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第5章 未来のない恋の残り香

 フタを開けた瞬間、レモンの香りが広がって、胸がしんとした。  リビングのテーブルのお菓子ボックスにはレモンミルク飴。レモンづくしだ。  レモン風味のアイスの中にレモンピールが散りばめられたそれは、有名メーカーの期間限定の新商品だ。  思わず手に取ってしまったけれど、俺自身はレモンに目がないわけではない。 「……私の旦那なの」  スーパーの入り口付近の壁に貼られたミュージシャンのライブの宣伝ポスター。ギターを持つほうの男性を、香澄さんは手で指した。  思わず目を見開いてしまった。音楽番組や雑誌でもよく見る2ピースバンド。作詞作曲とギター、サブボーカルまでも担当するマルチな男性。  アイスを口にする。甘酸っぱさが口に広がる。レモンピールを噛むとほんのりほろ苦くて、それはポスターを呆然と見つめたあの日の気持ちとよく似ていた。 「さっくん、どっちにしよう〜?!」  そう言う香澄さんが手に持つのは、レモンの板チョコとレモンピールのチョコレート。 「どっちも買えばいいじゃないですか」  そう言って笑うと、 「ダメ! 予算オーバーになっちゃう!」  その表情と声は、家庭を守る主婦そのもので、俺は痛む心に気づかないふりをする。  彼女の面影が、胸に揺れる。無邪気な言動、柔らかな笑顔、重い病を抱えていると言っていたけれど、それを微塵も感じさせない強さ。    香澄さんを夫から奪えたならいいのにとは、一度も思わなかった。そのままの彼女が好きで、ただもう少し、あと少し、そばにいれたらとずっと考えていた。    ……というか、わかっていたんだ。奪うとか奪わないとか、そんな立ち位置に俺はいないということ。  アイスを食べるスプーンが止まる。目をギュッと瞑る。  つい先日もテレビで見た彼の姿と、レジに立つ自分が脳内でスライドされる。  アイスの残りは明日食べることにした。  その日の俺は、スーパーの駐輪場で小休憩を取っていた。金木犀の香り。制服だけでは肌寒い、11月の半ば。 「……あなたが、『さっくん』ですか?」  最低限整えられた髪に、近所から来たという風な服装。テレビで見る彼とはまるで違う。  だけど、誰だかすぐにわかった。    俺のことを「さっくん」と呼ぶ人物は、この世に香澄さんしかいない。  サングラスの上からでもわかる、何日も眠れていないような目の下の陰。憔悴しきった声。  ひどく悪寒がした。  これ以上何も言わないでほしいと反射的に強く願った。 「……妻から、これをあなたに渡すよう言われていたんです」  手渡されたのは空色の封筒。彼女の柔らかい字で、「さっくんへ」と書いてある。    香澄さんとは半月以上顔を合わせていなかった。何が起こったのか、把握せざるを得なかった。  思わずぺたんと地面に座り込む。視界がわずかに揺らぎ、風の音さえ遠のいていくようだった。

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