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第3話 由緒と春

中学2年の夏休みが終わり、季節はすっかり秋になった。 夏休みに入ってから、由緒は春と一切連絡を取っていなかった。 そもそも普段から連絡を取ることは一度も無かったし、学校が無いとなれば尚更だ。 それに、連絡を取らなくとも春の様子は日々テレビで確認することが出来た。 というのも、夏休み期間、春はとある大型アイドルプロジェクトの公開オーディションに参加しているらしく、そのオーディションの模様は毎朝の情報番組の特別コーナーで日々放送されていたからだ。 いつもの同級生らに向けるような、精密にプログラミングされたような隙一つない笑顔を浮かべて春は画面に映っていて、それは由緒と過ごすいつもの春とは別人のようだ、と、由緒は思っていた。 由緒は春とのほんの些細な関わり――たまたま遭遇して春に服を貸したこと――が同級生らにバレてしまったのが原因で、同級生の女子らから嫌がらせを受けるようになった。 そのいじめのせいで居心地が悪くなった部活動もやめてしまい、もちろんそんな状態で遊びの予定など入るわけもなく、夏休み中はただ家でじっとやり過ごして、日が落ちてからコタロウの散歩に出かけること、そして、春の出ているオーディション特集を見る、ということが毎日の習慣になっていた。 特集コーナーの最後には、毎日決まって視聴者投票によって構成された候補生らのランキングが発表される。 接戦を繰り広げる他の候補生らとは違い、春は頭一つも二つも抜けるほどの票数を獲得し、常にランキング1位に君臨していた。 地元じゃ特別、というのだけではない、全国放送のこんな番組でも、春は特別なのだ――――なんとなくそれを当たり前だと思っている自分もいながら、しかし少し不思議な感覚もあった。 春は今、この状況をどう思っているんだろうか。 いつものように揶揄って尋ねてみたい、と由緒は思った。 そうして春がどんな顔で何と返事をするのか、由緒は興味が湧いた。 けれど、そうして連絡を入れてみようか、なんて思っても、何となく理由をつけては、それをしなかった。 由緒は中学生でありながら1人で小さなアパートで暮らしている。 それは由緒の家庭環境がお世辞にもいいものとは言えないからであった。 由緒の両親は幼い頃に離婚し、由緒は経済力のあった父親に引き取られた。 しかしすぐに父親は再婚し、新しい妻は父との子供を身籠った。 離婚した時期から逆算すると全く辻褄が合わないものであったことも、母が父に不倫だの叫んでいた意味も、当時まだ幼い由緒はあまり分からず、ただ、母との別れを寂しいと思う間もなく、新しい母親としてすでにお腹を大きくした女性が現れた。 由緒はその新しい家族に馴染むのに精一杯尽力した。 しかし、子供が生まれてその子供らが人間らしく言葉を話すようになった頃、父は由緒と由緒の姉を住まわせるためのこのアパートを借りた。 耳障りのいいようなことだけを父は言っていた。 これは由緒と由緒の姉のためなんだよ、なんて言っていた気もするが、正直ほとんど覚えていない。 ただ、自分たちは父や父の新しい家族にとっては邪魔なのだろう、というのはなんとなく感じていた。 けれど、由緒も由緒の姉も、新しい母親とは随分そりが合わなかったし、むしろ2人にとっても新しい父の家族と離れ、このアパートで暮らすのはとても都合の良いことだった。 毎月決まって生活費は振り込まれ、それは2人で暮らすには大層多く、生活に困ることもなかった。 由緒の姉は由緒より4つ年上で、この家に住み始めた頃にはすでに高校生になっていた。 が、高校にはほとんど通っていない様子で、最初の頃はほとんど家には帰って来ず、毎晩どこかで遊び呆けているようだった。 そうしてしばらくして、ある日姉は突然男を連れて帰宅してきて、二人暮らしは三人暮らしに変わった。 しかしとあるいざこざがきっかけで、家の中をめちゃくちゃにするほどの大喧嘩をした挙句、姉と男はそれぞれ別々に出ていってしまった。 姉はそれっきり、もう何年も帰ってきていない。 本当の家族と暮らしていた時期も、父の新しい家族と暮らしていた時期も、そして、姉と姉の彼氏と暮らしていた時期も、いつだって由緒には自分の居場所だと言えるような場所はなかった。 姉が出ていってからコタロウと暮らすようになった今の暮らしはとても穏やかだった。 けれど、とても退屈だった。 退屈の延長線上にはいつも、ほんの少しの寂しさを感じてしまい、由緒はその気持ちをかき消すように、ことあるごとに、思うようになっていた。 私は一人で生きていける。 一人で生きていける、強い人間なのだ、と。 一人を心地良いと思えることが強くいられることだと、由緒は思っていた。 学校での居場所のなさも、由緒にとっては慣れっこだった。ただとても、退屈なだけ。 友達がいなくても、それを寂しいと思っても、由緒は"1人で生きていける強い人間なのだ"という自負があった。 だから、平気だった。 しかしいつからか、春によってその退屈と寂しさは誤魔化されるようになった。 一日ほんの数十分、何気ないやりとりを楽しいと思っていることに、昼休みを楽しみにしていることに、由緒はその時、まだあまり気付いていなかった。 そうして由緒は、この退屈な夏休みが早く終わらないか、と、カレンダーをじっと眺める夜を何度も繰り返した。 __ そんな退屈な夏休みを終え、新学期初日。 由緒が学校に着くと、教室は大いにざわついていた。 話を聞かなくともそれが春の話題だということは分かった。 それもそうだろう、あれだけ毎日テレビで特集されて注目されていたのだ、クラスメイトたちが話題にしないわけがない。 春はオーディションを一位で勝ち抜いて晴れてデビューが決まった。 クラスメイトは皆、そんな春の登校を今か今かと心待ちにしていた。 そうして朝礼の始まる数分前、春は颯爽とやって来た。 あっという間に生徒らに囲まれ、いつものように春はそれに笑顔で対応している。 由緒もそれに、ちらりと目線をやった。 すると、ぱちりと春と目があった。 由緒はそれに、いたずらに顔を意地悪く歪めてみせた。 すると春はその顔を見て少しだけ口角を上げたが、皆にバレないようにすぐに目線を逸らした。 由緒もふと視線を逸らして、一人、ふっと小さく口角を上げた。 いつも昼に集まるあの旧校舎の教室で、なんて言ってやろうか。 由緒は考えを巡らせた。 しかし、いつものように昼休み、あの教室で待っていても、春はその日、教室に現れなかった。 苛立ちすら感じながら授業のために教室に戻ると、春の席には鞄はなく、仕事のために早退した、と由緒が知ったのは、終礼が終わった頃だった。 連絡くらい入れろや、なんて由緒は咄嗟に思ったものの、実際、昼休みはあの場所に集まろう、なんて約束をしているわけではない。 春には連絡する義理もない。 のだが、やはり腑に落ちない。 由緒は苛立ちを抱えたまま、春にはじめてメールを送ってみることにした。 何度かメッセージを打ち直して挙句に送ったのは"おい"というたった一言のみ。 すると5分も経たずして、春から返事が返って来た。由緒は着信音が鳴り止む前にすぐ、携帯を開いた。 "昼ごめんね、仕事で早退して行けなかった 携帯充電するの忘れてて、連絡出来なかった" その返事を見て、由緒の苛立ちは何故かすぐに消えてしまった。 連絡する気はあったんやな、と、納得したからだろうか。 由緒はまた何度も悩み、そうしてやっと返事を送った。 "明日は、いるん?" またしてもすぐに返事が来た。 "明日から学校休むから、来週かな 月曜日" 由緒は何やつまらんなあ、と一人呟いた後、また何度か打ち直して、メールを送った。 "そうですか 頑張ってください" メールを送ってすぐ部屋の布団に放り投げた携帯がまたすぐ鳴って、由緒はそれに飛びつくように携帯を開く。 "中野さんも頑張ってね" 由緒はそのメールにふっと笑みをこぼした。 何を頑張るねん、と小さく呟いて、しかしまたどうしても頬が緩んだのが、自分でも分かった。 __ __ __ __ __ 携帯のアラームで目が覚めた。 寝ぼけたまま、携帯に手を伸ばし、薄く目を開いて時間を確認した。 時刻は9:00を少し過ぎた頃か。 由緒はぼんやりとしたまま、鉛のように重く感じる身体をゆっくりと起こした。 春と共演の月9の撮影が始まってから、約3ヶ月が経とうとしているその日、由緒は久しぶりに実家――と言っても中高時代を一人で過ごした安いアパートだが――で目を覚ました。  その日は連日続いたドラマ撮影の撮休日であった。 ドラマロケのため地元である京都に来ていた由緒は、ドラマ側が取ってくれていたホテルではなく住み慣れたアパートへ向かい、前夜を過ごしていた。 アパートは由緒が東京の大学へ行くために上京してからも父親に言って借りっぱなしにしてもらっていた。 由緒に対する引け目なのか、それくらいのわがままは難なく通り、上京してからも由緒はわりと頻繁にこのアパートに帰って来ていた。 大学の演劇サークルの延長で始めた役者の仕事のことを、父が知っているのか、由緒は知らない。 ドラマの撮影は日夜とんでもないスケジュールで進行され、地上波の連ドラ出演が初めての由緒にはそれはかなり酷なものだった。 しかしドラマの評判は上々で、かなりの高視聴率を記録していた。 由緒と春がリアル同級生だったという話題性、そして由緒がいたずらに仕掛けた春との距離感アピールは視聴者らの様々な想像を掻き立て、春の恋人なのではと兼ねてから噂されていた秋の話題も事欠かず、ストーリーや作品自体にプラスしてそういったことが常に話題にされ、世間から大注目を浴びていた。 由緒はSNSを開き、ドラマ名で検索をかける。 何万件にもわたる感想ポストを流し見するように読んで、無差別にお気に入りマークをつけていく。 そうしてふと、一件のつぶやきが目に入った。 "今瀬くん、もう何日もSNS投稿ないけど…大丈夫かなあ…。先週のライブでやった新曲、ガッツリ失恋ソングで別れたんじゃないかとか噂されてたけど……。元カノとか噂されてる中野由緒との一件で色々あったんじゃ…とか邪推かなあ…。二人を応援してた自分からしたら複雑。。せっかくの春くんのドラマ、楽しく見れない自分がいる" こうした感想は正直少なくなく、由緒もたびたび目にして来た。 実際、このつぶやきは事実だ。 由緒は意図的に今瀬秋に接触し、春とのことを伝え、そうして二人の関係はなんとなく微妙なものになっているらしい、というのは、春の様子や今瀬秋のここ最近の動きでも分かっていた。 今瀬秋はこの秋から来年の春にかけて、新しく発売したアルバムのリリースツアーとして全国を回っているらしい。 そしてその初日公演で、"失恋ソング"と噂されている新曲を突如披露したらしい。 歌詞に"春"という単語が入っていたり、別れを匂わせそれでもなお相手に気持ちがある、といった内容であることは、ツアーに参加した観客のポストで由緒も見ていた。 そうして流れで、由緒は今瀬秋のアカウントページを見にいく。 あのつぶやき通り、ツアー中であるというのに今瀬秋個人のポストは一切なく、事務所が運営しているであろう公式アカウントしか動きがない。 由緒はじっと考え込むような仕草をしたあと、ふっとため息をつき、携帯を閉じた。 「…まあうちのせいなんやろうけど」 そう小さく呟いて、由緒はのっそりと布団から起き上がって、ふと思い出したように奥の部屋の押し入れを開いた。 乱雑に物が仕舞われているその隅、一つのダンボールを取り出して、ゴソゴソと中を漁る。 そうして一枚のパーカーを取り出し、由緒はそれに顔を寄せ、すんと匂いを確かめた。 春と初めて話した日、春に貸したあのパーカーだ。 もう春の残り香はほとんどなくなって、ただ押し入れの匂いがするだけだ。 そうして由緒は再び携帯を手に取り、春へ着信を入れた。 今瀬秋へ「元カノだ」と声をかけたその次の日から、春は由緒への態度を変えた。 元々共演者と深い関わりを持たない春の態度の変化は人から見れば気付かれないようなものなのだろうが、由緒からすると、明らかに壁を作って避けられている、というのは明白だった。 出ないだろうな、と思いながらもかけた電話のコールはしばらく続き、由緒が諦めて電話を切ろうとしたその矢先、ぷつんとコール音が止んで声が聞こえた。 『…はい…』 その声はまだ寝起きなのか低く掠れている。 由緒は春が自分の電話をとったことに驚きながらも、言葉を放つ。 「今どこにいるん?」 『………ホテル…です…けど…』 「…なに?なんで敬語なん?」 そうして由緒が尋ねると、しばらく間を置いて、春が言った。 『………由緒?』 「え、そうやけど」 『…ああ……ごめん、マネージャーさんかと思って』 「…なんやそれ …まあうちからやって分かってたら出てへんか」 『……そんなことはないけど…』 「あるやろ …まあええわ」 由緒は続けて尋ねた。 「実家帰ってないんや?」 『うん』 「なんで?今日帰るん?」 『…帰らないよ』 「え、じゃあ今日何するん?」 『中打ち上げあるよ』 「それ夜やん、それまで」 『…まあ…台本覚えたりとか…』 「せっかくの休みやのに?」 『うん』 「ほな遊ぼうや」 『…何して?』 「散歩」 『…外出歩くのは…やめておいたほうがいいんじゃないかな』 「何?ホテルで遊ぼうって?いやらし〜」 『…そうじゃなくて…』 「じゃあ、とりあえず13時にうちんちの前来てな」 『……』 おそらくどう断ろうと迷って春が黙り込んでいるうちに、由緒はぷつりと電話を切った。 __ そうして13時少し前、由緒がアパートから出ると、春はキャップを深く被り、マスクをしてアパートの前で大人しく立っていた。 そうして顔を隠していても明らかに秀でたその等身でただの人ではない、というのが分かるのに、と由緒はなんだか可笑しくなった。 誘いの返事をさせるまでもなく電話を切った由緒であったが、必ず来るだろう、と思っていた。 春は、そういう人だ。 由緒は由緒で、今や話題の連ドラヒロインだ。 すでに普通には街中を歩けなくなっていて、その日ももちろんキャップを身につけ、マスクをしていた。 つけていたマスクをスッとずらし、由緒はニヤリと笑って言った。 「2人してこんな隠してたら逆に目立つで」 春の表情はマスクで読み取れない。 春は言った。 「…散歩は無理あるんじゃないかな」 「もうすぐタクシー来るから」 「タクシー?…どこ行くの?」 「ないしょ〜」 春はすでに観念しているのか、そう、と小さく呟いた。 そうしてやって来たタクシーに乗り込み、2人を乗せてタクシーは走り出した。 走り出して30分ほどして、タクシーが高速道路に乗り込んだ時、春が由緒をチラリと一瞥するのが分かった。 おそらくどこに行く気か、改めて気になったのだろう。 由緒は携帯を取り出し、春にメッセージを入れる。 タクシー運転手に会話を聞かれないようにする対策だ。 "タクシー代は出してあげるから大丈夫やで" 春はそのメッセージを確認し、すぐに返事を送ってきた。 "それは僕も出すけど どこ行くの?"  "やから内緒やって" "大阪?"  "お〜よう分かったやん" "大阪方面走ってるから"  "道分かるんや" "看板にかいてるよ"  "まあ中打ち上げまでには間に合うから" そうしてやりとりして、春が返事をせず携帯から視線を外した。 由緒は再びメッセージを入れる。 "やっぱ怒ってるやろ" 再び送られて来たメッセージを確認した春は、しばらく画面を眺めて何度かパチパチと瞬きをした。 そして静かに携帯の画面を閉じ、由緒にだけ聞こえるような小さな声で言った。 「…怒ってないよ」 由緒も小さな声で返事をする。 「怒ってなかったら辻褄合わへん態度取られてるけど」 春は少し黙ったあと、言った。 「…怒ってるんじゃなくて……約束…守れなかったから……申し訳ないし…情けなくて」 「まだ手遅れじゃないやろ」 「……」 そうして黙りこくったままの春に、由緒はゆるくこつんと肩をはたいた。 「久々に喋ってくれたな」 その言葉に、春はふっと視線をあげて由緒を見つめた。不思議そうな顔をしている。 由緒は小さく微笑んで言った。 「あんたとして、って意味」 すると春はふっと目を逸らし、本当に少しだけ、小さく微笑んだ。 __ そうしてタクシーはあれから1時間以上走り、2人は大きな建物の関係者入り口に降ろされた。 春はこの場所をすでに知っているようで、気付いた時からずっと視線を床に落とし、何度も早く瞬きを繰り返し、じっと何か考え込んでいるようだ。 由緒はそれに気付きながらも何も言わず、携帯を取り出して誰かに連絡を入れた。 そうして短い会話の末、電話を切り、未だじっと目を伏せている春に言った。 「…来たことあるん?」 「…ここ?」 「ちゃうわ、ライブ」 「…高校の時に、一回だけ」 「ほな久々やな」 「…チケットあるの?」 「知らんかもしれんけど、うち、同じ事務所やねんで」 するとスーツを着た男性が入口からニョキっと顔を出し、2人を手招きするような仕草をした。 2人が歩み寄るとその男性は由緒に親しげに挨拶をしたあと、ふと視線を春に移し、そして目を見開いた。 男性は驚いたように言った。 「…え、知ってるんですかね?」 由緒はそれにケタケタと笑って言う。 「知らないと思いますよぉ、喧嘩中なんですって」 すると男性は言った。 「あ…いや……まあなんかそんな雰囲気は…まあ…とりあえず中どうぞ」 そうして男性は由緒と春を先導して歩き出した。 しばらく進んだ先にあった重い扉を開けてすぐ、数万人もの観客の声が一斉に響いた。 そうして数万人が向けている熱い視線の先には、今瀬秋がいた。 由緒が春を連れてやって来たのは、約1.5万人を収容する大阪の大きなコンサートホールだ。 そしてその日、そのホールでは秋のコンサートツアーの大阪公演が行われていた。 すでに公演は始まって中盤のようだ。 ライブ会場であるホールが熱気に包まれる中、秋はにこやかに話し出した。 "ずっと夢だったこのホールでライブが出来て嬉しい、来てくれてありがとう"、そう話す姿はいつもテレビで見るような秋と変わりない。 しかし、ふと秋の表情が変わり、そうして秋は静かに話し出した。 「アルバムのツアーなんですけど…アルバムには収録はされてないんですけど、新曲があって…それを次に歌いたいなと思います」 そうしてタイトルや曲の詳しい説明もなく、それまでバンドセットで行われていたであろう演奏もなく、秋のギター一本、アコースティックギターの音色が会場に大きく響いた。 そうして続けて秋の歌声が響く。 それはいつもの多幸感に溢れたような響きではなく、喉をキュッと締めて発せられる、どこまでも切ない歌声だった。 その歌詞の大半は後悔を綴るような言葉だった。 具体的なエピソードは描かれず、抽象的でありふれた言葉を用いて歌われているのに、秋の切ない歌声によって世界観は演出され、発せられた曖昧な言葉がはっきりとした輪郭と景色を持ち、それがストレートに胸に突き刺さった。 まるで映画のワンシーンを見ているような気分だ。 おそらく観客らも同じなのだろう、じっと固唾を飲むようにして静かに聴き入っている。 そうして歌い上げて落ちサビに入ってギターの音数は少なくなり、秋の歌がクローズアップする。 まるで泣いているようにも聞こえるようなそんな声で、秋はまるでたった1人に伝えるように、少し掠れた歌声で言った。 " 大丈夫だよって言いたい 怖くないよって言いたい 幸せになれるよって言いたい 幸せだって笑うのを遠くでいいから見たい もう抱きしめられないから とびきりのおまじないくらいかけてあげたい " その言葉の一つ一つに切実に想いが込められているのが伝わる。 大丈夫、怖くない、幸せになれる――きっと別れを覚悟した、いや、もしかしたらすでに別れているのか――秋の素直な春への言葉なのだろう、と由緒は思った。 きっと秋は、春を心から好きだったんだろうな、と由緒は思った。 誰もが目を引く容姿とかタレントとしての格とか稼ぎとか、歌とかダンスとか演技とか、そういう"壱川春"を飛び越えて、ただ1人の人としての壱川春を知って愛していた人なんだろう。 そうでなければ、あの壱川春に、トップタレントとして地位を築き誰もが羨むような特別な人間である壱川春に、"怖くないから大丈夫、幸せになれる"なんて言葉を綴ることはできないだろう。 由緒は、春に視線をやった。 春はじっと、ステージで歌う今瀬秋を見つめているようだ。 キャップを来た時より深く被っているせいでその視線さえ覗かせてくれない。 ただ少しも動かず、前を、秋を見ている。 最後の一節を歌い終わって演奏が終わり、会場は静寂に包まれた。 ところどころで鼻を啜るような音が聞こえる。 そうしてしばらくしてやっと、観客らは一斉に大きな拍手を奏でた。 しかしすぐにまた、ギターの音色が響いた。 それは由緒でも聞いたことのある、秋のメジャーデビュー曲_春への誕生日プレゼントに送ったと言われている_花束だった。 そうして花束を歌い進める秋は先ほどとはまるで違った、付きものがとれたような晴れやかな顔をしていた。 由緒がテレビ番組で見た時とはまるで違った顔だ。 他人の曲を歌うみたいに、自分の恋人のことを歌っているとは思えないような、しかし、かといって投げやりではない、それはまるで、人の恋を祝福し応援するような――。 由緒は思った。 心から春の幸せを願っているのだ、と。 これから先、春に新しい恋人ができた時を想像して、春と新しい恋人に今、この曲を送っているのだ、と。 __ ライブ終盤、最後の曲の演奏途中に、会場への引導を行ってくれたスタッフが2人のもとに現れた。 混乱を避けるために申し訳ないが…とホールから2人を先導し、2人は再び関係者入り口であるホールの裏口に案内された。 そうしてそのスタッフは名刺を取り出し、春に名刺を差し出し、言った。 「挨拶遅れてしまって申し訳ありません、今瀬秋のマネージャーをしております、藤堂と申します」 春はその名刺を受け取り、壱川春です、と小さく頭を下げた。 藤堂は言った。 「アンコールは実施予定ないので、あと5分ほどで裏戻ってくると思うので、ぜひよかったら」 すると春は言った。 「ああ…いや…大丈夫です」 由緒はその言葉にキッと春に視線を向け、言った。 「あんたなあ…」 しかし春はその言葉を聞かず、被せるように言った。 「…先出てるね」 そうして春は藤堂に頭を下げ、会場を出て行ってしまった。 由緒と藤堂はふっと視線を合わせ、互いになんとも微妙な表情を浮かべた。 _ _ 「お疲れ様でした」 ライブを終え車に乗り込んだ秋に藤堂がそう声をかけると、秋はありがとうございました、と言った。 が、その声はひどく掠れていて、秋もそれに驚いたのか、え、と小さく声を上げた。 「やば…うわあ、ライブはなんとか持ち堪えてよかったぁ…」 「体調悪かったんですか?」 「ああ…いやぁ…気付かなかったけど……なんか今日声ところどころ掠れるなって…くらいで…」 そう首を傾げながら言った秋はすぐにコンコンと小さく咳をした。 藤堂は心配気に言った。 「ホテル帰ってヤバそうなら連絡くださいね」 「ありがとうございます…」 「まあでも明日休みで良かったですね、しっかり休んでください」 「はい…藤堂さんも…」 「俺は仕事です」 「ああ…」 そう居心地悪そうに秋が返事をすると藤堂ははは、と笑ったあと、ちらりとミラー越しに秋に視線をやったあと、言った。 「今日、中野由緒さんがライブ見に来てくれてましたよ」 その言葉に秋がえぇ?と掠れた素っ頓狂な声を上げた。 「え、え…なんで?」 「たまたまドラマ、京都で撮ってるらしくて、今日撮影が休みだったみたいで」 「…へ、へぇ……」 そうして一枚のメモを秋に手渡した。 「中野さんから渡しておいてとのことでした」 メモにはおそらく由緒の連絡先なのだろう、電話番号が書かれていた。 「……連絡…した方が…その…いいんですよね…?」 「どうでしょう、まあ、社会人なら一本お礼の連絡くらいは、入れますよね」 「……まあ……はい……」 そうして浮かない顔をした秋に、続けて藤堂は言った。 「壱川さんも来てましたよ」 その言葉に、秋はメモに落としていた視線をバッと勢いよく上げ、ひどく驚いた顔をした。 そうしてしばらくそのまま固まった後、秋は言った。 「………なんか…言ってました…か………?」 「いえ、何も」 「え………その……なんか……その……どんな感じ…とか…」 「別に普通でした」 「ふ、普通って…その…どんな…」 「普通は…普通です」 「え……ええ……なんで…?え、一緒に…中野さんと一緒に来てたんですか?」 「まあそうだと思います、昔少しだけ中野さんに付いてたことがあって、それでほら、バラエティで共演した時に少し話したんですよ で、今日の朝連絡くれて、行きたいって 2人で来るって人数だけは聞いてたんですけど、まあ僕もまさか壱川さんが来るとは思ってなくて面食らいましたけど」 「……」 「挨拶良かったらって言ったんですけど、大丈夫っておっしゃられて」 「…………さっきですか?」 「まあ1時間くらい前なので、もう間に合わないとは思いますけど…連絡したらどうです?壱川さんにするのがあれなら、中野さんにでも」 そうして秋はすっかり黙り込んでメモを眺めたままじっと動かなくなってしまった。 _ ホテルに到着してからも、秋はじっとそのメモを眺めたまま動けずにいた。 「どうしよう…」 その呟いた声は変わらずひどく掠れていた。 秋は言い訳のようにまた呟いた。 「…こんな声だと…その…電話してもなあ……」 そう言って秋はひどく久しぶりに春とのトーク画面を開く。 しかし「ちゃんと話そう」とずいぶん前に連絡を入れたメッセージは未だ既読にはなっておらず、秋は大きなため息をついてすぐにそのトーク画面を閉じた。 そうして何度も葛藤を繰り返しながら、気を紛らわすように秋は写真のデータフォルダを開いた。 つい先日、1人やけ酒を飲みながら勝手に撮った春の写真のほとんどを削除してしまっていて、データフォルダには仕事関連の写真しか残っていない。 しかし一枚だけ、どうしても消せなかった写真を、秋はタップした。 それは、秋が付き合ってから春と初めて撮ったツーショット写真だった。 春が海外に撮影に行くことになり、機械に疎い春にテレビ電話のやり方をしつこく指導した時に、"電話できない時は写真見てやり過ごすから撮りたい"と、秋がねだって撮ったものだった。 あれだけ写真を撮られ慣れているはずの春なのに、自撮りは妙に下手くそで、何度やってもブレてしまい、2人して笑い合ったのだ。 そうしてやっと上手く撮れた一枚。 それから春の写真を勝手に撮ることはあっても、2人のツーショットを撮ることは出来ていなかった。 だから、それは秋と春の唯一のツーショット写真だった。 見るのが辛くて写真を大量に消したくせに、それだけはどうしても削除することが出来なくて、でも消さずとも見返すことも辛く思えてしておらず、秋は久しぶりにその写真を目にした。 写真の中の春は穏やかに笑っている。 その表情を見ていると、秋の目にはじんわりと涙が浮かんできた。 春と喧嘩をして終わりにしよう、と言われて会えなくなってから3ヶ月弱、未だにジクジクと胸が痛んでひどく苦しい。 なんで来てくれたんだろう。 中野さんに連れられてきたのかな。 だとしたら、中野さんはなんで春を連れてきたんだろう。 なんで連絡先を渡したんだろう。 そうしてぐるぐると思考を巡らせてから秋はゆっくりと立ち上がり、ふぅ、と大きな深呼吸をした。 そうして意を決して、メモに残されていた電話番号へ、着信を入れた。 しばらく続いたコール音のあと、はい、と由緒の声が響いた。 秋は掠れた声を必死に絞り出し、言った。 「あ…あの……今瀬秋です」 するとしばらくの沈黙の後、由緒が言った。 『…え、その声、何?』 「あ……や…ライブ終わったらすごい掠れちゃって…」 『ライブの時普通やったのにな』 「…はあ……」 『体調悪いん?』 「いや…体調は別に…多分…声が掠れちゃってるだけだと思います…」 『そなんや、じゃあ今から京都来れる?22時くらい』 「…え?今から…?」 『うん』 「え、ええ…」 そう言って秋が吃っていると、由緒が言った。 『変にちょっかいかけたからさ、その後始末はやろうかなって』 「…後始末?」 『別れたんか喧嘩したまま微妙なんか分からんけど、ずっと話してないんやろ?』 「…はい」 『春もおるからおいで』 「……春は…その…ライブ見て…なんか言ってましたか?」 秋がそう尋ねると、由緒ははぁ、とため息をついた後、言った。 『自分で聞きに来い』 そうしてぷつりと電話が切れて、すぐに由緒からショートメッセージが送られてきた。 メッセージにはアパートの住所らしい文字の羅列と、メッセージアプリのIDが記されていた。 時刻は20時を回った頃だ。 秋はホテルを飛び出した。

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