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第1話 捨てたもの

「怒ってる?」 由緒(ゆい)がそう尋ねると、(しゅん)はそっと目を伏せて、言った。 「…怒ってないよ」 由緒はその返答にくすりと微笑み、そしてそっと顔を寄せ、息がかかりそうなほどの距離で春の目をじっと見つめて言った。 「…本当に?」 そう言って由緒はそっと春の頬に触れる。 そうしてまだ目を伏せたままの春の唇にそっと口付けた。 春はそれを拒むことも、それに応えることもしない。 ただそっと唇が付いて離れ、再び息のかかりそうなほどの距離で由緒は言った。 「…相変わらず優しいね …でも相変わらず……ずるいね」 それまで目を伏せていた春が、そっと視線を上げる。 二人の視線が交わる。 張り詰めるような沈黙の後、春が静かに言った。 「…そうだよ」 そう言ってすぐ、春が由緒を荒く押し倒した。 「はい、カットー!確認します!」 スタッフの声が響き、息を潜めていた他大勢のスタッフが一斉に息を吐いた。 由緒に覆い被さるようにしていた春は、ゆっくりと身体を起こし、そうしてそっと由緒に手を差し伸べた。 由緒はその手を掴み、ベットに沈んでいた身体を起こした。 そうして2人は撮影セットのベットにそっと隣同士で腰掛け、先ほど撮ったシーンの確認を待つ。 由緒が春に問いかけた。 「怒ってる?」 その言葉は先ほどのシーンの由緒のセリフと全く同じだったが、それが役としてのセリフではなく、由緒本人の言葉だと言うことは春にも伝わっているようだった。 しかし春は由緒に向けていた視線を外し、先ほどのシーンのセリフと全く同じトーンで言った。 「…怒ってないよ」 すると由緒も同じようにくすりと笑い、とん、と春の指先に触れ、言った。 「…本当に?」 そうして春はしばらく黙った後、触れていた指をそっと離した。 由緒はちらりと春に目線を向ける。 そうして由緒はもう一度、本当に?と尋ねた。 すると春はゆっくりと瞬きをした後、静かに言った。 「…セリフ違うよ」 そう言った春に由緒は視線を前に戻し、そやな、と小さく呟いた。 「オッケーです!じゃあ次のカット行くので、一旦控え室にお願いします!」 スタッフから声をかけられ、春はそっと立ち上がった。 そうしてスタッフ陣に軽く頭を下げ、由緒には視線をやることなく、マネージャーと共に控え室へ向かった。 ―― 春のマネージャーである松永春香(まつながはるか)は、控え室でただじっと座っているだけの春を一瞥し、控えめに声をかけた。 「…大丈夫?」 すると春はそっと松永の方へ顔をむけ、少し口角をあげ、いつもの”壱川春(いちかわしゅん)”の表情――優しく少し微笑んで、はい、と短く返事をした。 「…そう」 松永もそれ以上聞くことはせず、控え室の隅で事務作業のためにパソコンを開いた。 2ヶ月前のある日の深夜、突然春からの着信があった。 春からの連絡自体とても珍しいことで、何かあったのかと大慌てで電話に出ると、電話先の春が言ったのは、「今から自主練で事務所に行くので、明日の迎えは事務所に来てほしい」ということだった。 ドラマの撮影も始まってすぐであったことから松永はそれを止めたのだが、春はそれに聞く耳を持たず、いつも穏やかで静かに話す口調とは違い、珍しく冷たい物言いで「もう向かってるので」とだけ言い、電話を切った。 そうしてしばらく毎日家には帰ろうとせず、仕事終わり深夜に必ず事務所に向かい、数時間ほど自主練をした後、そのまま事務所の寮の空室で寝泊まりしているらしかった。 松永はそんな春に「何かあったのか」と尋ねたのだが、頑なに事情を話そうとしない春に痺れを切らし、松永はそうした日々が一週間ほど経った頃、(あき)へ連絡を入れた。 ―― 「もしもし、お疲れ様」 『…お疲れ様です』 電話口の秋は明らかに元気がなく、松永はおおよそ喧嘩でもしたんだろう、と思っていたこともあり、そのままそれを尋ねた。 「…春と何かあった?」 『……春から何も聞いてない…ですか?』 「何かあったの?って聞いても”何もないです”の一点張りで」 『そう…なんですね…や…えっと…その…』 そうして歯切れ悪く、暗い声で秋は言った。 『…別れたっていうか…』 松永は思わずえっ、と声をあげる。 そうして秋に尋ねる。 「別れた?って…なんで?」 『喧嘩して…言い合い…みたいになって…まあそれで…』 「何が原因で喧嘩したの?」 『や…それは…まあ…いや…俺が…悪くて』 「何?…あ、良いわ、今家にいるの?」 『あ…まあ…』 「今から行くから …いい?」 『えっ…それって…その…春も、ってことですか?』 「…とりあえず今日は、私1人で行くわね」 『あ、はい』 そう返事をした秋の声はどこかホッとしているようだった。 そうして深夜1時を回った頃、松永は秋の自宅――と言っても春と共に暮らしていた家だが――に1人向かった。 ―― チャイムを鳴らして扉を開けた秋は、随分と憔悴しきった様子で、松永の知るいつものはつらつとした元気な様子は少しも感じられない。 ふと目をやったキッチンには食べ終えたカップラーメンの器がいくつも重ねて置いてあり、春が帰らなくなってからの秋の食生活が伺える。 松永は秋の向かい側、テーブルの椅子に腰掛け、静かに尋ねた。 「ちゃんと眠れてるの?」 秋はえ、と短い声をあげてから、まあ…と歯切れ悪く返事をした。 そうして秋が小さな声で尋ねた。 「…春はどうしてるんですか、その…夜とか」 「事務所の寮で寝泊まりしてるわよ」 「ああ…そうなんですね」 「連絡、とってないの?」 「…春が家出てってからすぐ…ちゃんと話そうって連絡入れたんですけど…まあ…返ってきてなくて…なんで…とってないです」 あの、と秋が続けて言った。 「春は…元気にしてますか」 松永はその問いに、春のここ一週間の様子を思い浮かべた。 正直、春は特段変わった様子は見せていなかった。 きっちりと仕事をこなし、松永に対しても普段と変わった様子は見せない。 むしろ、これまでより”壱川春”然と振る舞うように、隙を一才見せていなかった。 何かあったのか、と尋ねてもあの深夜の電話の時のように口調を変えるようなことはなく、何もないです、と、少し微笑んで言うだけだ。 「…そうね、特に変わった様子はないわ」 あまりに憔悴しきった様子の秋に一瞬躊躇ったが、松永はそのまま正直にそう伝えた。 すると秋は何度か小さく頷いて、そうして聞こえないほど小さな声で、そうですか、と言った。 松永は尋ねた。 「どうして喧嘩になったの?」 すると秋は少し躊躇った様子を見せた後、小さな声で話し出した。 「…俺が…悪くて」 「…何したの?」 「…中野さんって…いるじゃないですか、あの…ドラマの」 「…ああ、えっと…今撮ってる月9の?」 「そうです…その…中野さんと…その…春が、って…知ってますか?」 「…中学の同級生だったって話?」 「いや…じゃなくて…それ以外で、その…」 「何よ」 「…付き合ってた、らしくて」 松永はその言葉に少し驚いた顔を見せた。 しかしすぐに表情を戻し、それで?と言った。 秋が続けた。 「それで…そのことで俺が春に突っかかったっていうか…言わなくても良いことまで言っちゃって」 「言わなくても良いこと?」 そう言うと秋は俯いて、呟くように言った。 「…やめとけばよかった、って」 「…春と付き合うのを?」 「…はい」 「それは…何で?」 「…俺は…もともと春を好きになるまで、男の人を好きになるなんて思ってもなくて だから…春を好きになって、俺の中で…春は特別だって…そう思ってて 春にとっては、中野さんがそうだったんじゃないかって… …なんかそういう…そんなのってどうしようもないじゃないですか 春と中野さんがどういう経緯で付き合ったかもよく知らないのに色々言っちゃって …”俺じゃなくても男だったら誰でもよかったんでしょ”とか… そういう…性別とかのこと、どうしようもないのに 春がそういうの一番気にするっていうか…嫌だってわかってるのに あの時冷静になれなくて、それで… 付き合う前からずっと言われてて “秋はそうじゃないでしょ” ”だから踏み込むのはやめよう”って そういうの全部俺が押し切ってやっと付き合おうってなったのに こんなことで悩まないといけないならやめとけばよかった、って…言っちゃって」 そうして吐き出しながら、秋はボロボロと涙をこぼし出した。 しかし涙に意識がいかないのか、秋はそれを拭くこともしない。 ただ瞳から雫がこぼれ落ちて頬を伝い、そのままその涙はテーブルへと落ちて、小さな水たまりを作った。 松永はカバンからハンカチを取り出し、秋に手渡した。秋はそれに不思議そうに目をやった。 「…涙、拭いたら」 そう言われ、秋はああ…と小さく呟き、ハンカチを受け取った。 松永は尋ねた。 「それで春は何も言わず出ていったの?」 「何も言わずっていうか…俺がやめとけばよかったって言ったから…”今辞めれば””遅くないと思うよ”って…”もう終わりにしよう”って」 「…そう」 そうして松永はしばらく黙った後、言った。 「今瀬くんはどうしたいの?」 そう尋ねると、秋は表情を歪め、絞り出すような声で言った。 「…戻りたい あんなこと言う前に…戻りたい」 松永はその返答に小さくため息をつき、そして言った。 「…それは無理よ」 秋は嗚咽を漏らして俯いた。 松永は言った。 「別れたくないってことよね?」 「…はい」 松永はそんな秋をじっと見てから、静かに言った。 「…別に春も別れたいわけじゃないと思うけどね」 秋はそれに何も言わず、ただ俯いて嗚咽を噛み殺すようにして涙をこぼす。 「…話を聞いておいて申し訳ないけど…私には何もしてあげられない どこまでいってもそれは2人の問題だから、ね」 「……はい」 「ちゃんとご飯は食べなさい あなたも忙しくしてるんだから …あんな食事じゃ体壊すわよ」 秋はそれに小さく頷いた。 そうして秋がやっと落ち着いてから、松永は何かあったらすぐに連絡入れて、話くらいは聞けるから、と言い残し、家を後にした。 ―― そうしてぼんやりと2ヶ月前の秋とのやり取りを思い出している時、コンコン、と楽屋の扉が鳴り、松永はハッと現実に引き戻された。 はい、と松永は慌てて短く返事をし、急いでその扉を開けると、そこには他でもない、中野由緒(なかのゆい)がいた。 「春と少し話したいんですけど、良いですか?」 そう由緒は松永に尋ね、松永は春に視線を向ける。 春もこちらに視線を向けており、小さく頷いた。 そうして楽屋に入ってきた由緒は、そのまま元いたテーブル前に腰掛けた松永をチラリと一瞥した。 出て行ってと言わんばかりのその視線に松永は気付いていたが、知らないふりをしてそのままパソコンに向かった。 由緒は諦めたのか、また春に目線を向け、話し出した。 「今日の夜、暇?」 「…何で?」 「何でってつれないなあ、ご飯でも行かへん?って思って」 「…明日早いから」 「ええ?それはうちも同じやん」 「由緒も早く寝た方がいいと思うよ」 「じゃあうち来て一緒に寝たらいいやん」 「…何でそうなるの」 「てか何、何でまた標準語?春も染まったなぁ〜」 「…」 「あはっ、無視されたあ〜」 そう言ってコロコロと笑った後、由緒は言った。 「なあ…やっぱり、ほんまは怒ってるやろ?」 春はしばらく黙った後、静かに言った。 「…怒ってないよ」 「やってなんかあったんやろ?今瀬秋くんと」 SNSで大騒ぎやで、と由緒は楽しそうに言い、続けて春に尋ねた。 「うちが原因やろ?」 でもなあ、と由緒は続けて言った。 「そういう約束やったやん?」 すると春は静かに言った。 「…そうだね」 そう静かな春の返答に、由緒は嬉しそうに笑い、そうして言った。 「…覚えてるんや」 そうして由緒は腰掛けていた椅子から立ち上がり、言った。 「話したいことあるねん 続きは今日の夜、うちで話そう」 すると春は小さくため息をつき、諦めたようにうん、と言った。 そうして由緒は松永に軽く頭を下げ、嬉しそうに楽屋から出ていった。 春は先ほどと変わらず、ただ椅子に座ってじっとして、表情も変えずいつもの様子だ。 正直、共演中である注目の若手女優の家に行く、というのはマネージャーとして見過ごせないことだ。どうやって苦言を呈そうかと言葉を探していると、春が突然声をかけてきた。 「…あの」 思わず松永はびくりとするが、表情を取り繕い、何、といつもの様子で返答した。 すると春が静かな声で尋ねた。 「…何かあったんですか」 「何か、って?」 「…さっき、SNSで大騒ぎって言ってたので」 「ああ…」 秋のことか、と、松永は少し迷ってから、言った。 「…おとといとかそれくらいにライブで急に新曲をやったみたいで、それが…」 春はただじっと松永を見つめている。 松永は言った。 「…あなたとのことを書いたんじゃないかって」 そうして松永はパソコンで動画サイトを開き、アップロードされている話題の秋のライブでの新曲披露の動画を検索し、それを春の前のテーブルにそっと置いた。 「…気になるなら見てみれば?」 松永がそう言うと、春はパソコンの画面に向けていた視線をそっと外し、言った。 「…いいです」 松永はその春の返答に面食らうが、春の気持ちを確かめるように尋ねた。 「…何かあったのかって聞くくらいなのに?」 すると春は言った。 「…大騒ぎっていうので、本当に何か起きたりとか…それだけ気になっただけです」 松永はその答えに何か本心を探るようなことを言おうかと少しの間迷ったのだが、ふと見た春の表情があのいつもの”壱川春”の表情ではなく、ただ1人の青年らしい素の表情が垣間見えるような、迷いやためらいを含んだような表情であったので、思わず黙り込んだ。 そうして松永は、静かに尋ねた。 「…本当にいいの?」 「はい」 「動画のことじゃないわよ」 すると春は何度か瞬きをして、スッと微笑んだ。 そうして何か発しようとした時、松永は言った。 「”壱川春”に聞いてるんじゃないわよ、あなたに聞いてるのよ」 松永のその言葉に表情を変えず微笑んだまま固まった後、春はふっと微笑むのをやめ、そうして目を伏せ、じっと黙り込んでしまった。 松永は言った。 「…別れたって聞いたけど…まだ好きなんでしょう?」 すると春は独り言のように、小さな声で呟くように言った。 「……好きですよ」 「だったら…」 松永のその言葉を遮るように、春が言った。 「…思い出したんです」 「…え?」 「全部いらないと思って捨てたんです、もう…ずっと前に」 春は続けて言った。 「完璧とか…そういうのってないですよ でもなるべくそうやって見えるように、”壱川春”でいるために、ただ取り繕ってるだけです そのためにいろんなこと、いろんなもの、いらないと思って捨てたんです 幸せとか…そういうのって、そういえば…いらないって捨てたものだったなって」 松永がそれに答えようとしたその時、コンコン、と扉を叩く音がした。音に続いてすぐ、ドラマスタッフが顔を出し、壱川さんお願いします!と元気よく言った。 春はそれにはい、と返事をして、いつもの微笑みを浮かべて立ち上がった。 そうして再び松永と目があっても、先ほどの表情はつゆとも見せず、”壱川春”としての微笑みを浮かべ、楽屋を後にした。

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