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【完結】後日談・後編 2日後/亜紀は春彦の「昔の男」について知りたい
引き続き亜紀視点
椅子のことはお構いなしの勢いで立ち上がったので、キャスター付きの椅子は結構遠くまで冒険に出かけた。
抱きしめられに相手のところに向かうのってなんかすごく変だが、しょうがない。問われて困惑する春彦を想定していたのに、こっちのほうが従う感じになっているのもすごくすごく変だが、まあそれもしょうがない。それくらい知りたいのだ。
春彦に昔の男がいるかいないか。
それだけなんだけど。
亜紀がテーブルの向こう側にまわり、春彦のそばまで来ると、春彦は椅子を回転させて亜紀に身体を向けた。それから、自分の膝をぽんぽんした。
「はい。どうぞ。ここに座って」
「……誰か来たらどうすんだ」
「キーが解除された音がしたら動けば間に合う」
それはそうだ。会議室は社員証でロックが解除されるタイプのもので、2秒くらいは余裕がある。
廊下を歩く人間の足音は聞こえるが、たぶん誰もここには入らない。
「…………」
「早く」
「(なんで俺が急かされるほうに……)」
「なにか言ったか」
「なんでもないです。ケツ向けて座ればいいの?」
「前でもいいけど、そのほうが難易度が低いかなって」
「難易度……それは、どうも」
亜紀はあんまり加減しないでどすんと座ってやった。どうせ、相手は自分よりだいぶでかいのだ。これくらいの衝撃、なんてことないだろうと思って。
それなりの衝動だったが、春彦は小さく笑っただけだった。
それからすぐに亜紀の背後から両腕を回してきた。
少しだけ、煙草の香り。
ベッドで抱かれたときとは違う感覚。
「約束通りなんでも答えるよ。なに?」
男の声がごく近く、耳のそばから響く。
低くて、おだやかで、聞いていてとても気持ちのいい声。
「なんか……訊かなくてもいい気がしてきた……」
ほんとに。だって、知ったってどうにもできない。
自分がすっきりするだけだと思っていたが、むしろもっと知りたくなってしまう可能性だってあるのだ。どんな男ならこの相手になれたのか、とか。
あと、やっぱちょっとデリカシーに欠ける。相手が恋人だったら絶対ダメな質問なのだ。たぶん。
友人という立場でいるからこそ「気軽」を装って質問している自分が、なんだかすごくよくないものの気がしてきた。
訊かない方がよくないか?
でも。
「抱きしめられ損になるから、訊けばいいと思うよ」
春彦がそう言った。
そう言われればそれもそうだ。
「……じゃあ、えっと。遠慮なく」
「はい。どうぞ」
「俺らさ、たまに昔の彼女の話とかはしてたけど」
「たまにね。俺が心寧と別れてからは、それもないが」
心寧さん。別の事業部の部長だったひとだ。春彦と別れて次の月くらいにイギリスの支店に異動して、その数か月後には独立して起業してしまった。少し釣り目で、黒髪で、肩までのストレート。背は亜紀より高かったはずだ。なんだかエキゾチックで、頭のいいひとなんだろうなという印象。春彦は「変な別れ方をしたつもりはないが、なんか会いたくない」と言っていたけど。
「彼女、自分とは全然タイプが違うんですよね……」などと思いつつ。
「う……うん。それで、つまり、『彼氏』の話はしないようにしてたのかなーって」
即席で考えた質問の仕方だが、比較的うまくいった気がする。
まさに「姑息」な感じがするが、お互い様だ。
「……そういうわけじゃないが」と、春彦。
「あっ、じゃあ、てことは──」
「──なるほど、つまり? 過去、男とつきあったことがあるのか、という質問だな?」
「言う前に言いたいことがわかるの、やめて。頭がいい奴ってほんとこういうときイヤ」
「でもそうなんだろ?」
「……うん。はい」
亜紀に巻き付いたままの春彦の腕は同じ位置でキープされたまま。しかし、その指先はいつの間にか亜紀の耳たぶを揉んでいた。
この状況で文句を言うのも面倒で、亜紀はただ「こいつ本当に耳たぶが好きなんだな」と思っただけだった。
だが、追加で「もちもちもち」と「3もち」した時点で、手は止まった。
男の腕の力が強まる。
身動きできないくらいに抱きしめられた。
「……な、」
「いないよ」
「え」
「付き合った男も、好きになった男もいない。亜紀だけだ」
「…………」
「おまえだけだ」
「……………………」
春彦は小さく「俺の過去に興味を持ってもらえるのも嬉しいな」とつぶやき、しばらく動かなかった。
亜紀はなにも言えなかった。
「後ろから」でナイス、とこころの底から思っていた。
春彦にこの顔が見られないのは、すごく助かった。
いま自分はひどく動揺していて、最初のひとことが紡ぎだせずにぱくぱくしている。
なんで?
言えるとしたらそれくらい。ほんのひとことだ。
だけど、なんでと訊いたところで、きっと春彦にも答えが出せるものではない。
そんなのは、「まともな恋愛」から遠ざかりすぎていた自分にもわかる。
本人にもわからないのだ。
わからないから、感情のままに動くしかない。
狡猾に、「姑息」だとしても、必死になるしかない。
……なにかが揺れている。
自分のなかのなにかが。
「……はる、」
──そこで、その会議室のドアにノックが3回。
「はい」
春彦が答えた。
ロックを解除する音が聞こえて、ちょっとのんびり、2秒後くらいにドアが開いた。
「やっぱりまだいた」と宮島。「ねえ、なにやってんすか、亜紀さん。よく落ちないですね」
亜紀は春彦から2席離れた椅子に座っているが、非常に斜めになっている。
「座っている」とも言い難い姿勢だ。
「亜紀はちょっといま混乱しているだけだ。話は終わっていたし、もう出るつもりだった」
と、亜紀が答える代わりに春彦が答えた。
「混乱? まあケンカじゃないならなんでもいいですけど。ねえ、うちのビルの並びのお弁当屋さんが復活したらしいんですよ。『はまのや』さんってコロナから閉店してたとこ、あるでしょ。部長もけっこう通ってたはず」
嬉しそうに説明する宮島。
「通ってた。そうか、だいぶ経ったからもうだめかと。美味かったから残念だと思ってたんだ。復活はすごく嬉しいな」
「ね。当時の店主は引退だけど、どっかの料亭にいた息子さんが引き継いだみたいです。それでさっそく弁当を買ってこようかと思って。部長と亜紀さんもいります? とりあえず唐揚げ系でいいなら。メニューもわかんないんで」
「頼むよ。亜紀、おまえは?」
亜紀は斜めのまま「生姜焼きがいい……なかったらなんでもいい……」と言った。
「生姜焼きもうまかったですもんね、あそこ。品質がキープされてるといいな。じゃあ行ってきますね。のちほどペイペイで請求しますんで」
「了解。すまんな」
「りょ。ありがと」
ドアが閉まる。
またふたりきりになった。
ふたりきりになっても亜紀が斜めのままなので、春彦が「さすがの体幹だな」と言った。
亜紀的には、反射神経も褒めてほしいところだった。
「……楽しみだ」
春彦が言った。
弁当のことなのだろうが、別のことかもしれなかった。
とりあえず、しばらく斜めのまま考えることにした。
自分を好きだという男について。それから、自分自身の気持ちについて。
俺は、……俺自身は、いったいどうしたいんだろうね?
「2日後」亜紀視点、おわり。
もうひとつの後日談は、同人誌でお楽しみください!(いつかウエブにも出すかも)
ここで一旦、「1巻」は完結です。
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