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第2話 中野由緒
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由緒 が春 と初めて話したのは、中学一年の秋のことだった。
中学に入学した時からすでに完成されたその恐ろしいほど美しい容姿は地元京都の学校では飛び抜けて目立ち、加えてすでに芸能活動を始めていた春は、学校中の有名人で、常に取り巻きがいるような人気者だった。
生徒や教師、はたまた生徒らの親たちからも――誰からも特別視され、友達の会話でも常に話題が上がる春のことを、由緒は最初、あまりよく思っていなかった。
誰からも特別にされるくせに、誰のことも特別にしない。
何もかもプログラムされたロボットのようにいつもお決まりの返答しかしていない春のことを、面白くないやつだ、腹の底で何を考えてるのか分からない、そう思っていたのだ。
それに、春を特別視する生徒たちへも、毎日繰り返される春の話題にもすっかり飽き飽きしていて、そうして日々を退屈にする春を疎ましくさえ思っていた。
そんな春への見方が変わったのは、中学一年の夏休みが終わってしばらくした、秋の夜のことだった。
――
由緒が毎晩の日課である飼い犬のコタロウの散歩をしていた時のことだった。
その日いつもよりも少し遅い20時ごろにコタロウを連れ、そしていつもは通らない道を選んで、少し冷えてきた秋の空気を感じながら、少しゆっくりと歩いていた。
ただ偶然が重なっただけだった。
部活動が少し伸びた、宿題が少し多かった、なんとなくそんな気分だった、そういう幾つもの偶然の理由が重なっただけ。
そうして慣れない道をコタロウと歩いていると、突然、続く道の少し先のアパートから、突然勢いよく人が飛び出してくるのが見えた。
そうしてその人影は倒れ込むようにその場にしゃがみ込み、動かなくなった。
由緒はその突然の出来事に驚き、そして少しの恐怖を感じ、すぐ目の前にあった自販機に咄嗟に身を隠した。
じっと目を凝らし、その人影の動きを確認する。
しかし人影はぴくりとも動かない。
由緒が少し身を乗り出すようにした時、握りしめていたコタロウのリードが、手から滑り落ちてしまった。
慌てて拾おうとしたが、その時にはすでに遅く、コタロウはタタタ、と軽快にその人影に向けて走り出した。
「ちょ…コタロウ!」
そう小声で呼びかけるもまるで意味がない。
由緒はまだ残る恐怖感でまた自販機に身を潜め、様子を伺った。
そうしてコタロウはその人影に飛びついて、その人がこちらに向けてパッと顔を上げた時、思わず由緒は目を見開いた。
少し遠くからでも、ハッキリとわかった。
間違えようがない、あんな顔、と、由緒は思った。
そうして、由緒はふっと息を吐いて強張っていた身体の力を抜き、そっとその人に歩み寄った。
そうしてその人に声をかけようとした時、由緒は再び目を見開いた。
その人――――壱川春 が、泣いていると分かったからだ。
こちらを見上げる春の頬は涙に濡れ、その長いまつ毛には光の粒のように雫が纏っていた。
そうしていつものおきまりのデフォルトのような表情ではなく、春はただ驚いたような顔をしていた。
2人の視線が交差してすぐ、春は顔を隠すように再び俯いた。
そうして着ていたシャツの袖でそっと涙を拭い、ゆっくりと立ち上がった。
再び由緒にその顔を向けた時には、まるで何もなかったかのように、春はいつもの表情をして微笑んだ。
その表情を見て、由緒はぶっきらぼうに言った。
「…なんで笑うん?」
すると春は微笑んだまま、パチパチと何度か瞬きをした。
そうして、少し視線を落とした。
由緒は続けて言った。
「…あんたって、人間やったんやな」
「…人間?」
「…いっつもおんなじような顔してて、感情とか無いんかと思ってたわ」
由緒はそう言ってから、床に落ちていたコタロウのリードを拾い、そうして春に差し出すように手を伸ばした。
春は一度由緒の表情を伺うようにして視線をやったあと、しかし黙ってそのリードを受け取った。
そうして由緒はそのまま黙って歩き出し、春もコタロウを連れて後に続いて歩き出した。
この辺りはこの時間になると人通りもなく、2人と1匹の足音だけが響いていた。
そうして何十分も黙ったまま歩いているとふと、由緒が声を上げた。
「…迷った」
「えっ…?」
「迷った、いつも通らへん道やから」
「……ああ…えっと…家はどの辺?」
春は少し驚いた顔をしつつも、由緒にそう尋ねた。
「ミハマスーパーの近く あの3階にゲーセンあるとこ 分かる?」
「分かるよ」
「ほな連れてって」
「…うん」
そうして今度は春が少し前を歩き、由緒がそれに続いて歩いた。
由緒はふと、前にいる春の後ろ姿に目をやった。
その時やっと、春の着ているシャツの異変に気付いた。
春のシャツは何故かひどく濡れていて、背中は大きく透けて見えるほどだった。
すでに少し肌寒く、きっと濡れたままの服ではかなり冷えるだろう。
由緒は尋ねた。
「…なにその服」
そう尋ねると、春がふっと顔だけをこちらに向けた。いつもと同じような微笑みを浮かべ、しかしなにも言わず、すぐに顔を前に向き直した。
すぐに現れた信号で立ち止まり、由緒は再び春に視線を向けた。
そうして目を見開いた。
春の着ていたシャツの前のボタンはいくつも外れ、ほとんどはだけていたからだ。
オシャレな着こなし、とは決して言えないもので、それは春が泣いて飛び出してきたその理由と深く関係があるのだろう、と由緒は思った。
由緒は徐に着ていたパーカーを脱ぎ、春に押し付けるように手渡した。
春は少し驚いた様な顔をした後また微笑んで、静かに言った。
「ありがとう、でも、大丈夫」
由緒はしかしそれを無視して再び強くパーカーを差し出して言った。
「セクハラやで、それ 人すれ違ったら通報されるで」
そう言われ、春は少し迷ったような表情を浮かべ、そうして由緒の表情を伺うように視線を向けた。
由緒はそれにぶっきらぼうに言った。
「その顔でなんでも許されるって思ってたらあかんで」
由緒がそう言うと、春はじっと由緒を見つめた後、ふっと小さく吹き出すように笑った。
そうして、ありがとう、とパーカーを受け取り、それを羽織った。
しかし由緒にぴったりのパーカーは春には小さく、ぴったりと押し込まれたようにパーカーに身を包んだ春のその様に由緒は思わず吹き出して笑った。
春は困ったように眉を下げ、そうしてじっと由緒が笑う様を眺めた。
由緒は笑ったまま言った。
「細いし行けるかなと思ってんけどな、あはは 袖とか七分丈になってるやん」
「…やっぱり…伸びちゃうし…」
そう言ってパーカーのジップに手を伸ばした春に、由緒は声を上げる。
「あかんで、人の善意を無碍にせんといて」
そうして春は渋々と言った様子でジッパーから手を離し、そうして何度もチラチラと春を見ておかしそうに笑う由緒と共に、再び歩き出した。
そうしてしばらく歩いてたどり着いたのは、古く汚い小さなアパートだった。
由緒はそのままアパートの一室に向かって歩き出し、春はそんな由緒に声をかける。
「あの…中野さん」
由緒はその声に振り返り、ニヤリと笑った。
「…名前知ってたんや」
「……同じクラスだし…」
「来て、それで帰ったら町の笑いもんにされるやろし」
「…でも…」
「いいから うち誰もおらんから、ほら」
そうして春は少し躊躇いながらも、由緒の言葉通り、由緒の後に着いて由緒の開けたドアから部屋に入った。
パチン、と由緒が玄関先のスイッチをおすと、少し遅れて部屋の電気が点灯した。
そうして照らされた部屋はこじんまりとして物はほとんど何もなく、ただ床に広げたままの小さな布団がひとつ、置かれているだけだった。
「…ああ、あったあった、ほらこれ」
そう言って玄関先でコタロウを抱えたまま立ちすくんでいた春に、由緒は部屋の奥の押し入れの段ボールからグレーのトレーナーを取り出してきた。
そうしてトレーナーと交換のようにコタロウを受け取り、慣れたように玄関先に置いていたウエットタオルでコタロウの足を素早く拭き、コタロウをすとんと部屋に入れた。
「中で着替えれば?」
そうして春は躊躇いを見せたがしかし静かに頷き、お邪魔します、と小さな声で言った。
「洗面所ここな って…まあ洗面所って言うかもうお風呂場やけど」
春は由緒の言葉に小さく微笑んだ後、素直に従ってドアを開けてすぐ洗い場になっている風呂場で、由緒に先ほど借りたパーカーと着ていたシャツを脱ぎ、新たにトレーナーを羽織った。
トレーナーはすでに170cmを超えていた春でもまだ少し大きいほどのサイズで、由緒のものとは到底思えない物だった。
着替えを終えて春が風呂場を出ると、由緒は床にひいた布団の上にちょこんと三角座りのように腰掛けていた。
そうしてじっと春を見上げ、言った。
「ええやん、それあげるわ」
「あ…いや、洗って返すよ」
「いいよそれ、うちのじゃないし」
「…じゃあ尚更…」
「いい、いい …もうこの家に住んでへん人のやし いらんかったら捨てて」
そう言って由緒は立ち上がり、玄関側のキッチンへ向かった。
「なんか飲む?まあお茶しかないけど」
「…大丈夫」
「そう」
「…じゃあ、帰るね」
「うん」
「また明日」
「うん」
「ありがとう」
「いいって」
そうして短い言葉のやり取りの後、春は静かに部屋を出ていった。
――
翌日、いつものように由緒が登校して教室に向かい廊下を歩いていると、向かい側から春が歩いてくるのが見えた。
いつもの取り巻きはおらず珍しく春は1人で歩いていて、由緒は昨夜のこともあったので何か声をかけようかと立ち止まった。
しかし、春はそんな由緒には目もくれず、まるで何も見えていないという様子で、あっという間に由緒の横を通り過ぎて行ってしまった。
「…感じ悪いやつやな」
由緒は小さくつぶやいた。
が、まあどうでもいいか、と何事もなかったかのようにそのまままた教室に向かい歩き出した。
そうしていつもと変わらない一日を過ごし、あっという間に放課後になった。
その日運悪くクラスの日直だった由緒は、1人残り、日誌を書いていた。同じく日直だったもう1人の生徒はごちゃごちゃと理由を並べて雑務を由緒に押し付け、とっくに帰っていってしまった。
次第に人がいなくなる教室で、由緒は特に急ぐ理由もなかったため、だらだらとその日誌を書いていく。
どうせなら宿題もやって帰ろうか、と、そうして由緒が校舎を出たのは、授業が終わってから2時間ほど経った頃だった。
秋に入ってすっかり日が落ちるのが早くなり、すでに外は暗くなっていた。
校門を出ると冷たい風がビューっと吹き抜け、由緒は思わず身体を縮こまらせた。
そうして由緒が歩き出して少し進んだ頃、小さな足音と共に背後から声がした。
「中野さん」
由緒が振り向くと、そこには春がいた。
咄嗟に追いかけてきたのか、春は少し肩で息をしていた。
そうして春は持っていた紙袋を由緒に手渡すようにして差し出した。
「…なに?」
由緒が怪訝にそう言うと、春はいつもの表情で言った。
「昨日借りた服、ありがとう」
「…返さんでいいって言わんかったっけ?」
「申し訳ないから」
「いらんかったら捨ててって言ったのに」
「流石にできないよ」
由緒は春の様子を伺うように視線をやった後、そう、と短く言い、そうして袋からトレーナーを取り出してそれを羽織った。
「まあ…ちょうど寒かったし良かったわ」
由緒がぶっきらぼうにそう言うと、春はそっと微笑み、そっか、と短く返事をした。
由緒は言った。
「…何、もしかして待ってたん?」
「…そんなことないよ」
「なんで嘘つくねん じゃあこんな時間まで何してたん?」
「んー…」
春がそう言いながらふっと目を伏せた。
由緒は言った。
「学校で渡せば良かったのに」
由緒がそう言うと、春は少しの間を置いてから、言った。
「…迷惑かけちゃうかなと思って」
「…迷惑?」
由緒が不思議そうにそう返すと、春は再び少し笑い、じゃあ僕あっちだから、とそのまま由緒の家とは逆方向へ歩き出してしまった。
「…迷惑ってなんやな」
由緒はそう呟き、再び吹いた冷たい風に身震いして歩き出した。
そうして、春が言った"迷惑"の意味は、割とすぐに分かった。
翌日教室に向かうと、普段話すことのない目立つ女子生徒らが由緒に妙に親しげに話しかけてきた。
"昨日壱川くんと話してたみたいだけど何で?"と言う彼女らに、なんで知ってるんや、と思いつつも、由緒は正直に理由を述べた。
一昨日服を貸してその服を返してもらったから、と理由を言うと、話しかけてきた女子生徒らは互いに目を合わせた。
そうして"仲良いの?"と続けて尋ねられ、由緒は別に、と言ったのだが、その返答にはあまり意味がなかったようで、その日から由緒は分かりやすく嫌がらせをされるようになった。
靴を隠されたり、由緒がいない間に机にゴミを置かれたり、わざと聞こえるように悪口を言われたり、学校中で妙な噂を流されたり。
そしてこれまで仲の良かった友人でさえも由緒とは口を聞いてくれなくなり、1週間も経つ頃には、学校には由緒の居場所はすっかり無くなった。
それでも由緒はくだらない、とそれに反応しないようにしていたのだが、それでも心地良いものではなく、そうして昼休みは逃げるように教室から出て、現校舎のすぐそばにある、今や誰も使わない旧校舎建物の教室に逃げ込むようになった。
旧校舎建物は誰か言い出したのか、奇妙な心霊の噂があり、誰も寄り付かない。
幽霊なんかより生きてる人間の方がよっぽど怖いやろ、と、由緒は前々からあまり間に受けていなかったのもあり、そこに逃げ込むことにしたのだ。
旧校舎は妙に埃っぽく、そうして廊下は掃除もろくにしていないためか校庭の砂が散らばっていて、歩くたびにざらざらと音を立てた。
早く取り壊せばいいものの、そうはいかないのだろう。
そうして由緒は足を引き摺るようにして歩く。
ざらざら、ざらざら。
そんな音だけを聞いて由緒が歩いていると、ガシャン、と遠くで扉が開く音がした。
由緒はそれに思わずびくりとした。
心霊など信じていないとは言えど、突然の音には誰だってびっくりする、と、由緒は1人心で言い訳をして、足早にその場から去ろうと走り出した。
が、床に散らばった校庭の砂のせいで足がもつれ、由緒はすっ転んでしまった。
恐怖で痛みすら感じず、しかし由緒はそのままうずくまり動けずにいると、近づいてきた足音がふっと止まり、そうして人影らしきものが近くでしゃがみ込んだ後、声を発した。
「…大丈夫?」
妙に聞き覚えのあるその声に恐る恐る顔を上げると、そこには心配そうな表情を浮かべた春がいた。
由緒は思わず春を睨みつけ、バシンと春の方をはたいた。
かなり強い力で叩いたのにも関わらず、春はびくともせず、しかし驚いたのかパチパチと瞬きをして、再び大丈夫?と尋ねた。
「…大丈夫なわけないやろ」
そうぶっきらぼうに由緒が答えると、春はスッと手を差し伸べた。
由緒は再びギリッと春を睨みつけたものの、それでも心配そうな表情を浮かべたままの春に絆され、しかしなんだか悔しくて、その手をぎゅっとつねった。
春はそれでも表情を変えることはなく、由緒は再びぶっきらぼうに言った。
「…あんたのせいやで」
「ごめんね」
春はそう言って、立てる?と優しく由緒に尋ねた。
由緒は立てるわ、と言って春の手を払い、1人立ち上がった。
そうしてしゃがんだままの春は由緒の膝をじっと眺め、傷が無いか確認しているようだった。
それを分かっていながらも、由緒は言った。
「変態、じろじろ見んといて」
すると春はパッと視線をあげ、ごめん、と再び由緒に言い、スッと立ち上がった。
「…ごめんね」
「最悪」
「……うん、ごめんね」
「ごめんねごめんねってうるさいわ」
そうして由緒は再び歩き出したが、ふと立ち止まり、春に尋ねた。
「…あんたここで何してんの?追いかけてきたん?」
「…あ、いや…昼休みはいつも来てて」
「は?なんで?」
「…なんで…って…誰もいない…から」
「…何それ、なんで?」
「…んー…」
そう言って視線を落とした春に、由緒はええわ、と言い、そして尋ねた。
「ほなここ詳しいんちゃうん?いい空き教室ないん?」
すると春はポカンとした表情を浮かべた後、いつものような微笑みに表情を戻し、あるよ、と言った。
そうして春は再び大丈夫?と由緒を気遣うような言葉をかけた後、ゆっくりと歩き出した。
由緒もそれに続いて歩き出す。
そうして春が向かったのは、元図書室だったんだろうと言うような、そんなだだっ広い教室だった。
本はすでに新校舎に移動されたのかただ本棚だけが置かれていて、埃が積もっている。
教室中央には広いテーブルが置かれていて、春はそのテーブルを指差し、言った。
「テーブルは拭いたから綺麗だよ」
「…そ」
そうして短い返事をした後、由緒はテーブル側の椅子に腰掛けた。
じゃあ、と言って去ろうした春に、由緒は言った。
「何、あんたもここに用事あって来たんちゃうん?」
「…用事っていうか…」
「別にいたらいいやん」
「…うん」
そうして春も少し離れた席に腰を下ろした。
由緒は持ってきていた弁当を広げ、食べ始めた。春はただ目を伏せて、じっとそこにいる。
由緒は嫌味の一つでも言ってやろうと、春に話しかけた。
「あんたのせいでぼっち飯やわ」
そう言うと春はパッと視線をあげ、そうして由緒の表情を窺うような視線を向けた後、静かに言った。
「…ごめんね、迷惑かけて」
由緒は言った。
「何のことか分からんかったけど、こういう迷惑やったんやな」
そうしてまた俯いた春をじっと眺めた後、由緒は言った。
「…まあ別に、うちのせいやし
…あんたはこうなるって思って気ぃ使ってくれてたんやろ?」
「…中野さんのせいじゃないよ」
「…まあコケたんはあんたのせいやけど」
「…ごめんね、先に声かければよかった」
「……あんたもう食べたん?」
「え?」
「お昼ご飯」
「ああ…まあ…」
「まあ?まあって何?」
「…昼は基本食べないから」
「え?何で?」
「…眠くなるから」
「眠くなるから?ご飯食べたら?」
「うん」
「何それ?……変やな、あんた …お腹減らへんの?」
「減るよ」
「…はあ?変やなほんま」
由緒が心底信じられない、と言った様子でそう言うと、春は小さく笑った。
その微笑みはいつも春が浮かべているような微笑みとは少し違い、何となく、人間らしいものだ、と由緒は思った。
そうしてその春の表情で由緒はふと思い出したように、春に尋ねた。
「なんで泣いてたん?あの日」
すると春は少し言い淀むような仕草をしてしばらく沈黙した後、静かに微笑んで言った。
「…好きだった人に振られて」
その答えに由緒は思わず眉を顰め、尋ねた。
「…振られた?あんたが?」
春はそれにふっとまた微笑みを浮かべた。
由緒は続けて尋ねる。
「…何したん、あんた」
「何したって?」
「相当なんかせえへんと振られへんやろ」
「…そうかな」
「そうやろ」
由緒が怪訝な顔でそう言うと、春は、はは、と小さく声をあげて笑った。
由緒はさらに怪訝そうな顔で尋ねた。
「…何笑ってんの?」
「…いや…だって」
「何?」
春は微笑んだまま、言った。
「中野さんは僕に告白されても断るでしょ?」
由緒はその春の問いに、さも当然かのように言った。
「まあ、そうやけど」
由緒がそう言うと、春はなぜか嬉しそうにまた微笑んだ。
由緒は言った。
「…なんで嬉しそうやねん
…そもそもあんたはうちに振られる理由あるやろ、こんな仕打ちにあわせたんやから」
すると春はそうだね、と言ってから、再びごめんね、と申し訳なさそうに由緒に謝った。
由緒は謝る春にぶっきらぼうにええわ、と呟き、再び弁当を食べ始めた。
そうして由緒が弁当を食べ終わる少し前、春はゆっくり立ち上がり、そろそろ行くね、と、由緒を残し、教室を後にした。
――
それから由緒と春は、特に約束もしていないのだがなんだかお決まりのように、昼休みになると旧校舎の図書室に集まるようになった。
由緒はお弁当を食べ、春は由緒とは少し離れた席にただ座り、由緒が話す何気ない話題で会話する。
そうして由緒が食べ終わる少し前に、春はいつも先に教室を出て行った。
"誰もいないから"と言ってこの旧校舎に来ていたはずだった春だが、決まって由緒がいるであろうこの図書室に静かに現れ、特段何をするでもなく、ただ由緒の話し相手を務めていた。
由緒はそれを"迷惑"の罪滅ぼしのつもりなのかと思ったりもしていたが、特にそれを言い出したりもしなかった。
それは毎日20分間にも満たない時間だったが、毎日繰り返していくうちに2人の仲は自然と打ち解けていった。
季節はすっかり春に差し掛かり、2人は中学二年に進級していた。
進級してからも由緒への嫌がらせは執拗に続いていて、春は相変わらず学校中の人気者として注目を浴びる日々だった。
その日、春はいつもより少し遅く教室に現れた。
それは度々間隔をあけて訪れるもので、由緒はその理由をその頃にはすっかり理解していた。
そうして由緒は面白がるように、遅れて現れた春に声をかけた。
「これで何人目?」
すると春は相変わらずな微笑みを浮かべ、数えてないよ、と言った。
由緒はそれに応えて言う。
「覚えてない、の間違いやろ」
春はそれに肩をすくめた。
由緒は尋ねた。
「どんな子やったらいいん?」
春は言った。
「どんな子って?」
「タイプとかないん?」
ふふ、と春は微笑んで、そして由緒に尋ね返した。
「中野さんはあるの?タイプ」
そう問われ、由緒は少し考えたあと、言った。
「…人間は嫌やな」
すると春ははは、と小さく吹き出してから言った。
「人以外がいいの?」
「うん 犬とか」
「あ〜」
「コタロウは彼氏みたいなもんやし」
春は由緒のその言葉に、かわいいもんね、と言って微笑んだ。
そうして由緒は春に尋ねた。
「どんな人やったん?好きやった人」
すると春はそっと由緒から視線を外し、微笑んで目を伏せたまま、言った。
「どんな人って…難しいね」
「難しいか?あるやん、髪の毛長いとか、短いとか」
「はは、見た目の話?」
「見た目でも、中身でもいいけど」
そうしてんー、と春は悩んだあと、ふっと由緒を見て、言った。
「中野さん…みたいな人だったよ」
由緒はその言葉に、え?と声をあげた。
「…うちみたいな人?…見た目が?」
「ううん、中身が」
「中身?どういうとこが?」
すると春はふふ、とまた微笑んで、言った。
「僕に期待してないところ、とか」
「期待?」
「僕がなにを言っても、それにがっかりしないでしょ?」
「がっかり?…は、せんけど」
「大体の人は、僕に言って欲しいことがあって、正解があって、それで色々聞いてくれるんだけど…中野さんも…その人も、そういうのないから」
由緒はその答えに、何となく、春と話すようになるまでの春の様子が腑に落ちたようだった。
いつも浮かべている決まった微笑みも、テンプレートのような返答も、それは全て人々が求める春を出力しているだけで、春自身の考えや感情とはまた別のものだったのだろう。
「何を考えているのか分からない」と由緒が思ったのは、春に求める理想像が無いからで、理想像がある人間はきっと、春が出力する理想通りの春にただ喜んで、"期待通りの人だ"と安心し、その先の本心に気付きもしないで、そして知ろうとなんてしないのだろう。
由緒は尋ねた。
「なんで正解を出そうとするん?」
そう尋ねられ、春は由緒を見て何度か瞬きをしたあと、目を伏せ、そしてその顔に似合わず、自信なさげな表情でぽつりと言った。
「…がっかりされたくないのかな」
「なんで?」
「んー…」
「人に好かれたいん?」
「好かれたいっていうか…普通でいたい、のかな」
「普通?」
「好きでも嫌いでもない、みたいな 何でもない…普通の人でいたい、のかな」
春のその返答に、由緒は思わずふっと笑みをこぼした。春は不思議そうに由緒を見ている。
由緒は言った。
「いや、普通じゃない自覚はあるんやって思って」
すると春は少し肩をすくめ、そっと目を伏せた。
"特別"な春が、"特別"だと思った、その相手に、由緒は俄然興味が湧いた。
由緒は欲のまま、再び尋ねた。
「なんで振られたん?」
春は小さく笑って、傷抉るね、と言ったあと、微笑んだまま、言った。
「そういうふうには、見れなかったんだと思うよ」
「そういうふうって、恋愛的にってこと?」
「うん」
「…めっちゃ年上やったとか?」
そう由緒が尋ねると、春はふふ、と笑いをこぼした後、言った。
「あー…まあ、めっちゃではないかもしれないけど」
「何歳?」
「19…だったかな」
「19?じゃあー…5個上?そんな…あー…でもまあ…大学生かー…やったらまあ…相手からしたら…ガキかぁ…?」
そう言って頭を抱えるような仕草をした由緒を、春は可笑しそうに眺めている。
すっかり砕けた様子を見せる春に絆され、由緒はそんな春の肩を小突き、力強く言った。
「こっから勝負なんちゃうん?」
不意に小突かれ、ぐわんと身体を揺らした春は、不思議そうに尋ねた。
「…こっから?」
「そう、こっから!もうちょい大人なったらな、5歳差なんてザラやって!これは長期戦やと思うわ」
由緒がそう息荒く言うと、春は再びふっと微笑んで、言った。
「そういうのじゃないと思うよ」
「そういうのって?」
「年齢とかあんまり関係ないと思う」
「なんでそう思うん?」
由緒がそう尋ねると、春は少しの間じっと由緒を見つめた後、ふっと目を伏せ、そうして間を置いた後、再び視線を由緒に戻し、静かに言った。
「その人、男の人だから」
由緒はその言葉の意味の解釈に少し時間を要し、そうして何秒か黙った後、呟くように言った。
「…男?」
そう由緒が尋ねると、春は目を伏せたまま、ただ瞬きを繰り返した。
由緒は再び尋ねる。
「あんた、男が好きなん?」
春は表情を変えることなく目を伏せたまま、そうだよ、と小さく頷いた。
そうして由緒はしばらく黙った後、グィッと眉を顰めた。
そうして、言った。
「…だからって年齢、関係なくはないやろ」
その言葉に、春はふっと視線をあげ、由緒に視線をやった。
由緒はそれに構わず、続けて言った。
「5歳は5歳やで、男も女も年齢差は変わらんで」
え、と春が短く声をあげたが、由緒は続けて言った。
「なんて言われたん?」
「え?」
「振られる時、男やから無理とか言われたん?」
「……まあ…大体…そんな感じのことは」
「…あー…
…じゃあ無理なんかもな、どんまい」
そうあっけらかんと由緒が言うと、春はポカンとした表情を浮かべた後、ははっと吹き出して笑った。
由緒は可笑しそうに笑い続ける春を訝しげに眺めてから、言った。
「何笑ってんねん」
そう言ってもあはは…と何度も笑い返す春に、由緒は怪訝そうな顔を浮かべた。
そしてそのままの表情で、由緒は尋ねた。
「何でその人のこと好きなったん?」
「きっかけ?」
「そう」
「…んー…気付いたら好きだったから」
「いつ気付いたん?」
「…褒められて、嬉しかった時」
「褒められて?何それ?…小学生みたいやな」
由緒がそう言うと、春はまた、あははと小さく笑った。
「なんて褒められたん?」
「綺麗な顔してるなあ、って」
「…はあ?そんなんあんた、言われ慣れてるやろ」
「…その人に言われたのが、嬉しかったんだよ」
「他の人に言われても何も思わんかった言葉が、その人やと嬉しかったってこと?」
「うん」
「…へえ…」
そうしてふと腕時計を見て、由緒は大きな声をあげた。
「…やば!待って、授業始まってる…!」
すると春はふっと微笑んで、だね、と言った。
由緒は詰め寄るように尋ねた。
「何?気付いてたん?!言うてよ!」
「ベル鳴ってたよ」
「は?そん時言ってよ」
ふふ、ごめんね、と春はちっとも申し訳ないような感じは見せず、ただ微笑んで言った。
「…先戻れば」
由緒がそう言うと、春は少し瞬きを繰り返した後、言った。
「…サボろうかな」
由緒はその言葉に少し驚いた。
春が遅刻などをしているところは見たことがなく、いつもちゃんと授業を受けているからだ。
しかし春のその言葉に由緒もふっと息を吐き、じゃあうちも、と言った。
そうして席についてから、再び話題を戻し、由緒はずっと、気になっていたことを聞いた。
「あの日、なんでシャツあんなんなってたん?」
春が泣いていたあの日、春の着ていたシャツはひどく濡れて、そうして前のボタンはほとんど破けて取れていた。
由緒はそれがどうしてなのか、あの日からなんとなく気になっていた。
春はその問いを受けて目線を静かに外し、そうして目を伏せて何度も瞬きをした。
そして春はそれからじっと何も言わず、由緒もそれ以上何も尋ねることはしなかった。
そして気付けば遠くでベルがなる頃、春はゆっくりと立ち上がり、ふっと微笑んで、また明日、と短く言い、教室を去っていった。
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