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第4話 由緒と春②
ライブが終わってすぐに京都に戻り、由緒と春は2人が共に主演を務める月9ドラマの中打ち上げに参加していた。
春は帰りのタクシーでは表情を落とし一言も発さず、しかし打ち上げが始まってからはいつもの"壱川春"としてにこやかな微笑みを浮かべていた。
そうして時刻が20時を回る頃、由緒の携帯に着信が入った。
知らない番号からのそれは、おそらく今瀬秋からだろう、と、由緒は携帯だけを持って打ち上げ会場である店を出て、今瀬とのやりとりを交わした。
打ち上げはその後、わりとすぐにお開きになり、由緒はまるで当たり前かのように春を引き連れ、由緒が住んでいたアパートに向かった。
2人きりになり、春の顔からは"壱川春"の表情は消え、そうして無表情でいるとひどく鋭く見えるほど整い切ったその面で、ずっと目を伏せたまま、ただ瞬きを繰り返していた。
由緒は春の隣に腰掛け、尋ねた。
「覚えてる?」
春は目を伏せたまま、静かに尋ねた。
「…何を?」
「ここで初めてした時のこと」
すると春はわずかに視線をあげ、しかし由緒の顔を見ることはなく、うん、と短く返事をした。
由緒は言った。
「ドラマでさ、ベッドシーンあったやん」
「…うん」
「その時に思っててんけどな、なんか…」
由緒は少し言い淀むように言葉を探した後、また静かに話し出した。
「あの時の…事務的なっていうか…
そういうんじゃなくてさ」
由緒は続けた。
「ほんまに好きやと思う人とそういうこと…
春は経験したんやろうなあって
目線とか表情とか…仕草とかさ、芝居やろうけど…
"知ってる人の演技や"、って思ってんよな」
そう言ってから、由緒は少し砕けた様子で、別にあの時下手とか思ったわけちゃうよ、と少し笑って言った。
そして続けて言った。
「…別に何も言うつもりなかってん、今瀬くんに
SNSで今瀬くんと騒がれてるん見た時さ、
"恋人出来たんや、良かったやん"って思ってん
それから今瀬くんの曲聞いてさ、"こんな真っ直ぐ好きって言うてくれる人、あんたにピッタリやん"って…良かったやんってほんまに思って…心から嬉しかったねん
やから…何も言うつもりなくて」
でも、と由緒は続けて言った。
「初めて今瀬くんと話した時、うち、悔しいって思っちゃってん
胸がザワザワしてムカムカして…
…ああ、この人かぁって…
春が好きになったんは、好きになれたんは、
この人なんやあって」
その言葉に、春が視線をそっと、由緒に向けた。
しかし由緒は変わらず前を向いたまま、静かに話し続けた。
「…ほんで考えるよりも先に言ってた
"初めてはウチやで"って」
由緒はふと視線を落とし、続けて言った。
「…でも後悔した
そんなこと今瀬くんに言ったってなんも意味ないし…そんなことで何も変わらんやろうにって
でも…それから今瀬くんとほんまになんかあったんやって知って…
…もっと後悔した
ただ…悔しくて嫉妬して、突発的に言っただけやった
…うち何がしたいんやろうって…
"大丈夫や、春が好きになって、春を好きになってくれる人は絶対いるで"って…
…自分で春にそういったくせに…邪魔するようなことしてさ」
そうして由緒は視線を春に向け、まっすぐ見つめて、言った。
「…ごめんな」
その言葉に、春は静かに首を横に振った。
そうして由緒はふぅ、と大きく息を吐き出し、突然立ち上がって言った。
「…アイス食べたくなったから買ってくるわ」
春は突然立ち上がった由緒に少し驚いた様子で、しかし言った。
「…じゃあ…一緒に」
すると春の言葉を遮るように、由緒は言った。
「あんたと行ったら目立ってしゃあないし、
ここで待ってて」
そうして由緒はそそくさと上着を羽織り、部屋を出て行った。
1人部屋に残された春は、ふと、由緒と過ごした日々を思い出しはじめた。
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中2の夏休みが終わってから、春の日々は大きく変化していた。
それは夏休みに受けた事務所主催のアイドルプロジェクト「DaisyProject」通称:デイプロの新規加入生オーディションに合格し、本格的にその活動がスタートしたからだ。
それまでもほぼ毎週末、決まって東京へ足を運び、レッスンや単発のドラマやCM、雑誌撮影などをしていた春だったが、デイプロの活動が始まってからはそれらの仕事に加えてデイプロのレッスンや撮影も始まり、また、平日に撮影が入ることも増えて京都から東京への往復も頻繁に行うようになったりなど、慣れない日々と環境に体力的にも精神的にも大きな負担がかかっていた。
ひどく疲れている、というのは自分でも気付いていたが、それを誰かに話す事や頼る事は出来なかった。ずっとそれをしてこなかったから、話し方も頼り方も分からなかった。
春以外のデイプロ所属メンバーのほとんどがオーディション合格をきっかけに東京へ越しており、春も事務所の社長から"東京に来たら"と何度も言われていたのだが、春はそれをいつもやんわりと断っていた。
その理由には少なからず、由緒の存在があった。
深く人と関わらないようにしていた春であったが、それは関わる相手がやがて必ず「好き」とか「嫌い」とか大きな感情を自分に向けることが分かっているからで、それによって起きる揉め事や争いなど、そうしたものを起こしたくなかったからだ。
そんなふうに人を避け、踏み込むことも踏み込ませることもせずに過ごしていた春には、本当の意味で"友達"と呼べる人はいなかった。
そんな中で出会った由緒は、多くの人が自分に向けてくるような「きっとあなたはこんなに素晴らしい人なのでしょう」とでも言うような、そんな期待の眼差しを向けてくることがなかった。
いつも眉を顰めてぶっきらぼうに春の本心や真意を探るようにして尋ね、そしてそのどの返答も由緒は真っ当に受け入れた。
そうしてただ普通の人として接してくれた由緒に、気付けば春は随分と気を許すようになり、いつのまにか由緒は春の唯一の"友達"と呼べる関係になっていた。
最初こそ、由緒が学校でいじめに似たような行為をされている原因を自分がつくってしまったという負い目も感じて共に過ごしていたのだが、今となってはそれだけが理由ではなくなっていた。
春はまだこの時、芸能人として生きていく覚悟が出来ていなかった。
期待をかけられてそれに応える、というのは、芸能界でもそれ以外の私生活でも春にとってはあまり変わらず、本心とかそういったものは常に二の次で、でも、由緒といるときだけはそうではなかった。
これまで話してこなかった男の人が好きだということも素直に打ち明けることができた由緒には、隠さなければいけないことがない。
理想や期待をそもそも自分に抱いていない由緒には、素直に何でも話すことができた。
そんな由緒との関わりの中で、春は思っていた。
わざわざ大勢の人の視線を浴びるような場所を選んでそこで生きなくとも、もっと息のしやすい居場所が、ここにはあるのではないか。
そうして"東京へ越してこれば"と言われるたび、春はその返答を曖昧に濁してしまっていたのだった。
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その日、春は由緒から呼び出され、由緒の住む家の家具の組み立てのため、放課後、由緒の家にいた。
由緒の家はかなり古いアパートで、隙間風がびゅーびゅーと吹き込んできて、すでに冬めいた風が強く吹く今の季節では暖房も余り意味をなさず、家の中は随分と冷え込んでいた。
しかし由緒はそんなのお構いなし、と言った様子で、随分着古したであろう首元が伸びてゆるゆるの半袖のTシャツと学校指定のジャージの半ズボンといった格好をして、長く伸びた髪を乱雑にまとめ、新しく買ったベッドの組み立ての説明書をじっと睨んでいた。
春は由緒に言われるままにすでに組み立てたベッドの一部を若干浮かせる、といった任務を遂行していたのだが、そんな気取らない由緒の姿を見て思わずふふ、と声を漏らして笑った。
すると由緒はあ?と若干不機嫌そうな声をあげ、春を睨んで尋ねた。
「…なに?何笑ってるん?」
春はそれに、ううん、と笑いながら首を横に振る。
由緒は不機嫌そうに続けて言う。
「なんやな、笑ってる暇が合んねやったら説明書見て手伝うねん、アホやな」
由緒のそのあけすけな言葉に春はまた少し笑って、そうして言われた通り、持ち上げていたベッドの部品をゆっくりと静かに置き、由緒の持っている説明書を覗き込んだ。
そうして春は由緒が躓いていた工程をいとも簡単にやってみせ、再び由緒は春をじり、と睨んだ。
しかしその表情とは裏腹に、由緒はぽつりと言った。
「…ありがとぉ」
そんなちぐはくな態度に、春はまた小さく笑ってしまい、また由緒に睨みつけられた。
それからほとんどの工程を春が進め、由緒はいつの間にか部屋の隅に座り、それをただ眺めていた。
そうしてやっと完成、というときに、由緒が言った。
「…なんかあんた、背ぇ伸びたな」
「あはは、今?」
「や、だってなんか…普段昼とか…椅子に座ってるとこしか見いひんから分からんかったけど…」
そう言ってから由緒はハッと思いついたように立ち上がり、押し入れからパーカーを取り出してきた。
以前春に貸した、あのパーカーだ。
「着てみてや」
春はそれに少しだけ戸惑いを見せたが、しかし言われた通りにそのパーカーを羽織って見せた。
すると、あの時まだ大きかったそのパーカーはあの頃から随分成長した今の春にはぴったりとちょうど良いサイズになっていた。
由緒はおー、と嬉しそうに声をあげ、そして言った。
「大きなったな」
春はその言葉にはは、と笑って言った。
「親みたいなこと言うね」
春はそう何気なく言ったものの、すぐにハッとして、由緒から顔を逸らした。
由緒は中学生には珍しく、一人でこのアパートに暮らしている。
何か事情があるのだろうけれど、それは話したくないことかもしれない、と、春は由緒に何も聞かずにいた。
そうしてこれまでもなるべく家族などの話題は避けて会話をして来ていたのだ。
春はすぐにベッドに視線を戻し、平静を装い、残り最後になったネジを締める。
すると由緒はそんな春の考えたことなんてお見通し、と言った様子で、ニヤリと笑って春の顔を覗き込んで言った。
「"やば〜、親の話題出しちゃった"って思ったやろ」
春はじっと由緒を見つめ、そして観念したように言った。
「…話したくないことだったら、ごめんね」
春がそう言うと、由緒はコロコロと楽しそうに笑って言った。
「別に話したくないんやなくて、聞いてて楽しないやろうなって思ってるだけ」
春は由緒のその言葉にそっか、と短く返事をして、再び視線をベッドに戻した。
すると由緒が言った。
「うちもあんたに聞いちゃったことあるし
…話したくないやろうなってこと」
由緒にそう言われ、春はすぐに少し前、由緒に"あの日のこと"を尋ねられた時のことを思い出した。
あの日とは、由緒と春がはじめて話した中1の夜のことだ。
あの日春が着ていたシャツはボタンがいくつも外れて大きくはだけ、その姿を見かねた由緒は自分の着ていたパーカーを貸してくれた。
その後由緒と話すようになってから、"あの日どうしてシャツが破れていたのか"と、由緒から尋ねられたことがあったのだ。しかし春は何も答えなかった。
あの日の由緒とばったり出会う少し前、春は、春が思いを寄せていた井田恭二 という5つ年上の男性が住むアパートに訪れていた。
恭二との出会いは、春がまだ小学生の頃だった。
恭二は春の住む家のすぐそばにあった古びた定食屋で、当時まだ中学生であったのに働いていた。
春が夕方、学校から帰る途中にその定食屋の前を通ると、恭二はいつも明るく「お疲れ!」と春に声をかけて来た。
最初はそれにぺこりと静かに頭を下げるだけの春だったのだが、次第に恭二は春にジュースやお菓子をくれるようになり、一緒に食べようや、と定食屋の側の路地にあるベンチに春を誘うようになった。
春から積極的に何か話すことはなかったが、恭二は春の表情をよく見ていて、いつのまにか恭二は春の好きなジュースやお菓子を理解するようになり、最初はいつも違う種類だったそれらは次第に春の好きなものばかりになっていった。
「これ好きやろ?」
そう言って恭二に言い当てられることが春はなぜか心地よく嬉しく、また、そうやって嬉しそうに笑う恭二の顔がとても好きだと思った。
そうしてほとんど毎日、放課後の30分ほどを恭二と過ごすようになった。
恭二はとにかくおしゃべりで、春といる間中ずっと何かを話していた。
その大半が定食屋の店主の愚痴だったのだが、なぜかとても楽しそうに話すので、春はそれを聞くのがまるで苦痛ではなかった。
毎日のその30分はあっという間に過ぎて、いつも別れが名残惜しかった。
そうして別れ際、また明日な、と恭二に言われると、また明日も会えるのだと、春は嬉しく思った。
そうして何年もそれを続けて、周りのクラスメイトらが好きな女子がどうだとか話し始めた時に、恭二へのこの思いは恋だったのだと、春は自覚した。
はじめて、自分は男の人が好きなのだ、と自覚した瞬間だった。
大きなきっかけはなかった。
ただ、自然と吸い寄せられるように、春は恭二に思いを寄せるようになった。
しかし春は、その思いを、恭二にも、そしてそのほか誰にも、打ち明けることはなかった。
それは、周囲に求められる自分ではない、と、そう思ったからだ。
ただただ、同じような日々をそれからもまた何年も続けた。
そうして、あの日。
由緒と初めて話したあの日の、その数時間前のことだ。
いつものように放課後共に過ごしていると、恭二が突然、一緒についてきて欲しいところがある、と珍しく真剣な顔で春に頼み込んできた。
春は少し不思議に思いながらもそれを快諾し、そうして恭二は春に行き先を告げることなく、飲屋街で有名な繁華街に春を連れて行った。
まだ夜も更ける前、薄明るい繁華街にはまだほとんど人はおらず、店の電気もどこも付いていなかった。
いつもおしゃべりな恭二が珍しく黙りこくって春を連れて入ったのは、ひどく寂れたスナックだった。
店に入るとカウンターには1人の女性がいて、店に入って来た恭二を見て少し黙った後、小さく「何しに来たん」と恭二に尋ねた。
すると恭二はいつもの明るく快活な雰囲気とはまるで違い、殺気立った様子でその女性に食ってかかるように話し出した。
"また結婚するらしいな"
そう言った恭二に、その女性は"あんたには関係あらへんやろ"と冷たく言い放ち、恭二は"何回繰り返すねん、男の気引くために子供産んで上手く行かんなったら毎回その子供捨てて、人の人生なんやと思ってんねん"と怒りで震える声で反発するように言葉を返した。
その後もそうして責め立てるように恭二が話し続けたにも関わらずその女性は全くそれを取り合わず、最終的に"手切れ金な、あんたの母親は死にましたってことで"と吐き捨て、茶封筒を恭二に投げつけた。
恭二は荒く息を吐いて女性を睨みつけ、床に落ちた茶封筒を乱雑に拾い上げ、飛び出すように店から出て行った。
そんな恭二を追いかけて、春も同じように店を飛び出した。
恭二は早足で街を抜け、そのまま黙りこくったまま電車に乗り、ただただ歩き続けた。
そうして春の家の前をそのまま通り過ぎていき、春も恭二の後をただ着いて行った。
そして恭二はコンビニに立ち寄り、カゴを手に取り手当たり次第に商品をカゴに投げ入れて行った。
カゴがいっぱいになるとそれを春に黙って手渡し、春はそれを受け取った。
そうしてコンビニを出る時には2人ともが大きな袋を3つずつ抱えていて、恭二は再び何も言わずに歩き出した。
そして恭二が働いている定食屋の横、古いアパートの一室に春を無愛想に招き入れた。
狭く汚い部屋には薄い布団だけが敷かれていて、恭二はその布団の上にどさっと座り込み、黙ってコンビニで買った食べ物を手当たり次第に詰め込むように食べ出した。
春がそれを黙って見ていると、一つおにぎりを投げるようにして渡して来た。
春は目の前に落ちたそれを拾い、黙って食べ始めた。
そうしてしばらく黙って食べ進めた後、突然恭二が話し出した。
いつもの、明るい口調だった。
"手切れ金で20万ってさあ、少ないと思わん?"
口いっぱいに頬張ってそう明るく取り繕うように言った恭二に、春は何も言えず、ただ瞬きを繰り返した。
恭二は続けて言った。
"てかそもそも、なんやねんなあ、手切れ金って"
"別に母親でいてくれとか言ったわけちゃうやんな"
"お前のエゴで不幸な人間増やすなやって言っただけやしな"
"頭おかしいからな、話通じへんねんよな"
そうカラッと笑って恭二は話し続け、そうして続けて言った。
"手切れ金出して家族の縁切れるんやったら、
家族捨てれるんやったら、
ほんなら金で家族買えるようにしてくれよな"
"そやったら俺、なんぼでも金貯めるし"
"一人一人集めるわ、おとん、おかん、じいちゃん、ばあちゃん、って"
"あとはそうやなあ、弟か妹かって迷うけどなあ"
そう言って大きな声で笑った後、恭二が笑ったまま、春に尋ねた。
"なあ、春くんはいくら出したら俺の家族なってくれる?"
"残りの19万やったら足らへん?"
春はその問いに戸惑い、何度も早く瞬きをした。
恭二は乾いた笑いをあげ、そして言った。
"はは、でも俺の弟とかなりたないかぁ"
恭二はそのまま、食べかけの肉まんを放り投げ、ドサっと寝転んだ。
そうして静かに、小さく震える声で、弱々しく言った。
"このままずっと俺、死ぬまで1人ぼっちなんかな"
恭二はそのまま静かに腕を上げて顔に覆い被せ、息を漏らすまいといった様子で小さく震えて泣きはじめた。
恭二のそんな小さな嗚咽が小さな屋根裏部屋にしばらく響き、やっと春は口を開いた。
"…なりますよ、弟"
小さく呟いた春のその声に反応して、恭二はゆっくりと起き上がった。
そうして言った。
"…いくらで?"
春は言った。
"いらないです"
すると恭二はしばらく黙ってただじっと春を見つめてから、ふっと視線を外して、声を震わせて言った。
"…信用ならへんなあ"
そうして春は懇願するように尋ねた。
"…どうしたら…信用してくれますか?"
恭二は目を伏せたまま、それに答えた。
"…ほな全部捨てれる?今おる家族とか友達とか"
春はそれに思わず押し黙った。
すると恭二は"出来へんやろ 出来へんこと言わんといて"と冷たく鋭く言い放った。
しばらく重い沈黙が続いたあと、恭二は乱暴に自分の涙を拭って、先ほどとはまるで違う明るい口調でその沈黙を破った。
"ごめんごめん、変な事ゆうた 全部忘れて"
そう言って恭二はいつものようにカラッとした笑顔を浮かべ、"そろそろ帰らな家族心配するで"と言った。
しかし、春はそれには応えず、ただじっと恭二を見つめた。
この部屋に来てから、ずっと胸がキリキリと痛かった。でもきっと、恭二の方がもっと痛いはずだ。
どうしたら、何をしたら恭二の力になれるのか。
春には少しも手立てがなく、しかしこのまま帰ることなんて出来なかった。
そうしてただ、じっと、恭二を見つめた。
すると恭二は再び"帰りや"と同じような明るい口調で言った。
しかしそれにも春が反応しないと分かると、恭二は突然立ち上がり、春の着ていたシャツの襟元を強く乱暴に掴んで引いて、無理やり春を立ち上がらせた。
その拍子にシャツのボタンが弾け飛んだ。
しかし恭二はそれを気にする素振りなど見せず、春の服を掴んだまま、引き摺るようにして玄関先に乱暴に春を連れて行った。
春はそれにされるがまま、抵抗することが出来ない。
ただただ突然の恭二の行動に驚いて、呆気に取られるだけだった。
そうして恭二はそのまま春を投げ飛ばすようにして、春は玄関先で体勢を崩して倒れ込んだ。
"帰って"
恭二は春に背中を向け、そう冷たく言い放った。
しかし春が黙りこくってじっとしていると、今度はより強い口調で"帰れ"と言い放ち、恭二はテーブルに置いてあったペットボトルを春に投げつけた。
ゆるく閉めてあったキャップはその衝撃で外れ、春のシャツはペットボトルにまだ残っていた水で水浸しになった。
恭二は春に背中を向けたまま、吐き出すように言った。
"春くんって俺の持ってないもん全部持ってるやろ?"
"裕福な家に生まれてなあ、愛されて育って"
"…なんの努力もせんで生きてきたんやろうなあって…ほんまにムカつくねん"
恭二は振り返り、荒く春に歩み寄り、春の胸ぐらを掴んで引きづり上げ、睨みつけて言った。
"…可哀想やなって思ってるやろ、俺のこと"
"親に捨てられて縁切られて、5個も下のガキに縋り付いて泣いて喚いて、そんな俺のこと下に見て哀れんでるんやろ?…なぁ?"
その言葉に、春は咄嗟に首を横に振った。
恭二は噛み付くように言った。
"…やったらなんなん?
なんでそんな哀れむような目ぇで見てくんねん!"
"「なりますよ」ってなんやねん
なれるわけないやろ…なれるわけないやろ…!
なあ!"
そう言って恭二は春を大きく揺さぶった。
"…適当にそう言ったら俺が喜ぶって思った?「ありがとぉ、弟なってくれるんかあ、ほな俺は1人やないなぁ」って?そうやって喜ぶって思った?"
"…なあ!"
春はそれに、やっと口を開いた。
その声は小さく震えていたが、しかし真っ直ぐだった。
"…恭二さんの…力になりたくて"
恭二はその春の言葉に、再び食ってかかるようにして言った。
"「力になりたくて」?はぁ?力になれると思ったん?…自分のこと驕りすぎやろ"
"いつもみたいになんも言わんと黙って俺の話聞いてるだけで良かったねん
…お前になんの慰めも救いも求めてないねん"
"…なんも、これっぽっちも俺の気持ち分からんくせに…ほんまに不愉快やねん!"
そうして春は消え入りそうな声で、言った。
"…ごめんなさい"
恭二はそう言った春をしばらく睨みつけた後、掴んでいた手を緩め、春はまた体勢を崩した。
そうして恭二は震える拳を強く握り締めて立ち上がり、春を強く見下げて言った。
"…謝るんやったらなんも言うなよ"
そうして恭二は春のシャツを一瞥し、乱雑に置いていた封筒から一万円札を取り出し、春に投げるようにして手渡した。
"…後から親連れて来られてワーワー言われても嫌やし、それでシャツ買って
…慰謝料やっけ?損害賠償?…知らんけど"
春は床に落ちた一万円札に目線を落とし、しかしそれを拾うことなく重く立ち上がり、恭二に背を向け、玄関のドアノブに手をかけた。
"おい!"
背後から恭二が大きな声を上げた。
荒く足音を立てて迫り寄り、恭二は一万円札を拾い上げ、部屋から出て行こうとする春の腕を強く掴んで引き戻した。
そして恭二は一万円札を春に押し付け、凄むように言った。
"持ってけって言ってるやろ"
春はただひどく悲しい顔をして、静かに言った。
"…親を連れてきたりしません
誰にも…何も言いません
…このお金は恭二さんのために使ってください"
恭二は春を睨みつけたまま、言った。
"…信用ならへんねん
…お前らみたいに頼れる人おるやつなんか"
春は言った。
"…恭二さんが困るようなことはしません"
恭二は再び睨みつけて、尋ねた。
"なんなん?
こんなに言われてまだ良い子ちゃんぶってんの?
育ちのいい俺はお前とは違うって言いたいわけ?…なあ?"
いつもならこう言うべきだろう、と自然に浮かんでくる相手に向ける言葉たちも、その時は何も浮かばなかった。
春はそっと目を伏せ、そして震える息を小さく吐き、静かに吐き出すように言った。
"…力になりたいと思ったのは…
…恭二さんのことが好きだからです"
"……恭二さんがそれを望んでるなら…
…なれるなら…なりたいと思って…言いました
…でも…それで不愉快な気持ちにさせてしまって…ごめんなさい"
"下に見たことなんかありません
……恭二さんの…笑ってる…顔が好きだったから…
…悲しい顔をしてるのが…僕も悲しいと思って…
…ただ…だから…力になりたいって…思った…けど……出来ないこと…しようとしてごめんなさい"
"余計なことしようとして…ごめんなさい"
そう震える声で何度もつっかえながら話し、そうして春はただただ静かに涙をこぼした。
堪えようとしても無意味で、ただただ自然に溢れ出てしまった涙だった。
春の腕を強く掴んでいた恭二の手は次第に緩み、春が話し終える頃にはその手は離れていた。
そうして恭二は言った。
"…なんなん、それ"
"…好きって何?…そういう意味で?"
そう尋ねられてもただ静かに涙をこぼすだけの春に、恭二は続けて言った。
"…それ…今…俺に言ってどうしたかったん?"
そうして春は再び、小さな声で言った。
"…ごめんなさい"
すると恭二は小さくため息を吐き、そうして言った。
"…そんなふうに見たことないし
…これから先もないわ"
"笑ってる顔が好きってなんやねん
…本気で笑ったことなんか生きてて一回もないわ"
そうして春はろくに恭二の目を見ることを出来ず、そのまま振り返り、恭二の家を飛び出した。
春は道路に飛び出してすぐ、これまで堪えていた感情が溢れ出し、その場に崩れ落ちるようにしゃがみ込んだ。
そうしてすでに漏れ出していた涙をさらに溢れさせた。
涙は際限なく溢れ、しゃくりあげて息が上手く出来ない。
言うべきじゃなかった。
何も、言うべきじゃなかった。
"いつもみたいになんも言わんと黙って俺の話聞いてるだけで良かったねん"
――そう言われたのに。
それでも自分の感情に抗えず、ただ自然に吐き出すように話してしまった。
こんな時に何も恭二の救いになれず、ただ恭二を不愉快にさせた自分が憎かった。
ただ謝りたかった。
不快にさせたこと、何も出来なかったこと、何気なく聞かれた話した自分の家族の話、勝手に好きになったこと、そしてそれを今、伝えてしまったこと。
恭二と出会ってからの自分、その全てを謝りたかった。
謝ることで許してほしいとか、思いを伝えてどうしてほしいなんて一つの願望もなかった。
そんなことを思う感情の隙間はなかった。
けれど、"そんなふうに思ったこともないしこれから先もない"、その言葉は胸を切り裂くように突き刺さった。
「好き」か「嫌い」、そのどちらかでしか人は自分を認識しない。"普通"はない。
恭二は「嫌い」のカードを引いていたのだ。
「嫌い」なのは別に、男だから、と言うわけではないだろう。
自分が自分であったから、それだけだ。
けれど、自分が女の人だったら、もしかしたら違ったのかもしれない、なんて、春はこの期に及んで初めて考えてしまった。
自分が女の人だったら、恭二はもしかしたら、「好き」のカードを引いていたかもしれない。そうして、恭二の家族になれたかもしれない。
恋愛して結婚して子供を産んで、恭二のそばに家族としていれたかもしれないのに。
恭二が欲しかったその全てを、与えられたかもしれないのに。
そうして考えてみて、春は気付いてしまった。
自分がこれから先、もし他の誰かを好きになったとしても、自分はその人とは、家族にはなれないのだ、と。
絶望した。
絶望して、思った。
誰を好きになっても、それには何の意味も価値もないのだ、と。
――もうやめよう。
誰かを好きになったり、誰かを特別に思ったり、そうしてその人の力になりたいとか、そういうの全部、もう、やめよう。
自分の言葉で話すことも、自分の思いを話すことも、やめよう。
ただ人が思う自分を演じて、「好き」も「嫌い」ものらりくらりとかわして、ただ、自分の人生が終わるのを待てばいい。それでいい――。
そう思ったその時、突然小さな子犬が飛びついてきて、春は驚いてハッと顔を上げた。
そして子犬のその先、視界に入った女の子が同じクラスメイトの中野由緒だと分かり、春は慌てて涙を拭って、そうして笑った。
それが由緒と、初めて話したあの日のことだった。
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