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Prologue 看病する・される3日間の始まり
季節は冬、夜10時。新宿駅から少し離れたエリア。
スーツとスーツが、よたよたしながらとあるマンションのドアの前にいる。ふたりの男の身長には、結構な差がある。だいたい30センチくらい。
「亜紀……アキ! しっかりしろ、うちに着いたから」
大きいほうが叫ぶ。一応、近所迷惑にならない程度に。そこそこいいマンションとはいえ、男ふたりが横に並んだまま入れるほど玄関は広くない。
「んー……」
大きいほうに肩をかかえられた小さいほうが返事代わりに唸る。瞼を開けることすら難しい様子で、足元はおぼつかなくて……。
「……かわ」
大きい方が、なんか言った。
「ん……なに……? かわ?」
小さい方が、訊いた。
「なんでもない。カワウソだ」
「俺は……カワウソじゃなくて……一ノ瀬亜紀です……」
「知ってる。いまさら自己紹介はいらない。しっかりしろ」
「……春彦、声でけえ……頭、ぐわんぐわんして気持ちわるい……ゲロ吐きそう」
「それだけはなんとしてでも耐えろ……」
春彦が自分の部屋のドアを開けると、亜紀はよろよろと中に入り、靴も脱がないまま廊下に倒れ込んだ。
──コレだもんな、改めてびっくりだ
と、春彦は思う。
オフィスでの彼とは雲泥の差がある。常に柔らかな男ではあるが、どこか芯が通っていて、隙がないのだ。よく笑うが、あらゆる物事に対してクールで、分析力が高い。「崩れない・崩されない」というイメージ。
しかし、プライベートで会うと「こういう亜紀」が現れる。なんとなく慣れなくて、春彦はいまだにびっくりしてしまうことがある。オフィスでの亜紀じゃない亜紀は、床に転がってぐずぐずしている。熱があるとはいえ、クールのクの字もない。
幻滅するか、と言えば、それは違う。妙な特別さがある。隙を見せてもらえるのが少し嬉しかったりする。
……いや、いまはそれどころじゃなく。
春彦は玄関にしゃがんで亜紀の革靴を片方ずつ脱がせてあげた。ついでにネクタイを外し、丸めてポケットに突っ込んでやった。ゲロ被害が最小限になるように。
「ありがとうございます……」
……と、亜紀はいつになくしおらしい。
だが、春彦は心を鬼にして「だから言っただろ? これじゃ電車に乗るのだって無理に決まってる」と叱った。
亜紀はついさっきまで、立川の自宅アパートまで帰ると言って聞かなかったからだ。立川までは中央線で30分近くかかるし、帰宅ラッシュ時の乗客にとってひどい迷惑になる。事実、いまいる会社の医務室からさえひとりでは脱出できない。春彦がぐでんぐでんで無力な友人を抱え、タクシーに押し込んでここまで来れたにすぎない。
なお、新宿のはずれにある春彦のマンションは、資産家だった祖父が残してくれた不動産のひとつだった。2010年代後半に建てられたものだから、1区画が広め。支払いは祖父が済ませていて、春彦は固定資産税しか払っていない。
「ここならすぐ近くでよかっただろ? 一応新宿だし」
何気なく春彦が言うと、
「立川は……新宿に負けるというのか……」
と、亜紀が悔しそうに答えた。謎に、心底悔しそうだった。
かわ……
……いや、そうじゃなく。カワウソです。
亜紀のそういうところは本当になんかすごく可愛いと思ってしまうが、ダメ。禁止。
首を振って、思考にブレーキをかける。具体的には「可愛いって言うの・思うの禁止令」を出す。
とりあえずその場をごまかすために、亜紀にはこう言ってあげた。
「いや、負けていない。立川は素晴らしい街だ。ただ単純に、いまのおまえにとって遠い存在というだけ」
「よかった。立川は強いはずだからな……」
「うん。立川は強い……たぶん」
しかたなく春彦は立川という土地を擁護し、亜紀をなだめた。友人のためとはいえ、自分と縁のない土地を擁護しなくちゃいけないというのは、なんとも微妙な気持ちだ。
「いまさらだけどさ、泊まっていいの」と、亜紀。
「いいから連れてきた。おまえをバイオテロ犯にさせたくない」
「でも、せっかくの週末じゃん」
「いい。用事なんかないし、そもそもおまえに風邪を移したのは俺だから」
春彦はそう言って、亜紀の身体をかかえて起こした。亜紀も、さすがに強がれないようだ。
「……わかった。春彦、ごめんな」
「気にしなくていい。最近仕事でも助けられてばかりだし、今回は俺のお世話になってくれ」
「ん……お世話に……なってあげます……」
「はいはい」
「へへ。おまえんち、久しぶり」
亜紀がふにゃりと笑う。会社で見せるあのクールさの欠片もない。特別だ、とは思わないようにし、さっき出したばかりの「可愛い禁止令」を必死で意識するようにした。なんか変に苦しかったが、気付かないふりをする。
「……そうか? 覚えてない。ほら、がんばって立て。足元に気をつけろ」
「はい」
「……普通に返事するな」
「なんで普通に返事して叱られるんだ……ゲロ吐くぞ」
「やめろ。ゲロを武器にするな」
†
彼らは、同じ企業の同じ部署に勤めるサラリーマン。
ひとつの大きなプロジェクトを終え、やっと明日から連休を迎える。
少し前に春彦が風邪をひき、どうやらそれが亜紀に感染した。この冬は質の悪い熱風邪が流行していて、誰が誰から感染したかなど当然まったくわからないが、春彦は自分のせいだと信じ込んでいる。仕事においてもっとも信頼する「相方」のような男に高熱を出させてしまった、と。だから、どうにかして罪滅ぼしをしたいと考えているのだ。春彦はラフ系イケメンという見た目と違って、そういう真面目さ・硬さがある。
もちろん、それ抜きに考えても心配だったから。春彦にとって、亜紀はとても重要な仕事仲間で、それ以前に、数少ない「友人」と言える男だったから。
今日は金曜日。明日は土曜日。土日で連休。
ふたりにとって久しぶりのきちんとした休暇となる。
先に読者のみなさまにお伝えする。
亜紀の熱は、日曜の夜まで下がらない。
だから彼は風邪薬を飲まない
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