9 / 10
第9章 優しさの自己嫌悪
待ち合わせは現地集合にしていた。件の喫茶店のそばまで来ると、林さんがもう来ている。腕時計を見ると約束の7分前。
グレーのシャツに、淡いベージュのパンツ、日傘をさして少し俯き加減の様子は、なんとなく落ち着かなさげに見えた。
「すみません。待たせましたか?」
すぐに駆け寄って、声をかけると、
「大丈夫です。今来たところです」
林さんはパッと顔を上げて、笑った。
下がり気味の眉、へにゃっと心許ないような笑顔。
「買い物メモ、書いてきたのにまた家に忘れちゃったの。嫌になっちゃう」
困ったように笑う香澄さんが、映画のフィルムのように再生される。
……多分だけど、かなり早くから、彼はここに立っていたんじゃないだろうか。炎天下の中、俺との約束のために。
「行きましょう」
努めて柔らかい声を出すと、林さんは今度は自然な調子で目を細めた。
「…………」
さっきから林さんがメニューを見て固まっている。
「……決まりました?」
「ケーキセットにするんですけど……」
ケーキをどれにするかで悩んでいるらしかった。眉間にしわを寄せて、わずかに首を傾げて。いつもどこか遠慮がちな声が、今は迷いに素直になっている。
「候補、教えてください」
そう言ってしまった瞬間、ゾワっとひどく悪寒がした。
「さっくん」
香澄さんの穏やかな声が耳にこだまする。
「シャインマスカットのタルトとレモンのレアチーズで悩んでて……」
「じゃあ俺、レアチーズにします。シェアしましょう」
林さんの顔を見れない。声も少し上擦っていたかもしれない。
……可愛いと思ってしまった。優しくしたいと思ってしまった。
香澄さん。香澄さん。
左耳のピアスに触れる。その指はガタガタと震えてしまった。
林さんにそれを気づかれなかったか、焦りつつも何気ない風を装って様子を伺う。彼は喫茶店の内装を見るのに夢中で、こちらを気に留めてはいないみたいだった。
……自分の自意識過剰さに、ため息をつきたくなる。ついさっきケーキよりも先に来たコーヒーを口にする。この気持ちも、飲み込んでしまえたならよかったのに。
「あ、コーヒー……来てたんですね」
はっとしたように林さんがこちらを見てくる。
返事の代わりに微笑みを返すと、彼は少し下を向いて言った。
「すみません……。内装が好みで、夢中になってました」
ほんのりと頬を赤くして、照れと申し訳なさの混ざった声。
「……インテリアとか好きなんですか?」
「はい。……家はその……、散らかってるんですけど、お店とか雑誌とか見るのは好きです」
少し伏せていた目が柔らかに細められるのを見て、俺は次の言葉を探してしまう。
林さんといると、胸が温かくなる。
それが、とても困る。
彼はいつも、揺れながらもひたむきに心を伝えようとしてくれる。最後には、ほっとしたような柔らかい笑みを向けてくれる。
ガシャンッと心の中にシャッターを落とした。
ピアスの滑らかな触り心地。夏の日、ピアスの包みを渡してくれた、淡いピンクのマニキュアがきれいに塗られた細い指先。
喫茶店は穏やかな雰囲気だった。林さんと俺も、外から見ればこの空間にふさわしい空気感だっただろう。でも、俺の内心は、台風が来る前日の風のようにまるで穏やかじゃなかった。
その日以来も、林さんに外に誘われることがあった。植物園に期間限定の展示会。
断ってしまえば楽なのに、誘いのたびに俺は微笑んでそれを受けた。
「行きましょう」と口にするたびに、ぞわぞわと胸の中で何かがうごめく感じがした。
けど、断れなかった。それをすると、林さんは俺から線を引くことをわかっていたからだ。……話をする前に戻るだけなのに、それは遠い遠い隔たりのように思えてしまった。
ピアスに触れることが増えた。
かさぶたを気にするかのように、何度も、何度も。
気づいていたけど、直したくなかった。でも、レジの合間にも触れていることに気づいた時には,さすがになんとかしないといけないと思った。
「林さん、よかったらここ、行きませんか?」
昼休みのお菓子売り場。スーパーのサッカー台に吊り下がっていた隣町の蚤の市のチラシを見せる。
自分から彼に近づくことで、何か変わるんじゃないかという気がした。
林さんはきっと蚤の市の商品も雰囲気も好きだろうと予想した。
言葉にすると、途端体が冷えていく。
……気持ち悪い。
手が勝手にピアスに触れる。
触れてしまうことも、それをやめられないことも、今はただ気持ちが悪い。
でも、もう戻れない。
「すみません。その、電車が……苦手で……」
林さんの言葉で一気に現実に引き戻される。
「申し訳ないです……」
そう言う彼の指先は小刻みに震えていて、
「気にしないでください。また誘いますね」
微笑んで、スッと立ち去る。林さんが抱えたであろう気まずさをこれ以上刺激しないように。
……知りたいと思ってしまった。踏み込みたいと思ってしまった。
林さんがメンタルクリニックに通っていることしか、俺は知らない。それでいいと思っていた。実際そうだ。俺は彼に対して、知りたい気持ちだけでなんでも聞いていいような関係じゃない。
目を固く瞑り、爪が手のひらに食い込むほどに指先を強く握る。
ピアスは、外せない。
なのに温かさから手を引くこともできそうにない。
背中が冷たい。喉の奥が酸っぱい。
吐けば楽になるのならいいのに。
20分も経てば大丈夫だろう。
腕時計を確認して、スタッフルームの椅子から立ち上がる。
俺は林さんを避けていた。少し店内に出る時間をずらせば、拍子抜けするくらい簡単に会わなくなった。
仕事後も念の為、店での買い物を避け、他店に寄って帰るようにした。
ここまでするかと自分でも思う。
それと同時に、俺と会わないことに対して、林さんは何か思っているだろうか、などということも頭にもたげて、心の底からゾッとした。
まっすぐお惣菜売り場に向かって、素麺のパックを手に取ると急いでセルフレジに向かう。
今日も彼はいない。そろそろ5日ほど会っていないことになる。
「お会計お願いできますか?」
少し遠慮がちな声にハッとする。
「ごめんなさい! あ、や、申し訳ございません!」
お客さんが途切れていたものだから、完全にぼんやりしてしまっていた。カゴの置かれる気配に気が付かないなんて初めてのことで、思わずうろたえてしまう。
それでも商品を通し始めると、スイッチが入ったように俺はスーパーのレジ係になれる。
「失礼いたしました。ありがとうございます、またお越しくださいませ」
丁重に頭を下げて、お客さんを見送る。
俺は何をやっているんだろう。
会計に来そうなお客さんがいないことを確認してから、ふうっと息を吐く。
もう少し混んでいてくれればいいのに。頭に何も入り込む余地のないくらい。全部忘れていられてしまうくらい。
向かいのセルフレジで商品を通す音。
何気なく目をやると、その人は林さんだった。
バチッ、と音がしそうなくらいに目が合う。
林さんが視線を彷徨わせる。
反射的に笑みを浮かべて口にしていた。
「こんにちは。ちょっと久しぶりですね」
彼は瞬いて頷く。そして、ふわりと笑みを浮かべる。
本当に何なんだろう。
繋ぎ止めたい。でも踏み込むことはできない。
震える指先を固く握りしめる。今度は手ごと小刻みに震え出してしまう。
……俺は、香澄さんに誠実でありたいのではないのかもしれない。
俺は、本当は。
「いらっしゃいませ!」
急に客足が増え始めて、俺の思考はそこで途絶えた。
ともだちにシェアしよう!

