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春爛漫(2)
「俺、陽様と一緒に来られて、よかったです」
土手の草に座って一休みしながら、東雨は言った。玲陽が気持ち良さげに春風に髪を解く姿に見惚れていると、全てが悪い夢だったような気がしてくる。
「私も、東雨どのが元気になってくれて、本当によかったです」
ぼんやりしていた東雨を、玲陽は優しく見た。
「疲れましたか?」
「い、いえ! 陽様よりは体力、ありますから!」
「そうですね」
玲陽はうなずいた。
「私も、東雨どのに負けないように、取り戻さなくては」
「陽様は、剣術、お強いんですよね?」
玲陽は苦笑した。
「昔のことです」
遠くに目を向けて、玲陽は息を吐いた。
「あの頃、どうしても兄様に負けたくなくて、必死でした。強く、なりたかった」
「陽様は、優しい印象があります」
東雨は素直に、
「若様は涼景を相手によく稽古してたので、違和感はないのですけど、陽様は刀よりも琴とか料理とか、そういう繊細なことが得意な気がして……」
「最近は、すっかり力を使うことから、遠のいていましたから」
玲陽は笑って、
「でも、私だって兄様に負けるつもりはありませんよ。絶対、取り戻して見せますから」
「強気な陽様、珍しいです」
東雨もつられて笑い、ふと、犀星の言葉を思い出した。
「そういえば、陽様は勝気で負けず嫌いだって、前に若様がおっしゃってました」
「負けたくないのは、兄様にだけ、です」
玲陽は肩をすくめ、それから、膝を抱えた。
「私たち、おしまいがわかっていたんです」
「おしまい?」
「はい。どんなに一緒にいたいと願っても…… 兄様は、親王として都に行くことが決まっていました。私も一緒に行きたかったですけれど、玲家の事情や、都での安全面から、それは難しいと、だんだんわかってきて……」
東雨は、黒々とした畑の向こうへ目を向けた。
「だから、余計に必死だったんです。私が強くなれば、もしかしたら、ついていけるかもしれない。そんなことを思って……」
「陽様……」
東雨は、都にきてからの犀星を思い出した。
「若様も、同じでした。陽様を呼ぶんだって、必死になって……」
東雨はそれ以上、言葉が続かなかったが、思いはしっかりと玲陽に伝わっていた。
「あの、陽様?」
穏やかに、玲陽は振り返った。東雨は気まずそうに鼻の頭をこすった。
「その……嫌じゃないんですか? 俺なんかと二人で……」
恐る恐る、東雨は尋ねた。
「俺は酷いことをしたんです。陽様のこと、騙すような真似をして。若様にも……涼景にも、たくさんの人たちに、嫌な思いをさせた……」
「…………」
「俺、楽しかった。陽様と一緒に料理をして、琴を聞かせてもらって、次の季節の約束をして……その気持ちは本当です。でも、悪いことをしたのも、本当です」
声に詰まった東雨に、玲陽は表情を緩めた。
「兄様は、一度でも、あなたを責めましたか?」
問われて、東雨は黙った。
「兄様も、涼景様も、一度でも、あなたを見捨てようとしましたか?」
「……いえ」
「私も同じです」
玲陽はそう言って、輝く瞳に東雨を映した。
「あなたが思っているほど、私たちは薄情ではないつもりです」
「あ……」
ぽろり、と東雨の目から涙がこぼれた。
玲陽はそっと東雨の泣き顔を抱き寄せ、自らの袖を押し当てた。
「陽様……俺……」
「怖がらなくていいんです」
玲陽には珍しく、自分から強く東雨を抱き締めると、そっと耳元で囁いた。
「もう、あなたは一人ではないのだから」
慰めようとした玲陽だったが、それが逆に東雨の号泣を誘ってしまった。
やれやれ、とその背を優しく叩いてあやしながら、玲陽はふと、子供の時の記憶を蘇らせた。
犀星もよく、こうして自分の胸で泣いていた。
私は泣き虫を引き寄せてしまうのだろうか。
そんなことを思いながら、東雨をなだめつつ、自然と笑みが浮かんだ。
もう、数えなくていい。
不意に、玲陽は思った。
残り少なくなっていく日々に怯え、犀星が泣くことはもう、ないのだ。
これから先、いつか終わる日が来たとしても、それは数えることなく過ぎる日々の向こう側である。
おしまいは、もう、ない。
未来を断絶していた壁は消え、細い道が遠く、かすむほど先まで伸びているように、玲陽には思われた。
犀星と、東雨と、共に歩けたら、それは何より優しい時間となるだろう。
しゃくりあげる東雨の背中を撫でながら、玲陽は微笑んで目を閉じていた。
玲陽と東雨が屋敷へと戻った頃には、すでに夕闇が近づいていた。裏口に近づいた玲陽は、懐かしい匂いに気がついた。
厨房を覗くと、先に帰っていた犀星が、一人、静かにかまどのそばにいた。
東雨が山菜や粟の袋を食材庫に収めている間、玲陽はそっと、犀星の手元を覗き込んだ。丁寧に下ごしらえしているものを見て、その表情がぱっと明るくなった。
「七草粥!」
玲陽の歓喜の声に、犀星は満面に笑みを浮かべた。色鮮やかな旬の草が、砧の上に並んでいた。
「どうにか、宮中で見つけたんだ」
「嬉しい!」
手を叩いて目を輝かせる玲陽を、犀星は眩しい笑みを浮かべて見つめた。
東雨が振り返って、
「俺たちも、山菜を摘んできたんです。すごく楽しくて」
「東雨どのがたくさん頑張ってくれました。今夜あく抜きして、明日のご馳走にしましょう。せっかくなら、涼景様にも」
「涼景……」
東雨は一瞬、緊張で笑みが凍りついた。
「……まぁ、陽様がそうしたいなら……」
東雨は微妙な表情で、壁に掛けられた、涼景の無賃飲食の表を眺めた。
「陽の好きにするといい」
すっかり玲陽の笑顔に心を奪われて、犀星は緩んだ表情のまま、粥をかき回した。よほど嬉しかったのか、玲陽は後ろから、犀星の体を抱きしめた。
視界の隅で見ていた東雨が、少し、寂しそうな表情になるが、それも一瞬のことだった。この二人が平穏でいられることがどれほど得がたく、価値があるか。東雨は誰よりも知っていた。
「では、明日、弁当にして、五亨庵で食べましょう!」
東雨は二人に提案した。
「八穣園じゃなくていいのか?」
意外そうに、犀星が訊く。東雨はどこか照れて、
「いいんです。だって、五亨庵の庭も素晴らしいし、何より、お二人が落ち着ける場所じゃないですか」
犀星と玲陽は顔を見合わせた。
「若様がおっしゃるように、花見にはまだ少し早いです。それに、若様がお出かけになると、近衛の人たちがたくさんついてきちゃいますし、そうなったら、若様も陽様もゆっくりできないでしょうし……」
「東雨……」
「五亨庵なら、その……涼景も呼べますし」
犀星は手を止めると、微笑んで東雨を見た。
「感謝する」
首を傾げる東雨を見て、犀星と玲陽は揃って笑った。
夜の膳は、いつになく、会話が弾んだ。と言っても、東雨の話が多いのはいつもと変わらない。だが、それを聞く犀星の表情は、普段よりも柔らかく、相槌も多かった。玲陽は二人を幸せそうに眺めては、時々、涙ぐむような仕草で目に袖を当てた。
夕餉を終え、自室で、木簡に目を通していた犀星は、ふと、窓から差し込む月光が揺れて、小さな囁き声を聞いた気がした。
顔を上げると、一人分の幅に開いた板戸から、青白い中庭が見えた。
満月の光に濡れ、昼間とは違った色合いを見せる花々、その奥に、若い蝋梅も枝を静かに掲げていた。犀星が好きなことを知って、歌仙から苗木を取り寄せ、涼景が植えてくれたものだった。
庭の隅に置かれた石造りの簡素な長榻に、こちらに背を向けて、玲陽が座っていた。犀星が残り仕事で読み書きをするとき、玲陽は決まって席を外すようになっていた。寄り添えば、犀星の気がそれることを、玲陽はちゃんと承知していた。
犀星はしばらく頬杖をついて、玲陽の後ろ姿を見つめていた。
金色の髪が、月光を受けて光を放つように煌めく。
自分よりも一回り細い身体、わずかに低い背丈、けれど、そのしなやかな動きは、体が回復するとともに、確実に戻ってきている。
もともと、自分以上に剣術の腕が立ち、犀遠も認める資質が玲陽にはあった。体を鍛え、研鑽を積むべき時期を、玲陽は奪われた。犀星の優位は、それだけの差である。
幼い日、共に刀を交えて鍛錬に励んだのは、国を守り、故郷を守る、そんな未来のためであった。十年前に別れてしまった道が再び重なり、こうして同じ未来を描けることに、犀星はつい涙腺が緩む。
必ず、守る。
そう、誓う想いに偽りはない。
だが、それは同時に、共に生きることを、意味するようになっていた。
どちらかがどちらかを守れるほど、自分達は強くはない。
弱さを補ってこそ、共に生きる時間が得られるのだと、経験がふたりを導いてくれた。
季節が移ろうように、玲陽との時間も、同じ一瞬は二度と来ない。
風が吹き、雲が月明かりを弱めたとき、犀星はすでに体が動いていた。部屋を出ると、庭へと降り立つ。
わずかに甘く湿った夜の空気が、着物の合わせから肌に忍んで来た。
「春の月って、どうしてこんなに白いのでしょう?」
犀星が近づいたことを察した玲陽が、振り返りもせずに囁いた。
「まるで、溶けて消えてしまう、雪のよう……」
犀星は隣りに座ると、後ろから右腕を玲陽の肩にかけた。左腕を前に回して、玲陽の胸の前で指を組み、ぴたりと体を寄せて抱きしめる。
玲陽がその腕に首をもたせかけ、犀星はあらわになった首筋に顔を埋めた。
玲陽の肌は薄く、まさに春の月のごとく、きめ細やかだった。
顔を見れば、思わず唇を重ねたくなる衝動に駆られる。それを殺すように、いつしか体を絡めて抱き合うようになっていた。
玲陽はそっと、自分の胸にあてがわれた犀星の手を、両手で包んだ。まるで、壊れやすい花弁を抱くかのように優しかった。
犀星は、低く口ずさんだ。
花時已到人
吾身獨失春
君去櫻華在
宛如隔世塵
花の時 すでに人に到れど、
|吾《われ》が身 独り春を失う。
君去りて 桜華《おうか》|在《あ》り、
|宛《さなが》ら世を|隔《へだ》つ塵のごとし。
(伯華)
玲陽の手から、犀星の心が伝わってくる。
離れていた年月の空白は、玲陽の心にも夢のように影を落としていた。
「星」
玲陽は答えて、
花時正滿庭
吾目不知春
所見唯君影
君眸亦是身
花の時 まさに庭に満つれど、
|吾《われ》が目 春を知らず。
見るところ ただ君が影のみ、
君が|眸《ひとみ》にも また|是《こ》れ我が身。
犀星は強く、玲陽を抱き締めた。
春の夜は、美しく、更けてゆく。
白い月の光。玲陽の髪を春風が梳かし、その甘い香りを犀星は胸に深く吸い込んだ。
と、その吸気の最後に、一瞬、つん、と鼻を刺激する匂いが混じった。
玲陽も、異変に気づいたらしく、心地よさげに閉じていた目をうすく開いた。
二人の間に、無言の、しかし、確かな緊張感が走る。
血の匂い。
いや、臓物の匂いか。
こんな時間帯に、どこから漂ってきたのか。
悲鳴も聞こえなかった。それらしい物音もしなかった。その匂いだけが、突然、流れてきた。
「陽」
犀星は、甘えた声で呼んだ。
「はい」
玲陽の返事にも、柔らかい響きがあった。
短いやり取りは、暗黙の了解だった。
犀星は、視線を流して背後を探った。
玲陽は、犀星とは反対側の庭の暗がりに目を凝らした。
気配はない。風が流れ、再び、今度は十分な割合を持って、その匂いが吹き付けてくる。
「風上」
犀星が呟いた。言いながら、玲陽の首筋に唇を這わせる。
疼くように鼻を鳴らして、玲陽が答えた。
「兄様……灯りを消して……虫が飛び込んでしまいます」
月明かりしかない庭である。消さねばならない灯りなどない。
「優しいな、おまえは……」
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