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第11章 逃げる理由

 少し肌寒くて、カーディガンを羽織る。  仕事は休みだった。豆を挽いてコーヒーを淹れる。ホットサンドを作る。少し焼き過ぎてしまったけれど、よしとする。  ふっと柔らかにコーヒーの香りが鼻を掠める。でも、それを楽しめる心境ではなかった。  カレンダーの10月の文字が嫌でも目に入ってくる。 「10月……、27日でした」  空色の封筒を受け取ったあの日聞いた、香澄さんの命日。  香澄さんに最後に会ったのは、9月の終わり頃だった。駐輪場で、いつもと同じように何気ない話をして、笑って別れた。  コーヒーをスプーンでくるくると回す。その渦を、ぼんやりと見つめていた。  鼻の奥がツンとして、反射的にコーヒーをぐいと飲む。カーテンを開けて、窓も少しだけ開ける。スッと風が入ってきて、やっと少し息をつける気がした。  広告が入っていたから、午前中のレジは混み合った。息を吐く間もなく、するすると流れるように昼休みはやって来た。  賑やかな店内。人の間を抜けてのり弁をカゴに入れる。小さな甘いものを買おうとお菓子売り場に入った瞬間、「あ」と声が出そうになった。そこには林さんがいた。……油断していた。今日は混み合うから来ないだろうと勝手に思い込んでいた。  目を見開いてしまった気がする。変に見えていなかったらいいけど、と思いながら口にする。 「こんにちは」  にこやかに笑いかける。胸がざわざわしていることを気づかれないように。何気ないふうに。  林さんは小さく会釈して、「こんにちは」と返してくる。何か迷っているかのように、指先が泳いでいる。瞳が揺れる。かと思ったら、きゅっと指先を握って、 「あの……、今度映画観に行きませんか? 筒井さんが観たいって言ってたやつ……」  ドクンと、胸の音がうるさい。逆に他の音はみるみる遠ざかっていく。体がこわばって、足先が冷えていく感じがした。 「すみません、しばらく忙しくて……」  絞り出すような声だと思った。林さんの靴の方しか見ることができない。 「そうですか」  微かに落ちた声に、気づけなかったらよかったのに。  林さんは、「じゃあ、また」と静かな声で言うと、そのまま人の流れに紛れていく。  しばらくその場から動けなかった。スタッフルームでの昼食は、まるで味がしなかった。  家に帰り着くと、床にぺたんと座り込んだ。うまく呼吸ができない。気づいたら肩で息をしていた。  いつもみたいに、「行きましょう」とはとても言えなかった。カレンダーの「10月」の文字が揺れて見える。それと同時に、林さんの昼間の声が頭に響いて、顔を両手で覆った。  これでよかった。よかったんだ。  今日は早く眠ってしまおうと思った。

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