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第10章 曖昧な距離がいちばん苦しい
第10章 曖昧な距離がいちばん苦しい(健太)
朝の8時30分。電車が発車するのを、ベンチに座って呆然と見送る。本当はあの電車に僕も乗っていないといけなかった。
「あなた、大丈夫?」
僕の隣に座ろうとしたおばあさんが心配そうに声をかけてくれる。多分今の僕は、青ざめているんだろう。
「……大丈夫、です……」
笑顔を作ろうとしたけど、口端が引きつってしまう。申し訳ない。恥ずかしい。自分が情けない。瞬間、ひどく気持ち悪くなって、僕は口を手で覆い、トイレに駆け込んだ。少し吐いてしまった。
肩で息をしながら、勝手に涙が出てくる。僕なんて、すっと消えてしまえばいいのに。僕なんて、いなくなっても誰も困らないのに。
そこで目が覚めた。手をギュッと握り込んで、意識を現実に引き戻す。大丈夫、大丈夫、と自分に言い聞かせる。
今の僕は、あの頃よりはずっと安定している。もう消えてしまいたいとは思わない。急に吐いてしまったりもしない。
会社を辞める少し前のことを、時々夢に見てしまう。
あの時の僕は、混み合う電車の中がどうしようもなく苦痛で、毎日のように途中下車をしていた。
今も電車には乗れない。
練習しようとしたけれど、駅のホームで足がすくんでしまう。
時計を見ると7時半だった。空が明るくなっても一睡もできていなかったのだけれど、いつの間にか眠っていた。
ゆっくりと体を起こす。重たい。背中が痛い。仕事をしなければいけない。
足を床に下ろしてから、慎重に立ち上がる。水を少し飲んでから、パソコンの前に座った。
休憩を挟みながら、14時過ぎに案件を提出した。朝から何も食べていないけれど、お腹が空かない。買い置きしていた3連パックのゼリーを1つ食べると、僕はベッドに潜り込んだ。
普段は横向きに寝るところなのだけれど、痛む背中を庇いたくて仰向けになる。横になるとどっと疲労感が押し寄せて、もう少しも動きたくなくなってしまった。
天井の少しくすんだ白が、喫茶店で会った時に筒井さんの着ていたシャツの色に似ている。
行けるものなら行きたかった。筒井さんと行く蚤の市は、きっと楽しかった。
せっかく誘ってくれたのに。
……初めて、筒井さんから誘ってくれたのに。
だけど、無理をして彼に迷惑をかけたくなかった。電車のホームで足がすくむ自分を見せたくなかった。
これで、よかったんだ。
目を閉じたその時、LINEのビデオ通話の着信音が鳴った。数少ない高校時代からの友人だった。
「あ、また別の日にかける」
出るなりそう言われて面食らう。そんなにダメそうな顔してるんだろうか。
「ごめん」
その声はひどく掠れてしまって、今度は自分の今の状態を嫌というほどに思い知らされる。
通話を切ると、僕は再び目を閉じる。
眠ってしまいたかった。できるならば、混々と。
カーテンの向こうが薄明るくなってきた頃にようやくうとうとしてきて、ふっと意識が遠のいていく。
はたと気づくと、時計の針が大きく進んでいて自分が眠っていたことを知る。それを何度か繰り返す。
相変わらず背中が痛い。体が重い。
上体を起こそうとするけれど、うまくいかない。今の僕は、起き上がることさえできない。
力なくベッドに重心を預けて、天井を見つめた。おとといスーパーで少し多めに食料を買っておいてよかったと思った。
「……何かストレスになることはありませんでしたか?」
翌日は通院日だった。
主治医が僕の顔を見るなり言う。正直に言えそうにはなかった。言い淀む僕に、先生はさらにこう重ねる。
「眠れていないんじゃないですか?」
僕の目の下には、うっすら隈ができていた。声もずっと掠れたままだ。
しばらく休養したほうがいいと主治医は言った。特に眠れない時にと、頓服が追加された。
帰りのバスの中、ため息をついてしまう。カバンの中、少しはみ出している薬の袋を奥に押し込める。窓の外は小雨が降り出していた。
水を買い足しにスーパーに立ち寄ったけれど、今日は筒井さんはいない。
……この間レジで目が合った時、彼は笑ってくれたけれど、本当はやっぱり僕は避けられているんじゃないだろうか。そんなことがふと頭にもたげて首を振る。
筒井さんと僕は、避けるとか避けられるとか、そんな間柄じゃない。筒井さんは、優しい人だから。喫茶店や展示会に付き合ってくれたのは、特に断る理由がなかっただけだ。……実は迷惑だったんじゃないか。
ごちゃごちゃと頭に浮かんでくる言葉とスーパーのBGMが絡まって、頭が締め付けられるように痛んだ。
時計が深夜2時を過ぎる。今日処方された頓服は飲んでいない。まだ飲まなくて大丈夫だと思いたかった。
お昼時、スーパーのお菓子売り場。
「筒井さん」
僕が呼びかけても、彼は振り返らない。
少しずつ遠くなっていく背中に、もう一度呼びかける。
彼と僕の距離は、開くばかりだ。
指先が震える。喉の奥がきゅっと苦しくなる。
筒井さん。筒井さん。
「夢……」
布団の中、肩で息をしていた。体が冷えて、足先がとても冷たい。
時計の針は朝の9時を指していた。
1日を、始めなくてはいけない。
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