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第9章 優しさの自己嫌悪

 待ち合わせは現地集合にしていた。件の喫茶店のそばまで来ると、林さんがもう来ている。腕時計を見ると約束の7分前。  グレーのシャツに、淡いベージュのパンツ、日傘をさして少し俯き加減の様子は、なんとなく落ち着かなさげに見えた。   「すみません。待たせましたか?」  すぐに駆け寄って、声をかけると、 「大丈夫です。今来たところです」  林さんはパッと顔を上げて、笑った。  下がり気味の眉、へにゃっと心許ないような笑顔。 「買い物メモ、書いてきたのにまた家に忘れちゃったの。嫌になっちゃう」  困ったように笑う香澄さんが、映画のフィルムのように再生される。  ……多分だけど、かなり早くから、彼はここに立っていたんじゃないだろうか。炎天下の中、俺との約束のために。   「行きましょう」  努めて柔らかい声を出すと、林さんは今度は自然な調子で目を細めた。 「…………」  さっきから林さんがメニューを見て固まっている。 「……決まりました?」 「ケーキセットにするんですけど……」  ケーキをどれにするかで悩んでいるらしかった。眉間にしわを寄せて、わずかに首を傾げて。いつもどこか遠慮がちな声が、今は迷いに素直になっている。 「候補、教えてください」  そう言ってしまった瞬間、ゾワっとひどく悪寒がした。 「さっくん」  香澄さんの穏やかな声が耳にこだまする。 「シャインマスカットのタルトとレモンのレアチーズで悩んでて……」 「じゃあ俺、レアチーズにします。シェアしましょう」  林さんの顔を見れない。声も少し上擦っていたかもしれない。  ……可愛いと思ってしまった。優しくしたいと思ってしまった。  香澄さん。香澄さん。  左耳のピアスに触れる。その指はガタガタと震えてしまった。  林さんにそれを気づかれなかったか、焦りつつも何気ない風を装って様子を伺う。彼は喫茶店の内装を見るのに夢中で、こちらを気に留めてはいないみたいだった。    ……自分の自意識過剰さに、ため息をつきたくなる。ついさっきケーキよりも先に来たコーヒーを口にする。この気持ちも、飲み込んでしまえたならよかったのに。 「あ、コーヒー……来てたんですね」  はっとしたように林さんがこちらを見てくる。  返事の代わりに微笑みを返すと、彼は少し下を向いて言った。 「すみません……。内装が好みで、夢中になってました」  ほんのりと頬を赤くして、照れと申し訳なさの混ざった声。 「……インテリアとか好きなんですか?」 「はい。……家はその……、散らかってるんですけど、お店とか雑誌とか見るのは好きです」  少し伏せていた目が柔らかに細められるのを見て、俺は次の言葉を探してしまう。    林さんといると、胸が温かくなる。  それが、とても困る。  彼はいつも、揺れながらもひたむきに心を伝えようとしてくれる。最後には、ほっとしたような柔らかい笑みを向けてくれる。  ガシャンッと心の中にシャッターを落とした。  ピアスの滑らかな触り心地。夏の日、ピアスの包みを渡してくれた、淡いピンクのマニキュアがきれいに塗られた細い指先。  喫茶店は穏やかな雰囲気だった。林さんと俺も、外から見ればこの空間にふさわしい空気感だっただろう。でも、俺の内心は、台風が来る前日の風のようにまるで穏やかじゃなかった。  その日以来も、林さんに外に誘われることがあった。植物園に期間限定の展示会。  断ってしまえば楽なのに、誘いのたびに俺は微笑んでそれを受けた。 「行きましょう」と口にするたびに、ぞわぞわと胸の中で何かがうごめく感じがした。  けど、断れなかった。それをすると、林さんは俺から線を引くことをわかっていたからだ。……話をする前に戻るだけなのに、それは遠い遠い隔たりのように思えてしまった。  ピアスに触れることが増えた。  かさぶたを気にするかのように、何度も、何度も。  気づいていたけど、直したくなかった。でも、レジの合間にも触れていることに気づいた時には,さすがになんとかしないといけないと思った。   「林さん、よかったらここ、行きませんか?」  昼休みのお菓子売り場。スーパーのサッカー台に吊り下がっていた隣町の蚤の市のチラシを見せる。  自分から彼に近づくことで、何か変わるんじゃないかという気がした。  林さんはきっと蚤の市の商品も雰囲気も好きだろうと予想した。  言葉にすると、途端体が冷えていく。  ……気持ち悪い。  手が勝手にピアスに触れる。  触れてしまうことも、それをやめられないことも、今はただ気持ちが悪い。  でも、もう戻れない。 「すみません。その、電車が……苦手で……」  林さんの言葉で一気に現実に引き戻される。 「申し訳ないです……」  そう言う彼の指先は小刻みに震えていて、 「気にしないでください。また誘いますね」  微笑んで、スッと立ち去る。林さんが抱えたであろう気まずさをこれ以上刺激しないように。  ……知りたいと思ってしまった。踏み込みたいと思ってしまった。  林さんがメンタルクリニックに通っていることしか、俺は知らない。それでいいと思っていた。実際そうだ。俺は彼に対して、知りたい気持ちだけでなんでも聞いていいような関係じゃない。  目を固く瞑り、爪が手のひらに食い込むほどに指先を強く握る。  ピアスは、外せない。  なのに温かさから手を引くこともできそうにない。  背中が冷たい。喉の奥が酸っぱい。  吐けば楽になるのならいいのに。  20分も経てば大丈夫だろう。  腕時計を確認して、スタッフルームの椅子から立ち上がる。  俺は林さんを避けていた。少し店内に出る時間をずらせば、拍子抜けするくらい簡単に会わなくなった。  仕事後も念の為、店での買い物を避け、他店に寄って帰るようにした。  ここまでするかと自分でも思う。  それと同時に、俺と会わないことに対して、林さんは何か思っているだろうか、などということも頭にもたげて、心の底からゾッとした。  まっすぐお惣菜売り場に向かって、素麺のパックを手に取ると急いでセルフレジに向かう。  今日も彼はいない。そろそろ5日ほど会っていないことになる。 「お会計お願いできますか?」  少し遠慮がちな声にハッとする。 「ごめんなさい! あ、や、申し訳ございません!」  お客さんが途切れていたものだから、完全にぼんやりしてしまっていた。カゴの置かれる気配に気が付かないなんて初めてのことで、思わずうろたえてしまう。  それでも商品を通し始めると、スイッチが入ったように俺はスーパーのレジ係になれる。 「失礼いたしました。ありがとうございます、またお越しくださいませ」  丁重に頭を下げて、お客さんを見送る。  俺は何をやっているんだろう。  会計に来そうなお客さんがいないことを確認してから、ふうっと息を吐く。  もう少し混んでいてくれればいいのに。頭に何も入り込む余地のないくらい。全部忘れていられてしまうくらい。  向かいのセルフレジで商品を通す音。  何気なく目をやると、その人は林さんだった。  バチッ、と音がしそうなくらいに目が合う。 林さんが視線を彷徨わせる。  反射的に笑みを浮かべて口にしていた。 「こんにちは。ちょっと久しぶりですね」  彼は瞬いて頷く。そして、ふわりと笑みを浮かべる。  本当に何なんだろう。  繋ぎ止めたい。でも踏み込むことはできない。  震える指先を固く握りしめる。今度は手ごと小刻みに震え出してしまう。  ……俺は、香澄さんに誠実でありたいのではないのかもしれない。  俺は、本当は。 「いらっしゃいませ!」  急に客足が増え始めて、俺の思考はそこで途絶えた。

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