた。
甘いトウモロコシが喉を通り抜けると五臓六腑に染み渡る。細胞が歓喜の声をあげた。
「美味しいです」
「ではどんどん食べろ」
「はい」
一度やってしまえば二度も三度も同じだ。
レナードは器が空になるまで食べさせてもらった。
食器を片付けたフリッツは薬を渡してくれたので、水と一緒に流し込むと燻っていた痛みがすっと消える。
その様子を見守ってくれていたフリッツは、深く頷いた。
「これならすぐ回復するな」
「お手を煩わせて申し訳ありません」
「好きでやっているんだ。気にするな」
フリッツはわずかにはにかむとすぐに頬を引き締めた。
主君のピリピリとした空気を肌に感じ、レナードは背筋を伸ばす。
「金木犀を燃やしている者を見た衛兵がいるんだ」
「犯人はどんな人だったんです?」
泣き叫ぶ女の子の声がいまだレナードの鼓膜にこびりついている。
フリッツは重々しく唇を開いた。
「特徴から察するに……ケニーの可能性が高い」
「まさか、そんな……どうして?」
「わからん。でもあいつは行方知らずだ」
フリッツは弱々しく首を左右に振った。どうにも信じられない。だってケニーとここまで旅をしてきたのだ。
だがはたと思い出す。
ーー「でもさ、そもそも番解消薬なんてなかったらよかったと思わない?」
そう言ったケニーの瞳は軽蔑を孕んでいた。たくさんの番がいるという彼には、番解消薬は目の上のたんこぶなのかもしれない。
寂しさを番という形で表し、ずっとなにかを追い求めているように見えた。
「ケニーを探してきます」
「心当たりがあるのか?」
「恐らく」
レナードのはっきりしない物言いにフリッツは小鼻を膨らませた。
「おまえはまだ安静にしていろ。俺が行く」
「フリッツ皇子ではだめです」
ただの直感だ。フリッツとケニーは馬が合わず喧嘩ばかりしていた。自分が行く方がまだマシな気がする。
だがフリッツは睫毛の際が見えるほど目を見開いた。
「そこまで俺を信用できないのか」
「信用している、していないの話ではありません」
相性の話だ。ケニーは過去の話をしてくれたから少なからずレナードに心を開いてくれている。だから金木犀を燃やした理由を話してくれる可能性は高い。
「はっきり言われると堪えるな」
フリッツは頭を下げてしまった。かたちのいいつむじが見える。そこから流れるプラチナブロンドの髪がさらりと流れていた。
「俺はおまえに相応しくないのか。やはり……兄上には敵わないんだな」
「フリッツ皇子は立派な御方です」
「そうじゃない。そうではないんだよ」
絶対零度の声音はレナードを拒否していた。顔を手で覆ったフリッツの吐息から白い煙が昇る。
「フリッツ皇子」
名前を呼ぶと指の隙間からアクアマリンの瞳が見えた。
「今度こそ自分に任せてください。もう失敗はしません」
だがレナードの決意を聞いたフリッツの瞳に暗い影が落ちたような気がした。
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