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第9話
満月が真上に昇り、レナードは身支度を整えて部屋を出た。薬のお陰で傷口の痛みはなく、身体が軽い。
だが薬の効果が切れる前には部屋に戻る必要があるため、レナードは街へ急いだ。
フリッツの言う通り城下町の復興が進んでいるようで、家屋や店が新しく建てられていた。連日パレードでもしていたのか「フリッツ皇子ありがとう」という横断幕がかけられ、軒先には花のガーランドが飾られている。
それを横目にレナードは南門へと向かった。
家屋に隠れながら門の前を見ると衛兵が二人警護にあたっている。
(見つかると面倒だな)
レナードは足場を確認するようにブーツの底で雪を掻き分けた。
その場で膝を曲げバネのように勢いをつけ、壁を蹴りながら跳躍し、門の上に着地した。
アデス山地が一望でき、雪化粧がまだ残る山は月明りに照らされて淡く光っている。
レナードは門の向こう側に飛び降り、山の中に入った。
獣道をしばらく走っていると人工的に作られた洞窟が見えた。外に焚火をした形跡がある。まだ新しい。
「ケニー、いるんだろう」
声をかけながら近づくと暗闇が動く気配を感じた。ノロノロと外に出て来たケニーは月光を浴びて眩しそうに手を翳している。
「レナード? 怪我はもう大丈夫なの?」
「あぁ問題ない。少し話をしたい」
その一言で察したのだろう。ケニーは小さく頷いた。
焚火に火を灯し、それを囲うようにレナードとケニーは腰を下ろす。火の揺らめきをみつめるケニーの横顔に濃い影が落ちた。
「いままでどうしてた?」
レナードの問いかけにケニーは黙ったじっと焚火を凝視している。
「番解消薬をなくして、どうしたいんだ?」
さらに続けるとケニーの組んだ指がぴくりと反応を示す。
「他の街を襲ったのは薬の流通を阻止するためか」
問い詰めるとケニーは肩を竦めた。
「……そうだよ」
ケニーは息を吐いた。白い靄が夜空に吸い寄せられていく。空には数え切れないほどの星が瞬いていた。
「どれほどの被害が出ているかわかってるのか? 多くの人が怪我をしている。住む家も奪われてるんだぞ」
「魔獣たちにはちゃんと命令してたよ。人を襲うな。家だけ壊せって。どんな集団にも我儘な子っているだろ。それがあの毛玉だよ」
「あいつもケニーの手下なのか」
「手下じゃないよ、友だち。まさかあんな風になるとは思わなかったけど人の血を吸い過ぎたね」
どこがおかしいのかケニーは肩を揺らした。
街を破壊し、フリッツを傷つけ、レナードを死の縁まで追い込んだ魔獣が友だち?
ケニーの感覚がまるで理解できない。
「魔獣にどうやって指示するんだ?」
「僕は魔獣に限らず動物全般と話せるんだ」
思い返せば軍馬であるエーレとゼウスは最初からケニーに心を開いているようだった。
「どうしてそこまでして番解消薬をなくしたいんだ」
焚火がパチっと爆ぜた。ケニーの組んだ指が小刻みに震えている。
「番を解消するなんて許せない」
刃物のような鋭いケニーの声音にレナードは驚愕に顔を歪めた。
「それはオメガ側が望んでもか?」
「番はアルファとオメガの魂の契約だよ。それをなくそうとするのは神に背いている」
「事故つがいでもか?」
「神のお導きなんだよ」
レナードはぎりっと奥歯を噛んだ。
好きでもない相手と番うことはオメガ側にはリスクしかない。番以外と性行為はできないし、なにより番がそばにいないと精神的に疲弊して酷いときは自害する。
それを神のお導きなんて綺麗な言葉でまとめられたくない。
「俺はそう思わない。番を解消する権利はあっていいはずだ」
「なぜ? 例え事故つがいだとしてもおまえは愛するフリッツと番になれて幸せだろう」
「……幸せなわけあるか」
歯を食いしばり過ぎて顎が痛む。レナードの吐き捨てる言葉にケニーは瞬きを二度繰り返した。
「番の強制力でアルファは番を求める。そこに意志はない。ただそう従えられているだけだ」
「それのなにが悪いの?」
「俺は嘘偽りなく愛しあいたいんだ」
フリッツを愛しているからこそ同じ熱量で返して欲しい。心も身体も望むなら全部あげる。だけど同じ分だけ彼からも貰いたい。
それがレナードの愛し方だ。
でもフリッツはアーガイル帝国の皇子で婚約者がいる。次期皇帝を継ぐ気位の高い御方だ。
一方でレナードは一介の騎士だ。フリッツの隣に相応しくないと百人中百人が思うだろう。
だが番になってしまったいま、レナードの本能がフリッツと離れることを拒否している。それはフリッツも同じだろう。執拗に自分に執着するのはそのせいだ。
だったらすべてを無くしてしまいたい。まっさらなうなじに戻り、いままで通りフリッツの姿を目に焼きつける。
それがレナードの愛だ。
レナードの訴えにケニーは首を振った。
「わからない。どうしてそばにいたいと思わないんだ」
「そばにいたいさ。騎士としてフリッツ皇子をお護りすることが俺の愛し方だ」
「……僕には理解できない。すべての番を平等に分け隔てなく愛しているのに」
「それは愛じゃない」
きっぱり言い捨てるとケニーは目を見開いたのち、眉間に皺を寄せた。
「僕の愛を否定するのか」
「おまえは自分が淋しいだけだろ。番に求められて安心感を得たいんじゃないか?」
瞬間、ケニーの顔が真っ赤に染まる。彼が太陽に代わったかのように正面から熱気を浴びて息苦しさを覚えた。
だがレナードも譲るつもりはない。
「図星を言われて怒るのか? 子どもだな」
「なんだと?」
冷笑を浮かべてみせるとケニーはどんどん怒りを溜めていく。いまにでも爆発しそうな気配を冷静に眺めた。
しばらく睨み合いを続けていたがケニーの炎は段々と小さくなり、次第に元の静寂さが戻る。彼は力なく項垂れた。
「僕の愛が間違っていたと言いたいのか」
「それはおまえの番に訊いてみないとわからないだろ」
「……それが怖いから困ってるんだ」
ふっとケニーの顔に影が入る。この顔は誰かに似ていた。誰だ。一番近くで見ていたような気がする。
顔を上げたケニーはレナードの後ろに鋭い視線を向けた。
「おい、いるなら出てこい」
ケニーがレナードの背後に声をかけると、のそのそとフリッツが姿を現した。外套のフードを取り、焚火のわずかな明かりにプラチナブロンドの髪が光る。
「気配を消してたのによくわかったな」
「その殺気さえなければ気づかなかったよ」
「ふんっ、レナードに危害を加えようとして」
「なにもしてないだろ。まぁおまえも座れ」
ケニーが顎でレナードの隣をさしたので、渋々とフリッツは座った。だがじとりとした視線が自分の頬にチクチクと刺さる。
まったく気配に気づかなかった。
「なるほど。自分のフェロモンの匂いを追ってきたんだね」
ケニーは可笑しそうにフリッツをみやると、彼は鼻に皺を寄せている。
レナードは首を傾げた。
「フェロモン?」
「気づいてないの? こっちが咽るほどフリッツのフェロモンがまとわりついているよ」
レナードは咄嗟にうなじを押さえた。いつの間にフェロモンなんてつけられたのだ。寝ている間? それとも食事のときだろうか。
まったく油断も隙も無い。
今度はレナードがフリッツを睨みつけると彼は下唇を突き出して、反省する素振りがなかった。
ふっとケニーが鼻で笑う。
「そういう独占欲が強いところはーー僕に似ているね」
「なぜケニーとフリッツ皇子が似ているんだ?」
ケニーは正面からフリッツとレナードを見据えた。
「フリッツは僕の子だ」
「え、あの……意味がわからない。ケニー、お前はどう見ても俺たちより年下じゃないか。年齢的にあり得ない」
フリッツとレナードは今年十九歳になる。結婚ができる十五歳で生まれたとしてケニーは三十四歳になるはずだ。
だが彼はどう見ても十代の青年にしか見えない。
レナードが混乱しているのがおかしいのかケニーはくしゃと笑った。
「僕はエルフだよ。いま二百歳くらいになる」
その答えにはフリッツは目を丸くさせて口を開いた。
「まさか御伽噺に出るエルフだと言うのか」
「数が少ないって言われるけど、結構多いよ。ただ正体をバラすと後々面倒だからみんな言わないだけ」
「……信じられない」
フリッツが首を振るとケニーは続ける。
「僕が二つの属性を持つと思っているだろうけど、本当は五つすべて持っているよ」
ケニーが杖を夜空に掲げると花火が打ちあがり、柔らかな風が吹き、花が咲き乱れ雪が降った。
かなり複雑な魔法を詠唱もなしにやってのける。
まさに人知を超えた御業だ。
「何百年も鍛錬ができるエルフはこれくらい朝飯前だよ。これで納得してくれた?」
ころころと笑うケニーをレナードはただ茫然と見つめるしかなかった。
重苦しい空気のなか、フリッツが口を開く。
「俺の母上は誰なんだ」
フリッツが生まれたときに母親は亡くなっていると聞かされてきた。誰も彼女の話はせず、遺留品の類すら城にはなかった。
あたかも最初から存在していないような不気味さは、長年フリッツが悩んでいることでもある。
「そこを話すと長くなるな」
ケニーは深く息を吐き、満月を見上げた。
***
気がついたときにはケニーは一人だった。親や兄弟、友人もいない。ただ自分の内に流れる血が特別だという本能だけが残っていた。
人知を越える力ーー五属性の魔力があると理解し、同時になんて恐ろしいのだろうと恐怖に震えた。
世界を滅ぼすことができる、という漠然とした不安が常に背中に張りついている。
だが偶然出会った吟遊詩人が有能な魔導士で、ケニーは一緒に旅をしながら魔力の扱い方を学んだ。
魔法の扱いには強靭な精神力を求められる。それはエルフであるケニーも同じだ。
ケニーは精神を鍛えた。
何者にも脅かされず、ただ凪のようにあれ。師匠の口癖は彼が亡くなってもケニーの胸に残り続けた。
だが時折、すべてを解放してなにもかも壊したい衝動に駆られる。
そんなことしたらアーガイル帝国が滅びてしまうと頭では理解しているのに、本能が破壊を求めていた。それでもケニーは堪えた。
ストレスを発散するように幾人との肉体関係を持ち、各地に番を作った。番が一人増えるごとに心の均衡が保てると気づいたのだ。
ブランデン辺境地に来たのも偶然だ。そこでオメガであるダンテが発情期になるタイミングで襲い、番にした。
ダンテは変わった男で、薬草の研究にしか興味がない。いままでのオメガたちとは違う。
勝手に番にしたことを糾弾するでもなく、「いたければここにいれば?」と実にあっけらかんとした性格で、そのつれなさにケニーは夢中になった。
しばらくするとダンテとの間に子どもが生まれた。初めて抱いた赤子を見て、またより重圧が増えた。
でも支えてくれる家族がいる。
ケニーは長い人生の中で一番穏やかな時間を過ごせていた。
(このままずっと一緒にいたい)
けれどエルフであるケニーには叶わない夢だ。いずれダンテは死ぬ。産まれた子どもも自分より先に死ぬ。
大切な二人を見送ってもケニーは何百年も一人で生き続けなければならない。
ケニーは現実から逃れるようにブランデンを飛び出した。
話し終えたケニーはすうと目を細めて、フリッツを射貫いている。
「その子どもがおまえだよ、フリッツ」
「……」
フリッツは言葉を忘れたみたいに呆然とサファイアの瞳をみつめた。
ダンテと初めて会ったとき、彼の瞳の色に既視感があった。いつも見ていたせいで気づかなかったがフリッツと同じ色をしていたとレナードは思い出す。
フリッツは戦慄きながら口を開いた。
「では……俺は、父上の……クレマンの子ではないということか」
「そうだな」
「まさか……」
「でも安心しろ」
ケニーは満面の笑みを浮かべた。
「クレマンとも番で俺の子を産んでいる。おまえの兄ジンだ。腹違いではあるがちゃんと血が繋がっているよ」
濁りのない笑みほど恐ろしいものはない。ケニーはとてつもない重大な機密をさらりと言ってのけている。その重さも背景もなにもわかっていない。
レナードは慌ててケニーの肩を掴んだ。
「ケニー、口を慎め!」
「真実を知りたいんでしょう?」
「そうだが」
「だから教えてるんだよ」
ケニーのガラス玉のような瞳がきらりと光る。あまりにも澄んだ色にレナードの背筋は震えた。
ケニーは他者を思いやるという感情が欠落している。飾らない言葉はストレートに胸を貫き、血が溢れても「それはきみが望んだことでしょ?」と平気で言ってのける純粋さがあった。
「俺は……皇族ではない」
手で顔を覆ってしまったフリッツの表情が見えない。全身が小刻みに震えてしまっている。
レナードがフリッツの背中を撫でると弾かれるように顔を上げた。
恐怖。悲観。失望。すべての望みを失ったフリッツの顔にレナードの胸は締めつけられる。
「あなたはフリッツ皇子です」
「違う」
「違いません。あなたはフリッツ皇子です。アーガイル帝国を導く御方です」
レナードの声が聞こえないのかフリッツは激しく頭を振って、立ち上がった。気温が下がる。きんとする冷気が肌を刺した。
フリッツの周りに白い靄が広がり、彼の身体を覆ってしまう。
フリッツの足元が氷で覆われている。
「フリッツ皇子!」
レナードは手を伸ばした。が、それより早く氷の面積が増えていく。
足から腰、胴体まで一気に広がり、顔だけが残る。
まるですべてを拒絶するようにアクアマリンの瞳は酷く淀んでいた。
「俺は……皇族ではない」
もう一度繰り返すとフリッツの全身は氷で覆われてしまった。その塊がどんどん肥大し、彼の心を護るような堅牢な氷の要塞を作り上げた。
「フリッツ皇子!」
レナードはこぶしで氷を割ろうとしたがびくりともしない。氷の中のフリッツは目を瞑り、膝を抱えて丸まっている。
呆然としているケニーにレナードは怒鳴りつけた。
「火の魔力で氷を溶かせ!」
「なぜだ? なぜ、フリッツはあんなに怒っているんだ?」
状況が飲み込めないケニーは首を傾げている。舌打ちしたいのを堪え、レナードは咎めるような視線を向けた。
「違う、悲しんでおられるのだ!」
フリッツは立派な皇族であろうと常に胸を張っていた。次期皇帝になることを周りが期待し、彼自身もそう思っていただろう。
その重圧に加え二属性の魔力。彼の精神はやすりで削るように日々摩耗していたに違いない。
それでも折れずに立っていられたのは、皇族という立場だったからだ。フリッツの背後には何百万人もの領民がいる。守り、慈しみ、育てなければならない命があった。
けれど「皇族」という添え木がなくなったのだ。絶望するなというのが無理な話である。
ケニーは頭を振り乱した。
「わからない。なぜだ。なんでみんな僕を拒絶する」
混乱しているケニーはとても魔法が使える状況じゃない。レナードは再びこぶしを振り上げた。生憎、剣は置いてきてしまった。
一発繰り出すごとに脇腹が痛む。傷が開いたのだろう。血が滲んでいるのかシャツがひんやりと冷えた。
「フリッツ皇子!」
呼びかけてもフリッツは自分の殻に閉じこもってしまっている。聞こえないだろう。でも叫ばずにはいられない。
フリッツが皇族でなくても、レナードにとって彼は一番特別だ。フリッツがフリッツでいてくれる限り、自分を導く光りになってくれる。
その光を失いたくない。
フリッツは命を燃やすように己の身体に命令した。動け。動け。動け。
「フリッツ!!」
またこぶしで殴った。氷は岩のように固く、簡単にレナードの皮膚が裂けた。でも止まるわけにはいかない。
レナードが何度殴っても氷は欠片一つ零さない。かなり頑丈だ。それだけフリッツは自分の心ごと守ろうとしているのかもしれない。
「一人になるな!」
フリッツは眉一つ動かさない。聞こえていないのだろうか。なら聞こえるまで叫び続けるしかない。
もう一度こぶしを振り上げた。骨が折れた音がする。右手はもうだめだ。次は左手をぶつける。
再び皮膚が裂け、血が滲んだ。不思議と痛みはない。せっつかれるような焦燥感だけが背中を押してくる。
いくら魔導士とはいえ、氷の中にずっといたら命の危険がある。一刻も早くこの砦を砕かなければならない。
血が溢れる。痛い。苦しい。息を吸い込むと冷気の鋭さに肺が鋭く痛んだ。
段々とこぶしに力が入らなくなる。最後にこつんとぶつけたあと、レナードはその場に崩れ落ちた。
「はぁ……はっ、フリッツ……」
レナードの視界が涙で歪んだ。心の殻に閉じこもる愛しい人は一向に目を覚まさない。もしかしたら一生このままなのだろうか。
絶望感が足元から這い上がり、レナードの力を奪う。こぶしから血が滝のように溢れ、雪を赤色に染めた。
項垂れるとうなじが痛む。フリッツとの証がじんわりと熱を持ち始める。
(諦めたくない)
レナードが土ごと握りしめ、顔をあげた。
「……愛しているんだ。俺を、一人にしないでくれ」
フリッツの眉がぴくりと跳ねる。レナードは続けた。
「初めて会ったときから俺はフリッツのことが好きだ。あなたがミシェル様を愛しているのは知ってる。でも、それでも」
涙が頬を伝い、雫が落ちていく。まるで雨のようにさめざめと降り続けた。
「あなたのそばにいたいんです」
フリッツの瞼が呼応するようにゆっくりと開かれた。
「……俺を見捨てないのか」
「そばにいたいに決まっている!」
氷の結晶に抱きついた。フリッツが手を伸ばしてくれる。そこに手を重ねると氷が溶けていき、ぱりんと大きな音と共に結晶が砕けた。
レナードは堪らなくなってフリッツを抱きしめた。身分も立場の違いもない。僅かな境目すら許せなくて、ぎゅうと力を込める。
レナードはフリッツのうなじに顔を埋め蜂蜜のようなフェロモンをめいいっぱい吸い込んだ。これだ。この匂いだ。
「レナード」
名前を呼ばれただけで、ゆりかごに揺られているように心地よい。
東の空から朝陽が昇り始めていた。フリッツの顔半分に暗い影が落ちる。だが反対側は蜘蛛の糸のような細い光が戻っていた。
レナードはフリッツの外套を力強く掴んだ。
「どこにも行かないでください。自分のそばを離れないで。例え本能が書き換えられて自分を好きじゃなくてもーー妾でもいいから」
「レナード……」
「本当は嫌だ。あなたが自分以外の人と番になるとこなんて見たくない。だから番解消薬を求めましたが」
ずっと洟を啜ってフリッツを見上げた。
「あなたが好きなんです」
「俺が皇族じゃなくても?」
「自分は……俺はフリッツがいいんです」
朝焼けが空の色を変える。薔薇色に染まった空から光が差し込み、フリッツのプラチナブロンドの髪を宝石のように輝かせた。
眩しくて目を細めるとフリッツの顔が近づいてくる。目を閉じて首を傾けた。柔らかな感触が唇に触れ、すぐに離れてしまう。
追いかけようと少し小さなフリッツの背中を抱き寄せると、彼はひょいと首をそらした。
「俺がどれほど悲しい気持ちになったかわかるか」
「悲しかったんですか?」
「当たり前だろ」
フリッツはふんと鼻を鳴らした。
「俺もレナードのことを子どものときから好きだったんだ。番になったのも先に外堀を埋めようとしてたんだぞ」
「えっ、え?」
あの発情期は予期せぬアクシデントだった。突然のことで動揺し、逃げた先は扉が開いていた寮の倉庫だ。
まさかフリッツはレナードが逃げる場所を想定して待ち構えていたというのか。
レナードの疑問に答えるようにフリッツは片頬をあげた。
「倉庫の鍵を開けておいたのは俺だ」
「……変だと思いました。いつもあそこは閉まっているのに」
「だろ?」
にやりと笑うフリッツに呆れてしまって声が出ない。
だがフリッツの瞳に鋭さが戻る。
「でもおまえも悪い。兄上と婚約しただろ」
「それはあなたがミシェル様と結婚するからで」
「あいつとは同盟を結んでるだけだ」
聞き馴染みのある響きにレナードは目尻を下げた。
「ふふっ、いいこと教えてあげますよ」
フリッツの耳に口を寄せた。
「自分たちもなんです」
固まってしまったフリッツが怒るまでレナードはニヤニヤしていた。
せっかく心を通じあえたのに脇腹の痛みと出血の多さでレナードはその場に膝をついた。
視界が回る。けれど嬉しさの方が勝り、小躍りしたい衝動に駆られ、フリッツに「大人しくしろ」と背中を叩かれた。
「すいません……」
「俺が無理させたからな。こぶしの怪我も診てもらわないと」
レナードの両手は血まみれだ。右手は折れているのがずきずきと痛む。痛みには慣れているが、だからと言って感じないわけではない。
フリッツはふわりと笑った。
「そろそろ戻ろう」
「そうですね。風の魔法で運んでもらえますか? 歩くのは少し辛いです」
「ならこうすればいい」
フリッツはしゃがんでいるレナードの膝裏に腕をいれて軽々と抱えた。いわゆるお姫様抱っこというやつだ。レナードの頭にかあと血がのぼる。
「こ、これは……嫌です!」
「腹の傷が痛むだろう。無理するな」
「下ろしてください!」
「こら、暴れるな!」
手足をジタバタさせるとさらに腕の力が込められてしまい、動けなくなってしまう。
フリッツの方が小柄で華奢なのに、どこからそんな力が出てくるのだ。
フリッツの胸に顔を押さえつけられるような体勢にされ、心臓が早鐘を打つ。すぐそこには美しい彼の唇が月のように弧を描いている。
「このままでいろ」
「……はい」
蕩ける微笑みを向けられてしまえばもう異議を唱える力はなくなってしまう。
しばらく見つめあっていると、コホンとわざとらしい咳払いで我に返った。
「僕の存在忘れてない?」
「……ちなみにどこからどこまで見ていた?」
レナードが問いかけるとケニーは肩を跳ねさせた。
「そんなの最初から最後までに決まってるじゃん」
「だよな」
顔を上げるとフリッツは照れくさいようで下唇を突き出している。
ケニーは笑みを消し、ブランデン辺境地を見た。顔が土気色に変わっていく。
「ダンテが……」
その一言ですべてを察し、三人は急いで城へ戻った。
城内は恐ろしいほどの静謐さに包まれている。
奥の扉の前に止まるとレナードはようやくフリッツから下ろして貰えた。
隣のケニーは扉から一歩ずつ後退ろうとしている。
「やっぱり僕は会えない」
「逃げるな」
逃げ出そうとするケニーの腕をフリッツが掴んだ。
「ちゃんと向き合え」
その一言が重くケニーの胸を刺したのだろう。しばらくしてからうん、と頷いてくれた。
フリッツはそれを確認してから、ドアノブに手をかけた。
質素な室内には以前と同じ医者がベッド脇に立っている。レナードたちを認めると深く頭を下げた。
「最後のお別れを」
「はい」
フリッツがまず歩みを進め、ベッドを覗いた。物音に気づいたダンテが薄く目を開けるとアクアマリンの瞳がきらりと光る。
「来て……くださったのですか」
「はい」
「ありがとう、ございます」
ダンテは一息吐いた。呼吸をするたびに生命が削られていくのがわかる。
フリッツの背後を見やったダンテはわずかに目を見開いた。
「ケニー」
「……久しぶり」
「あぁ……あなたは変わりませんね」
幼子に向けるようにやさしい眼差しに変わり、ダンテはよろよろと腕を伸ばす。ケニーはその手を取って口づけを落とした。
「なに死にそうになってるんだよ」
「あなたと違って……人間には寿命というものがあるんです」
ダンテはごほっと咳を零した。
ケニーは重々しく口を開く。
「なんで番解消薬を開発した? 僕との番がそんなに嫌か」
「嫌に決まってるじゃないですか」
ダンテの言葉にケニーは目を丸くした。
「無理やり番にされて喜ぶオメガはいませんよ」
「それは」
「それに金木犀も壊したでしょう? 魔獣を襲わせて手が汚いんですよ」
死の縁に立っているとは思えないほどダンテの毒舌にケニーの背中が丸まっていく。ダンテはすべてお見通しだったのだ。
魔獣を襲わせていた犯人も、その目的も。
「私だけならまだしも、領民を何人も怪我をさせ家屋を壊して。他の領地への流通まで断たせて、大損害です。一生償って貰わないと割に合いません」
「もちろんそのつもりだよ」
ケニーが慌てて言い繕う姿がおかしい。こうやって尻に敷かれていた姿が目に浮かぶ。
ダンテはふと目尻を下げた。
「でもあなたは私に幸せをもたらせてくれました」
ダンテは視線をフリッツに向けた。その目はケニーに向けるものと同じ、日だまりのようなやさしさがある。
「こんなに大きく立派になって……クレマン皇帝に感謝しないといけないですね」
「どうして俺を手放したんですか」
フリッツの問いかけにダンテはゆっくりと瞼を閉じた。
「番を失った私はいつかケニーに似た自分の子に手を出すのではないかと怖かったのです」
オメガは番を求める。だから番に似た息子を代役にしてしまう心理はレナードにも理解できた。
「だから番解消薬を作ろうと思いました。私のようなオメガが一人でもいなくなるように、なんてただの方便です。自分のために研究してきました」
一度口を閉ざしたダンテは咳をした。水飛沫ようにデュベに吐血したので医者が寝かせようとしたが、ダンテは手で制した。
「最初は私に使おうと思いました。でもどうしてもできなかった」
アクアマリンの瞳に水の膜が張る。目尻の皺に涙が溜まった。
「あなたとの絆を失いたくないと気づいたんです」
「ダンテ!」
肩を震わせるダンテをケニーは強く抱きしめた。二人の泣き声が合わさり、レナードの身が引き裂かれそうな痛みを訴える。
(俺も手放そうとした)
フリッツとの番をなくし、何食わぬ顔でいようとした。でもできなかった。
まるで自分たちを見ているようでレナードの内側に込み上げてくるものがある。唇を噛んで耐えているとそっと手を繋がれた。
隣に顔を向けるとフリッツと目が合う。彼の目尻にも涙が浮かんでいた。
しばらく互いの手を握りしめながら、ケニーとダンテを見守っていた。
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