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第3章
仕事のお昼休み、お菓子売り場に立ち寄ると、黒髪の彼が今日もいた。なんだか眠そうな目をしながら、ぶどうのグミをカゴに入れる動作がいつもより重い。何より、いつもなら商品を真剣に選ぶはずの彼が、今日は目についたものを入れる、みたいな所作をしていた。
どうしたんだろうかと気になってしまったけれど、それを知る術は俺にはない。……ていうか、なんでそんなこと気になってしまったんだろう。グミを入れた彼はサッとお菓子売り場から消え、1人になった売り場で、抱いてしまった気持ちを逸らすようにザッとよく買うラムネをカゴに入れた。
セルフレジで会計をしようとしたその時、
「朔ちゃんっ! これ、あちらのお客様に届けて!」
レジからレジ主任の声。カゴを端に寄せて急いで駆け寄ると、診察券を差し出される。主任の指す手の先には、先ほどのお菓子売り場の彼。自動ドアを抜けて店内を出ていってしまう。眠そうにしていた割に足が速い。俺は診察券を受け取ると急いで後を追った。
このスーパーは大通りに面していて、外に出るなり、車の音で比較的騒がしい。
「お客さん!」
俺の声は彼にはまるで届いていない。
「あ」
思わず小さく声が出る。お客さんがアパートの敷地内に入ろうとしている。このままでは、診察券を渡しそこなってしまう。
「林さん!!」
やむを得ず、普段より一段階大きな声を出して診察券の名前を呼ぶ。
その瞬間、なんとも言えない感じが胸に渦巻いた。取り返しのつかないことをしてしまったような、もう後戻りができないと気づく時みたいなサッと冷たくなる感じ。……どうして今?
林さんが振り返り、目をぱちぱちとさせる。何が起きたのか全く把握できていない時の顔。俺はそっと診察券を差し出して、できる限り落ち着いてもらえそうな声音で言った。
「すみません、お忘れ物があって……」
それを見ると、林さんは頭をペコペコと下げだした。
「!! すみません! すみません! 僕、ぼーっとしてて……、ご迷惑お掛けしました!」
恐縮しきったような声。明らかに焦っている。ここまで動揺されるとは思わなかった。お菓子売り場で見る彼は、少し気だるげでちょっと神経質そうで……、なんというか、もっとクールな態度をとってくるかと思っていた。
「これ! もらってください! お手間かけさせてしまって申し訳ないです」
ポカンとしてしまっていたら、林さんはエコバッグから取り出してきたらしい緑茶のペットボトルを両手で差し出していた。
眉を下げて、少しまばたきが多い。なんでそこまで? というくらいに萎縮している彼に、とにかく安心してもらいたいという気持ちが湧いてくる。
「あの、お気になさらないでください」
言葉遣いこそ保ったけれど、店員としてじゃなく、ひとりの人間としての気持ちで言った。
だって、こんなになるまでのこと、彼はしていない。
「じゃあ、僕の気を済ませるためにもらってください!」
両手で緑茶を差し出してくる指先が震えている。
「……ありがとう、ございます」
そっと微笑んで、今度は両手でペットボトルを受け取った。そうすることで、林さんの気持ちが少しは楽になるのなら。彼は、ようやくほっとしたように、少しだけ表情を緩めた。
診察券にはこう書かれてあった。『香芝メンタルクリニック、林健太様』
「俺、筒井朔人っていいます」
「え……?」
小首を傾げる林さんに、
「……俺だけあなたの名前知っちゃってるの、やだなって思って……」
俺がそう言うと、林さんは微笑んだ。ふわりと、やわらかに。
一瞬だけ、音が遠のく。
……細めた目元の感じだろうか? それともなだらかにカーブを描く口元? どことなく安心を覚えさせる空気感……?
そんなことがよぎった後で、すうっと体が冷たくなっていくような、どこか後ろめたいような、そんな感覚がした。
でも、誰に対して……?
本当はわかりきっている。なのに、肯定したくなかった。気づきたくさえなかった。……知らないふりをできたならよかったのに。
胸がざわざわする。口の中が乾いて気持ちが悪い。
違和感を感じさせないように、それとなく林さんから視線を逸らす。
今、できるなら逃げ出してしまいたかった。走って、走って、訳がわからなくなるまで走って、あんなこと思った自分を忘れてしまいたい。
なのに、目がもう一度、林さんの方へ向かってしまう。思わず彼の目元を、口元を、探るように見てしまう。
息を吸って吐く、これだけのことが急に難しく感じる。気づくと肩で呼吸をしていた。
……明日の特売品って何だったっけ? 確か、バナナが安くなるんだったような……。洗濯洗剤も広告に載っていたような。帰りに買って帰ろうかな……。
強引に思考を割り込ませても、目は彼に吸い寄せられたままだった。
鼻の奥がツンとなる。チクチクと針で刺されているかのように胸が痛い。……何に対して? 断定できないことが、より一層俺の心を痛めつけてくる。
……林さんの笑顔は、香澄さんに似ている。
どこが? ってわからない。でも、確かに似ているのだ。
目を、ううん、心を覆いたくなる。この気づきに蓋をしなくてはならない。なんだかよくわからないけれど、似ていると思った自分を、認めたくなかった。
「俺、戻らないと……」
それだけ口に出すのが精一杯だった。早く、この場から立ち去らなくてはいけない。
「あ、ご迷惑おかけしてすみませんでした。ありがとうございました!」
林さんがもう一度頭を下げてくる。でも、もう萎縮していない、心配にならない空気感。
軽く頭を下げて、林さんに背を向ける。彼の目を見ることはできなかった。
「ありがとうございました! またお越しくださいませ〜!」
笑って、お辞儀して、次のお客さんの商品を通す。
手も口も、表情筋も、自動で動かせる。ここに立っていれば、俺は「スーパーのレジ係」でいられる。
少し混んだ店内。人の声が、今はどこか遠い。
「ーーちゃん! 朔ちゃん!」
「へっ!?」
次のお客さんの商品を通そうとした時、17時からレジに入る山本さんに声をかけられた。
「あと5分だよ〜。どんだけレジ好きなの」
カラッと笑って俺の腕を叩き、レジ休止中の札を立ててくれる。
時計を見ると16時55分。
「うわ、すみません」
慌ててレジの交代作業に入った。
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