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春爛漫(1)
玲陽が都に来て、初めての春が巡ってきた。
歌仙よりも北に位置する紅蘭の冬は厳しい。硬く引き締まった雪と氷は、土と時間を冷たく凍らせる。寒風にさらされた人々の心は、そのぶん、春の訪れに浮き立つことひとしおだった。
冬の間、玲陽は慣れない寒さに苦しんだ。激しい心の揺れに翻弄され、生傷と古傷に苛まれ、耐え忍んだ。片時も離れず寄り添った犀星と、そばで支えてくれた友人の優しさに助けられ、春の訪れと共に徐々に回復のきざしを見せつつあった。
玲陽は、子どものころから動き回ることが好きな性格だった。致命傷を受けた東雨に代わって力仕事を引き受け、時を見つけては犀星を相手に太刀の稽古にいそしんだ。
東雨は、そんな玲陽の姿に励まされ、傷の悩みを抱えつつ、静かに平穏を噛み締めていた。
だが、春が世界に色を添えても、東雨の心には、皇帝の命を受けて玲陽をたばかり続けた罪悪感が、いまだ消えずにくすぶっていたのも事実である。ともに過ごした時間の楽しさに偽りはない。それでも、思い出すたびに、後ろめたさがついてまわった。
特に、自分を疑うことをしなかった玲陽のまごころは、東雨の胸に深い罪の意識を突き立て、痛みはうずき続けた。
逆に、玲陽は東雨とのわだかまりを一切、記憶に留めていないようだった。東雨が置かれていた状況を知らなかったわけではない。少年が自分に向けた思いの裏に、策略の匂いがあったことに、玲陽も早くから気づいていた。
それでも、迷い続ける東雨のやわらかな純真を信じることは、玲陽には難しいことではなかった。
犀星の計らいは、東雨と皇帝の縁を断ち切ってくれた。守られている安心感に抱かれ、春は静かに穏やかに、東雨の心を満たしてくれた。繊細な変化に気づく季節。東雨の成長と心の安寧を、春風の優しさが後押しした。
「八穣園の東の池が、素晴らしいんです! |万彩淵《ばんさいえん》というんですが」
東雨は夕餉の粥に大根の塩漬けを浸し、並んで座る犀星と玲陽を嬉しそうに見た。
「夏には、大きくて美しい色とりどりの蓮が咲くんです」
「今は時期じゃない」
興味がなさそうに犀星が首を振る。東雨は負けじと身を乗り出した。
「それでも、水に映る新緑は綺麗ですし、何と言っても、池を巡るように植えられた枝垂れ桜は、本当に仙界にいるようで、風が吹くたびにくらくらするような美しさです」
黙った犀星の顔を覗いて、東雨は短い溜息をついた。
「若様が、派手なのが好きじゃないのは知ってますけど」
犀星はちら、と東雨を上目遣いに見て、
「遠い世界の絵そらごとのようで……」
「そう言って、まともに見に行ったことがないじゃないですか。いつも五亨庵に閉じこもって、みんなが楽しんでる宴には顔も出さない。だから、歌仙親王は雅を理解しない、とか言われるんです」
「騒がしさと風雅は違う」
犀星が無表情で粥を口に運びながら、
「東雨の目当ては屋台だろう?」
「屋台?」
玲陽が丁寧に粥を食みながら、顔を上げた。東雨はにっこりして、
「葛団子や砂糖をまぶした餅、桜と陳皮の甘いお茶、珍しい魚の乾物なども売っていて……」
「東雨どのの好きなものばかりですね」
玲陽は嬉しそうに話す東雨を、さらに嬉しそうに眺めた。
「それでは、我慢しろという方が可哀想です」
「さすが陽様! わかっていただけて嬉しいです」
東雨がふっと笑う。犀星は気づかれない程度に目を細めた。
「いつも、近くを通る時に匂いだけ楽しんでいたんですが、もう、そろそろ限界で……」
東雨は犀星を盗み見た。
「今年こそ、ぜひ、花見に行きたいです」
「目的は花ではなかろう」
犀星は薄味の粥で満足していた。
東雨は覚悟を決め、伝家の宝刀を抜いた。
「若様、陽様に、お見せたくないんですか」
ぴたり、と犀星が止まる。玲陽はにっこりして、
「無理に、とは言いませんが、気になります」
「…………」
「花見もお祭りも、子供の頃以来です。それに、都と歌仙では花の種類が違っていて、初めて見るものばかり」
玲陽の丁寧な話に、犀星は固まったまま、目を泳がせた。
「だが、あまり騒がしいのは……」
「少しだけ! 少しだけでいいんです!」
子供じみた口調で、東雨は押した。
「都の流儀を嫌うのは若様の自由ですけど、知らないままに嫌っても、そんなの、ただの無知と変わりません」
ここぞとばかりに、東雨は正論を並べた。
「若様はこだわりが強すぎます。歌仙のやり方を大切にするのは構いません。でも、それでご自身の見識を狭めてしまっては、もったいないです」
言い返すこともできず、犀星は恨めしそうに東雨を見た。
「これは、兄様の負け」
玲陽がうっすらと笑った。東雨は胸を張り、犀星は最後のあがきのように、
「都は、自分達がなんでも一番だと思っているようだが、そんなのはただの驕りだ」
東雨が呆れた顔で、
「十年以上ここにいて、一向に染まらないなんて……若様も相当です」
「兄様らしいです」
玲陽は気にしない口調で、
「こうと決めたら絶対に譲らない頑固なところは、昔からですから」
「陽様、よくこんな若様と一緒にいて、疲れませんね」
思わず、玲陽は苦笑いした。犀星が頬杖をついて、
「東雨、おまえは俺と一緒で疲れていたのか」
「だって、最初の頃は何を考えているかさっぱりわからなかったし、その後はやたらと無茶ばかりするし」
「…………」
「勿論、理に合わないことをする方ではない、と知っていますから、そこは我慢してますけど」
「我慢、か……」
変化に乏しい犀星の口角がさがった。圧する雰囲気に耐えかねて、犀星は救いを求めるように玲陽を見た。が、その玲陽も今は東雨の味方である。
「兄様、そろそろ、東雨どののご苦労に応えてあげなくては」
「別に、好きにさせているつもりだ」
犀星が、これ以上どうしろというんだ、と困り顔を見せた。
「もちろん、若様には感謝していますよ」
なだめ、許すように東雨は甘い声を出した。
「他の臣下に比べたら、自由にやらせてもらってます。その分、仕事となると手荒いですけど、それも、信頼してくれているのだと知っています」
「素敵な関係ですね」
玲陽が優しくまとめた。
「そうだ、東雨どの、粟餅を食べたことはありますか?」
「いえ…… 都では見たこともありません」
「では、試しに食べてみませんか?」
「え?」
「兄様が、米の餅より好きだ、というものがどんな味か、興味はありませんか?」
「確かに……気になります」
こういう駆け引きは、犀星にはできないものだ。
「兄様も、久しぶりに召し上がりたいでしょう?」
「……ああ」
これまた素直に、犀星も玲陽に乗せられた。
人を操ろうとする気持ちもないのだが、自然とまわりは乗せられ、玲陽の意見が通ってしまうのが常だった。そもそもの玲陽は、近しい人々の笑顔が何よりも嬉しい、という心根である。誰もが惹かれるのは、自然な反応であった。
翌日、犀星が五亨庵で執務に当たっている時分、玲陽と東雨は近隣の村まで、ふらりと粟を買いに出かけた。市場で済ませることもできたが、玲陽の体力を回復させるため、散歩を兼ねて都を出た。当然、最後の最後まで、犀星は玲陽の手を放さなかった。止めはしないものの、切ない表情を隠さない玲親王に、東雨はため息をこぼした。
「若様、小さな子供じゃないんですから」
東雨に呆れられ、仕方なく犀星は諦めた。犀星が出かけるとなれば、必然的に近衛隊が同行することになる。都の中では、数名の暁隊による警護で許されていたが、それとて、涼景の格段のはからいと、目だぬように組まれた綿密な警備体制の上で、かろうじてなりたっている自由であった。
一歩、都を出るだけで、涼景の仕事は三倍に膨らむ。それが正式な会見や視察であれば良いが、まさか、春先の山菜を取りに行きたいから、という理由では、さすがに難しかった。警備計画を立案し、下見し、訓練し、実施するまでに、季節は変わってしまうだろう。
身軽な玲陽と東雨は、恨めしそうな犀星を残し、都を抜けて南の城門から農村地帯へと向かった。
あたりには、雪解けのぬかるみがまだ残っていたが、その水を含んだ土からは、明らかに春の匂いがした。
少しでも目立たぬよう、玲陽は薄茶の襟を合わせた|交領《こうりょう》に、土色の|褲《こ》を着て、泥を避けるように足首の紐ををすぼめていた。髪も後ろでひとつにしばり、目だなぬよう、灰の布で覆っている。
麻でそろえられた着物は質素で、農村のあぜ道をぶらりとしても違和感がない。
東雨は玲陽にならって動きやすい着物をまとい、大きな竹籠を背負っていた。
髪こそ隠さないが、農作業に向かうようないでたちである。顔には浮きたつような笑みが浮かび、農民の子と言われても違和感がない。
玲陽は代わりに籠を背負う、と申し出たが、こればかりは東雨が譲らなかった。
春の畦道には、若い緑が多く見られた。東雨はまだ種まき前の畑の隅を覗いた。柔らかそうな薄い緑が、日の光を弾いてきらきらと東雨を見上げていた。
「ふきのとう、ですね」
玲陽が手を伸ばした。
「陽様、それ……」
「もしかして、東雨どのは食べたこと、ないですか?」
「はい……」
東雨はこくんとうなずいた。玲陽はにっこりとして、
「風味があって美味しいんです。特に、塩と魚醤で焼いて刻んで粥に入れると、それだけでご馳走ですよ」
東雨はするはずのない、香ばしい香りを感じた。
「それでは……」
と、東雨は玲陽に籠を向けた。そっと、玲陽は籠の底に優しい緑色の野草を並べた。
宮中育ちの東雨は、いかに質素な暮らしといえど、野草に手を出すことはなかった。犀星はそのような食べ方も知っていただろうが、食材を取りに行くのも一苦労の身である。せめて、庭の畑に頼るにとどまっていた。
東雨はあたりを見まわした。道の脇に棘のある木を見つけ、注意深く近づいた。枝の先に、淡い緑の芽が噴き出していた。
「|楤木《そうぼく》ですね」
玲陽は懐かしそうに、
「若芽は、菜種油で揚げて塩を振ると、美味しいんですよ」
「これも食べられるんですか?」
東雨は指先で芽をつまんだ。
「ふきのとうより苦味が弱いので、食べやすいかもしれません」
玲陽の話を聞きながら、東雨はすでにいくつも、芽を摘んでいた。玲陽は東雨を手伝いながら、懐かしい歌仙での暮らしを思い出していた。犀星と共に山に入り、二人きりの世界で笑っていた頃。犀星が十五歳を迎えれば終わるとわかっていながら、毎日を精一杯に感じて生きていた。残された日々を数えず、一瞬の笑顔を、乞うように求めていた少年時代。
ふと、ぼんやりしていた玲陽の足元で、もぞもぞと東雨が動いた。
「陽様、これは?」
東雨は、草の間から、たくましく伸びていた茎を差した。玲陽の顔がぱっと明るくなった。
「それは|薤《かい》です。食べるには少し辛みが強いですが、体の流れをよくする効能が高いです。食材より薬草という感じでしょうか」
「食べられないんですか?」
残念そうな東雨に、玲陽は優しく、
「試してみますか? 刻んで羹にできますし、粟粉で練って蒸し物にすれば、団子にすることもできますよ」
東雨の目がきらきらと期待に輝く。玲陽は、次々と東雨に山菜を教え、調理法を説明した。物覚えのいい東雨はすぐにそれを身に着けた。
一度覚えると、東雨の行動は早かった。ゆっくりと歩く玲陽を前後しながら、あれこれと、食べごろの山菜を集めてまわる。
玲陽はその様子を眺め、さも嬉しそうに目を細めた。
膳に出された山菜を見て、犀星はどんな顔をするだろうと、東雨は想像し、にんまりと笑った。いつしか、傷の痛みも遠のいて、楽しいことに心が向いていた。胸の中から消えてくれなかった罪悪感が、玲陽の穏やかな笑顔とともに、溶けていくように思われた。
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