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1-①.友人が嫌う風邪薬、死人レベルの昏睡
──金曜日の夜から土曜日の深夜/春彦視点
玄関と違って、床暖房で暖められた部屋。だぼだぼの服(春彦にはジャストサイズ)を着た亜紀は、リビングの床に座り、ぐったりとベッドに寄り掛かっている。
「シャワー貸してくれ……このまま寝るとか、絶対ヤダ……さらに死ぬ」と亜紀が喚くので許可したが、当然体力は奪われたのだろう。
春彦はもう細かくいろいろ考えるほうが死ぬ(ほど面倒だった)ので、風呂場から出たタイミングで勝手に侵入し、小さい友人をバスタオルに包み込み、ゆったりした服を着せ、髪を乾かしてやった。亜紀はその間ずっと無言だったので、文句はなかろうと判断した。
なにせ、甥っ子にやってやるのとそんなに変わらない。暴れないだけスムーズだ。春彦には姉がいて、その娘(8歳)と息子(5歳)と過ごすのは慣れている。
でも、髪を乾かすときはなんだか新鮮だった。やはり大人の頭だ。自分にはない、くっきりと黒い髪、いい重さのある超ストレート。このさらさら加減はちょっと羨ましい、などと思いながら、仕上げに櫛で梳かしてやった。
あとはベッドに放り込めば終わり。理由はあとで説明するが、春彦はベッドをリビングに置いている。寝室用にできる部屋はあるけれど、寝室にしていない。なお、亜紀は「ソファでいい」と言ったが、当然却下した。風邪が悪化したら困る。
「──と、そうだ、薬。亜紀、もう少し待て」
一応、市販の風邪薬は置いてある。これがあればなんとかなるだろうと、コンビニにも寄らないで自宅に戻ったのだ。青い箱からPTP包装シートを取り出すと、白くて長細い錠剤がお行儀よく並んでいる。春彦は説明書にある服用方法を丁寧に確認しつつ、大人1回分、2錠を閉じ込めたシートをちぎってテーブルの上に置いた。
しかし。
「……それ、いらね」
もったりとした声で亜紀が言った。
「なんで」
「解熱剤があったら貰う。ある?」
「それはないな。切らしていた。でもこれだって解熱効果があるし……」
「じゃ、いい。なにもいらない」
「なぜだ? 飲んだほうがラクだろ。よく眠れる」
亜紀は居心地悪そうに薬を見つめ、つぶやいた。
「寝たくないんだよ」
「は? 意味がわからない」
「普通には寝たい。薬を飲むと普通じゃなくなるんだよ。病的に眠くて」
「……寝ればいいだろ。どれだけでも」
「軽く言うなよ。死人レベルに寝ちまうんだよ。起きれない。それで3回遅刻してる」
「遅刻?」
「そう。あのね? 数分単位の遅刻じゃないよ。昼過ぎ。3回とも。半日単位」
わが社の一ノ瀬亜紀といえば、始業30分前にはデスクにいることで有名だ。遅刻も聞いたことがない。春彦は首を傾げた。
「それ、俺は知らないな。いつの話だ? まだ俺と組んでいないころか」
「だね。3度目の遅刻をして、それ以来、いわゆる風邪薬は一切飲まないって決めた。体調を最優先に考えるようになったし。なあ、俺が風邪ひくのって珍しくね?」
それはそうだ、と春彦も思った。自分がウイルスを持ち込まなければよかった話だし。
「──しかも、」と亜紀。「薬を飲むと早く治るとか、そういうわけじゃないらしいじゃん」
「それは、そう」
実は『風邪を治す薬』というのはこれだけ医学が進化した世界でも存在していない。出てきたらノーベル賞ものだろう。いま世間にある風邪薬には、症状を和らげるだけの対処療法しかできない。
「だから俺はもう二度と風邪薬を飲まないと決めた。自然治癒できる」
風邪薬を飲むと眠くなるのは、周知の事実だ。風邪薬に含まれる抗ヒスタミン剤は、その名の通り「ヒスタミン」の働きを抑えることができる。これにより、咳や鼻水などの症状は減るが、ヒスタミンが持つ「眠気を抑える力」も同時に弱めてしまう。だから眠くなるのだ。
個人差が大きく、まったく眠くならない人間と、微妙でもダメな人間がいる。亜紀は後者だ。車の運転どころか、外に出るのもやめたほうがいい。
春彦はパッケージを再確認し、「眠くなりにくいと書いてあるけど」と言ってみた。なんとなく、それもダメなんだろうなとは思いながら。
「ダメ」
やっぱり即答。
「って、言うと思ったが」と、春彦。
「もちろん試した。見事に騙された。そいつは詐欺商品だ」
「……まあ、『なりにくい』だからな。詐欺まで言うのはちょっと可哀想だ」
でも詐欺は詐欺だ、と亜紀は続ける。
「朝飲んで気づけばもう夜だったし。仕事の日じゃなかったからいいけど、人生が勝手に早送りされるなんてうんざりする。だからその類のヤクは絶対使わない。ぜったいに」
「ヤクって言うな。なんか危ない」
「白い薬」
「むしろきわどさを増した」
「とにかくヤダ」
「子ども以下のことを言うな。よく考えろ、亜紀」
「……んだよ……」
亜紀が脇に挟んでいた体温計が鳴った。小さなモニターを覗き込むと、40.2度。亜紀は「測んなきゃよかった」と肩を落とした。
とりあえず休ませる。もう話を長引かせてはいけない。
「明日は休みだし、際限なく寝ていていい。むしろそのほうが一気に治るかもしれない」
「あのな……おまえ、俺の話を聞いてたか? 本当に、ほ、ん、と、う、に、起きないんだ。死体と同じと思っていい。そんなのがだらっとココにあったら、おまえだって普通にヤだろ。少し熱が下がったら帰る。せっかくの連休を俺のために潰すな」
「土日どころか、3日でも4日でも潰していいんだよ」と春彦は言った。「だって、そもそも俺のウイルスだ」
春彦は、亜紀に風邪を移したのは自分だと確信しているので、そう言い切る。
「なにその言い方……おまえが開発したみたいな」
「違う。保持していただけだ。でも、自分から出したウイルスの責任は自分で果たす。抗体ができているから俺には戻ってこない。倒れて運ばれるよりましだろ?」
沈黙。
ふたりが黙ると、部屋には亜紀の荒い呼吸音だけが響く。
「それに……」と、春彦が続ける。
「……それに、なに。まだあるの」と、亜紀。
「俺相手なんだから、……いいだろ」
なんかちょっと意味ありげな言い方になってしまった。そういう感じのことを思っているのは事実だが。
亜紀は黙っている。
表情からはなにも読み取れない。
「えっと、だからな……」と春彦。「俺のまえで気を張る必要はないだろ、と。おまえのゲロ寸前まで知ってる人間って、ほかにいるか? いくら俺のように友達が少なくないとしたって、そういうのはいないんじゃないかな……と」
「……ゲロ寸前」
「いまの状態をひとことで表現してみた」
「…………」
また、沈黙。
情に訴える少しズルい作戦に出た春彦だったが、成功したか失敗したかわからない。
「…………」
「…………」
「……わかったよ……」
亜紀が折れた。作戦は成功したようだ。というか、疲れ切って諦めた感じにも見えた。春彦にしても、もうこれ以上同じ議題で議論するのは避けたかった。ただの風邪だし。
水の入ったコップを渡すと、亜紀は錠剤を口のなかに放り込んで、水をふたくち飲んだ。
「飲んだ。……気は済んだか」
「よし。よくできた」
「やめろ。お父さんかよ」
「どうぞ。それで薬を飲むならお父さんでもなんでも」
「ちくしょ」
亜紀はあれこれと寝る支度をしてから、ベッドに転がった。春彦のベッドが大きめだからなのか、春彦には亜紀がさらに小さく見えてしまった。ちんまり感がすごい。
「……あのさ、ごめんな。ベッド、取っちまって」
布団に半分隠された顔が、春彦に謝罪する。
「いい。客用の布団もあるし」
「ありがと。恩にきる」
黒く丸い頭が、大きな枕にうずもれる。
春彦はなんとなく、その頭をいいこいいこしたくなったが、やめた。相手は27の大人で、1秒でも早く寝かせたい相手だ。ふざけてちょっかいを出すべきじゃない。
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