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第6話 由緒と春④
シャワーを終えて戻ると、由緒は新しく組み立てたベッドの上に寝転がっていた。
そうして春を手招きし、春は深く息を吸い込んで、たどたどしくベッドに腰を下ろした。
由緒はそれにくすりと笑った。
「…なんか今の、めっちゃ童貞っぽかったで」
春は目を伏せ、やめてよ、と小さい声で情けなく言った。
そうして由緒は髪乾かしたるわ、と言って立ち上がり、ベッドのそばに置いてあったドライヤーで春の髪を乾かし始めた。
由緒の手が髪に触れ、人とそんな距離感で接したことのない春はそれにいやに緊張感を覚えた。
そうして丁寧に乾かし終えた後、ドライヤーの音が止み、由緒が少ししゃがんで、春の顔を覗き込んだ。
春は思わず、目を逸らした。
「何、緊張してんの?」
由緒にそう尋ねられ、春は言った。
「……するよ」
すると由緒はくすりと笑い、そうして言った。
「…なんや、可愛く見えるわ」
そう言って、由緒の手はそっと、春の頬に触れた。
春はゆっくりと視線を上げ、由緒の目を見つめた。
そうして唇が触れそうな距離で、由緒は尋ねた。
「…怖い?」
春はありのまま、言った。
「……怖い」
「…何が怖い?」
「……出来なかったら、って」
すると由緒は小さく笑って、尋ねた。
「今のところ、どっちやと思う?」
「…出来そうかってこと?」
「ちゃう、出来へんかった時、泣いてしまうかってこと
泣くんなら、感情作っとこかなって」
由緒のそんな思わぬ言葉に、春の心はわずかにほぐれ、小さく息を吐き出して笑った。
すると由緒もわずかに笑い、そうしてすぐに、由緒の顔が近づき、ゆっくりと2人の唇が重なった。
そっと唇が離れ、由緒は優しい顔で言った。
「…キスは出来たやん」
「…うん」
春がそう言った後、今度はどちらからともなく2人の顔は近づき、再び唇が重なった。
何度も触れては離れ、それは次第に深くなり、春は由緒の腕を優しく掴み、そっと引き寄せ、由緒をベッドに寝かせた。
由緒は春を見上げ、じっと春の目を見つめた。そうして小さな声で、言った。
「…春」
そう言って、由緒は小さく微笑んで、言った。
「…初めて呼んだわ、名前」
「……うん」
「…春も呼んでみて」
「……由緒」
すると由緒はまた小さく笑って、照れたように少し顔を背けて言った。
「…なんや、恥ずかしなってきたわ」
そう言って由緒は腕で顔を覆うようにして顔を隠した。
由緒の初めて見るそんな仕草に、春は素直に、可愛い、と思った。
すでに早まっていた鼓動がまた、早まるのが分かった。
出来るかも知れない。
由緒となら、出来るのかも知れない。
「…触ってもいい?」
春が小さな声でそう尋ねると、由緒は顔を隠したまま、いいよ、と小さな声で言った。
春はそっとTシャツの裾に手を差し込み、由緒の肌に触れた。
由緒の肌は暖かくて柔らかくて、初めて触れる人の肌の温もりに、春は静かに息を呑んだ。
そのままゆっくりと肌を滑らせ、その手が胸の膨らみに触れた。
それはとても柔らかく繊細で、決して触れてはいけないもののように感じた。
しかし、それを触れることを許されている、という事実は、春に妙な高揚感を抱かせた。
由緒は顔を隠していた腕をずらし、春に目線を合わせて、言った。
「…童貞っぽい」
「…それ…あんまり言わないでよ」
「…やって…あはは…」
「…間違ってる?」
「…間違ってへんけど…キスしながら触るんちゃうん?」
「…そっか」
「…あは…童貞」
「…もう」
すると由緒はそっと手を伸ばし、春の首に腕を回し、少し引き寄せて言った。
「…大体失敗するらしいで、初めては」
「…そうなの?」
「せやで、やから大丈夫やで
失敗してもええやん
…泣く準備ももう出来てるから」
その言葉に2人はくすりと笑い合い、再び唇を合わせた。
そうして春は由緒の肌に触れながら、キスを繰り返した。
胸の先の突起に触れると、由緒は小さく息を漏らした。
春はその反応に、じっと由緒の目を見つめた。
すると由緒は目を逸らして言った。
「…見んといてよ」
春はまた、指を滑らせ、突起を撫でる。
同じように小さく息を漏らす由緒に、春は自らの意思で唇を重ねた。
自分が高揚しているのが分かる。
由緒の反応に、高揚している。
出来るかも知れない。
出来るかも――。
そうして春は由緒の服を優しく剥いだ。
自分の服を脱ぎ捨てる。
これまでよりも感じる由緒のぬくもりに、春は自分のものが熱くなるのが分かった。
そうしてそれが由緒の太ももに触れた時、由緒はそれに気づいたのか、重なっていた唇を離し、小さな声で言った。
「…勃ってる」
「……うん」
再び2人はキスを交わす。
それまで控えめに春のする通りに受けていただけの由緒が、変わったのが分かった。
春を強く引き寄せるように腕を回し、互いの舌先が互いを求めるように絡み合った。
そうして春は由緒のズボンと下着をゆっくりと剥ぎ、ゆっくりと指を滑らせた。
そこは熱くしっとりと濡れており、指を這わせるたびに、由緒は小さく声を上げた。
そうしてゆっくりと指を入れていくと、微かに春の指を由緒が締め付けるのが分かった。
息を漏らしながら、由緒は言った。
「……AVとか…見るん」
「……見たことはあるよ」
「……男と…女の?」
「…うん」
そんな会話をしながら、春はその手を止めず、ただゆっくりと中をほぐすようにして指を動かした。
由緒はそれに小さな反応を繰り返しながら、会話を続けた。
「……どう思うん、それ見て」
「…どうって?」
「……勃つん?」
「………ううん」
「……ほな、なんで…今そうなってるん」
「……分かんない」
「……超えたってこと?」
「…超えた?」
「……魅力ある……男とか女とか…そういうの超えた魅力ある人間やから…うちが…やからそうなった?」
春は由緒のその言葉に小さく息を吐いて笑って、しかし由緒をじっと真っ直ぐに見つめ、言った。
「……そうかも」
すると由緒は春の指に反応して小さく息を漏らしながら、言った。
「………もうちょっと…山あり谷ありが…良かってんけどなあ…」
春はその言葉に再び小さく笑い、そうして言った。
「…入れてもいい?」
由緒はそれに、小さく頷いた。
2人は事を終え、簡単に服を纏い、小さなシングルベッドに寄り添い、互いに仰向けに寝そべっていた。
天井を見上げながら、由緒が言った。
「…出来たやん」
春はそれに、うん、と小さく頷いた。
由緒は尋ねた。
「…いま、どんな気持ち?」
春は少し考えた後、言った。
「…出来たなあって」
「…それだけ?」
「……よく…分からない」
その言葉に由緒は短くそう、と言った後、続けて言った。
「…ほんまに好きな人と出来た時にさ、思い出してな」
「…?」
「"そういえば僕の初めては、好きでもない女やったな"って」
春はそんな由緒の言葉に、そっと由緒に顔を向けた。
すると由緒も視線を春の方に向けた。
そうしてじっと由緒の目を見て、春は言った。
「…"好きでもない"は違うよ」
すると由緒は小さく笑って、言った。
「…でも好きとはちゃうやろ?」
由緒のその言葉に春がそっと目を伏せると、由緒は言った。
「…うちも初めてやったねん」
その言葉に、春は伏せていた視線を上げ、少し目を見開いて由緒を見た。
由緒は再び笑って言った。
「…初めてやとか言うたら、あんた、変に考えて出来んくなるかなって思って」
「…本当に…良かったの?」
「…今更やなあ」
由緒は大きく深呼吸した後、言った。
「うちの初めてなぁ…
好きやけど好きにはなってくれへん人やったわ」
そうして由緒はそっと春の方に寝返りを打ち、春の胸に顔を埋めた。
そうして小さな声で言った。
「…言うつもりなかったのに言っちゃった」
春は何も言えず、ただ黙りこくった。
気付けなかった。
ただ友人として、由緒は自分に接していると思っていた。
由緒がした提案も、友人としてだと思った。
いつから?
いつから由緒は自分を好きだった?
春はそう考えたが、しかしまるで答えは出なかった。
由緒はいつも、ただありのままの春を受け入れるだけで、何の期待も抱いていないと言った様子だったはずだ。
由緒が尋ねた。
「…今…何考えてる?」
そう尋ねられても春が黙りこくっていると、由緒は言った。
「…いつから?って思ったやろ」
そう言って由緒はそっと春から離れ、春の目を見た。
そうして春の顔を見て、小さく笑った。
「…あんなぁ、分かんねん、あんたのことなんか」
由緒は続けて言った。
「…いっぱい話したやろ、今まで、あんたのこと、あんたの考えてることも、いっぱい聞いたやろ
それであんたのこといっぱい知って、やから分かるねん
今こう思ったんやろうなとか、こう考えてるんやろうな、とか
やから好きとか言ったって、あんたが困るんも分かってるんやで」
由緒はそっと目を伏せて、言った。
「…嬉しかったし、気にせんといてや 今日のこと」
そうして由緒はガバッと起き上がり、言った。
「キスもセックスもしたし、次はデートやわ
…まあ順番違うんやろうけど」
その言葉に、春は驚く。
今日でこの提案は終わりだと、何となく思ったからだ。
すると由緒は春を見下げてニヤリと笑い、言った。
「…"え、続けるん?"って思ったやろ」
春はその言葉にゆっくりと起き上がり、そうして伺うような視線を由緒に向けた。
由緒は変わらずニヤッと笑ったまま、言った。
「卒業までって言ったやん
全部付き合ってもらうからな、うちのやりたいこと
ほんまにあんたのこと好きな人がな、どんなふうにあんたに接するか、身をもって教えてあげるわ」
そうして春はやっと口を開いて、言った。
「…本当に…そうしたいって…思ってる?」
すると由緒は言った。
「当たり前やん あんなぁ…
好きな人とはどんな手使っても一緒におりたいもんやで」
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そうして始まった由緒との恋人関係は、由緒が言った通り、本当に卒業まで続いた。
学校では今まで通り昼休み一緒に過ごし、それ以外の時間は無関係を装った。2人が付き合っている、というのは、2人だけの秘密だった。
春が仕事がない平日の放課後には、よく由緒の家で2人で過ごした。
休日には決まって春は仕事が入っていたので、由緒が言うような"遠出のデート"などは出来なかったが、放課後に落ち合い、近くのコンビニやスーパー、公園などに、ただ手を繋いで散歩をした。
由緒はそれをするたびに、"嬉しい"と笑った。
春はその度に少し申し訳ない気持ちを抱き、しかし由緒はそれをすぐに見抜いて、"うちの希望を叶えておいて喜ばせて、申し訳ないと思う筋合いがない"と、春に度々口酸っぱく言った。
初めて身体を重ねて以来、由緒がそれを求めてくることは一度もなかった。
キスさえ求めることはなく、ただ別れ際、いつも春をそっと抱きしめて、"ヘタレなところが、好き"とか、春の欠点に思えるような事を好きだと、由緒は言った。
その欠点は別れるまで会うたびに新しく更新されて、次第に春は次は何を言われるんだろう、と、少し楽しみになるくらいだった。
不思議と、何を言われても嫌ではなかった。
その後に言う由緒の好き、という言葉が、由緒の本心だと言うのが、春にも伝わっていたからだ。
そうして由緒と過ごしていくにつれ、由緒のいった通り、春はそれまでよりもずっと由緒のことを好きだと、そして大切だと思うようになった。
しかしそれでも、最後までずっと、由緒に触れたいと、そんな衝動を抱えることは、なかった。
そうして卒業式の前の日、由緒は春をいつものように自宅へ誘った。
いつものように何気なくくだらないと思えるような話題で2人で話していると、そういえばさ、と本当に軽い調子で由緒は言った。
「今日にしよっか、別れるん」
明日はバタバタするやん?と由緒は笑って言った。
春はあまりに突然のことに驚きながらも、うん、と短く返事をした。
そうして今までありがとう、と言いかけて隣に座る由緒に視線を向けると、先ほどまで明るく笑っていた由緒は俯いて、驚くほど大粒の涙を、ぼとぼととこぼしていた。
春はそれに動揺して、咄嗟に口をつぐんだ。
すると由緒は泣きながら、しかしおどけた声の調子で春に尋ねた。
「…なんで、泣いてるでしょう」
突然の問いに、春は拍子抜けする。
必死に答えを探し、戸惑っていると、由緒は言った。
「…答えは、寂しいからです」
由緒は泣きながら春に目を向け、必死に笑顔を取り繕って、言った。
「…もう………会われへんのが…寂しいから」
春は咄嗟に言った。
「…会えるよ」
すると由緒は言った。
「会われへんよ あんたは…春は、東京行って…これから…死ぬほど売れるし…もう簡単に会われへん …それに……うちがどんだけ会いたいって思っても…春は会いたいって…思わんやろ」
「思うよ」
「思わんよ、思わん」
「思う」
「…何で思うん?」
「…思うよ」
「…何で?」
由緒は春に見せたことのない、ひどく悲しく不安げな顔をして、そう尋ねてきた。
その顔を見て、春はひどく胸が痛んだ。
春はそっと由緒の手に触れ、じっと由緒を見つめて、迷った挙句、言葉を選ばず、ただ本心を言った。
「…由緒が好きだからだよ」
すると由緒は顔を歪ませてさらに涙をこぼし、言った。
「………分かってんのにさぁ
…うちとおんなじ意味じゃないって分かってるのに……そやのになあ……」
そう言って由緒はボロボロと涙を流しながら、笑って言った。
「……好きって言われたら…嬉しいもんやねんなあ…」
そう言って泣き出した由緒を、春は触れていた手をそっと引いて、抱きしめた。
由緒も春の背中に手を回して、強く抱きしめた。
そうして春の腕の中で、由緒はわんわんと泣き声を上げた。
そうして由緒はしゃくりあげながら、必死に春に尋ねた。
「…うちと付き合って…どうやった?」
「…楽しかったよ」
「…ほんまに?」
「…うん」
「……また誰かを…好きなろうって…思えた?」
「…思えたよ」
「…ほんま?」
「…うん」
「…そやったら…ちゃんと…春のことを…ほんまの春を…知りたいって思ってくれる人を…好きにならなあかんよ」
「…うん」
「…ほんで…好きやと思えるような人できたら……ちゃんと大切にするんやで」
「…うん」
「…春の…弱虫で…臆病で…ヘタレで…不器用で…頑固で……そういう…変なところもあかんところも…好きやって…そう言ってくれるような…そんな人しかあかんよ」
「…うん」
そう言って由緒は春から身体を離し、涙を拭い、笑顔を作って言った。
「…恋人出来たら、うち、試しに行くからな」
「…試しに?」
「うん、ほんまにちゃんと春のことを好きでいてくれる人なんか…試しに行くから」
その言葉に春は優しく小さく微笑んで、尋ねた。
「どうやって試すの?」
「…春の童貞奪ったんはうちやでって言いに行く」
春はそれに少しだけ困ったように、でも微笑んで言った。
「それで試せるの?」
「試せる
やって、うちの誇りやもん
春の初めての相手が…初めて付き合った人がうちなん、うちはほんまに嬉しいもん
好きやったら…絶対、初めて、欲しいもん」
由緒は続けて言った。
「…やから…春のこと好きやったら…たぶん…絶対…そんなこと言われたら嫌やって思うもん しかも別れてるのにわざわざ会いに来て、そんなこと言うて帰られたら、絶対に嫌やと思うし…やから…それで春と喧嘩させる」
春は優しく問い返す。
「…喧嘩?」
「…でも喧嘩しても…仲直りしてな うちを当て馬にして、さらに絆深めて…ちゃんとその人、離したらあかんよ」
「由緒は…それして嬉しいの?」
「…嬉しい うちは春の名当て馬として輝くのが夢やから」
そう言って由緒は手を伸ばし、そっと春の頬に触れた。その手は暖かくて、春はそっと微笑んだ。
「約束な …幸せになってな」
「…うん」
そうして由緒はそっと春に顔を寄せ、けれど直前で止まり、そっと顔を俯かせた。
春はスッと身を引いた由緒の手を優しく引き、春から由緒に唇を重ねた。
春は言った。
「…付き合ってくれてありがとう」
すると由緒は再び目にいっぱいの涙を浮かべ、しかしにっこりと笑顔を作り、言った。
「こちらこそ、ありがとぉ」
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アイスを買いに行く、と行って由緒が出て行ってからどれくらいたっただろうか。
1人残された由緒のアパートで、由緒と付き合った1年間のことを思い返し、春はやっぱり約束は守れなかったな、と小さくため息をついた。
由緒と別れて迎えた中学の卒業式を終えてすぐ、春は東京へ上京した。
そうして高校に入学するまでのその期間に、ドラマの脚本家であった向井聡に声をかけられ、身体の関係を求められて、春は素直にそれに応じた。
春は、由緒との約束を果たしたいと思っていた。
きちんと恋愛をして、由緒が与えてくれたことに恩を返したかった。
向井との行為に何の抵抗もなく反応した身体に、やはり自分は男性が好きなのだと自覚しなおしたが、しかし、本当にそれだけだった。
向井に会いたいと、自分から思うことはなかった。
それに向井も、自分のことを知りたいと思っているとは思えなかった。
ただ、自分の容姿が向井の好みに合っただけだったのだろう、と春は思っていた。
それでも自分と同じ性的指向を持つ人もいるのだと思えることは、春にとっては救いであった。
春にだって性欲はあったし、向井に呼ばれてそれに応じることに何のマイナスも感じなかった。
由緒によってもたらされた暖かい想いは由緒と離れて割とすぐに呆気なく薄れていき、1人になった瞬間、恭二に与えられた悲しみを、何度も繰り返し思い出すようになった。
思い出すたびに、怖い、と思った。
人を好きになるのは、そういえば、とても怖いことだった。
またあんな思いをするくらいなら、誰のことも好きになりたくない、と、春はまた思ってしまうようになっていた。
そんな時に、秋に出会った。
秋はいつも、春を知ろうとした。
本当の春を、知ろうとしてくれた。
いつも優しく笑う秋を目で追うようになってしまってから、春は芽生え始めたその気持ちを何度も何度も咄嗟に否定した。
好きになりたくない。
好きになってはダメだ。
だってまた、きっと、おんなじように傷つくことを繰り返すだけなんだから。
それでも秋と過ごして秋に芽生えたその気持ちが勝手に育っていくのを実感するたびに、由緒と交わした約束を思い出した。
"また誰かを好きになろうって思えた?
____思えたよ"
"約束な 幸せになってな
____うん"
好きになってもいいのかな。
いや、でも、またきっと――。
そんな葛藤を繰り返し、何度も秋に近づいては離れた。
弱虫で、臆病で、ヘタレで、と、由緒が好きだと言う前にいつも枕詞につけたそんな自分の欠点たちを、秋から、自分の気持ちから逃げて離れるたびに思い出した。
由緒に言われる時には少しだって嫌だと思わなかったそれらは、1人になるととてつもなく胸に突き刺さり、どんどんと自分のことが嫌いになった。
でも、そうして春が逃げるたびに、秋は何度でも春が勝手に閉めた扉を叩いた。
好きになったらダメなのに。
いや、でも、もしかしたら――。
そんなことを繰り返すうちに自分では制御が効かなくなるほど大きくなった秋への思いに、ついに春は秋が差し伸べてくれた手をとることを選んだ。
そうして秋と付き合うようになって、秋と過ごす日々のその全ては、恐ろしいほど幸せだと思えるような毎日だった。
もうこれ以上は秋のことを好きにはなれないだろう、と思っても、秋はそれをいとも簡単に塗り替えさせてきた。
好きだ、好きだ、好きだ。
こんなに好きな人にはもう出会えないだろう、と毎日毎日思った。
秋とずっと一緒にいたい。
秋が自分を必要としなくなる、その時までずっと。
――いや、必要としてもらえるように、好きでいてもらえるように、頑張らないと。
そう、思っていたのに。
由緒が秋を試したその日――春の初めての相手は自分だと秋に告げた日――、中学の頃の由緒が想像した通り、秋は嫌だ、と春に強く詰め寄った。
秋があんなふうに矢継ぎ早に責め立てるように話すのは、初めてのことだった。
男だったら誰でも良かったんじゃないか、と秋に言われた時、春はそんなわけがない、と強い怒りが込み上げた。
秋だから好きになったのに、秋だからその手をとったのに。
そう思ってすぐ、秋が再び"俺が女だったら好きになっていたか"とそう言い方を変えて尋ねてきた時、春は思わず言葉に詰まった。
分からなかった。
秋が女の人だったら、同じように、秋に触れたいと思っていたのか、分からなかった。
由緒のことをどれだけ大切に思っても決して触れたいとは思えなかったように、秋に対しても、秋が女の人であれば、触れたいと思わなかったのかもしれない、と。
そうして言葉に詰まった春に、秋はそれを見透かしたように落胆してみせた。
そうして、"やめとけば良かった"と秋に言われて、春は張り裂けそうなほど胸が痛んだ。
これまで生きてきた中で感じた痛みとはまるで比べ物にならないほど、それは鋭く鈍く強い痛みだった。
耐えられなかった。
苦しくてたまらなくなった。
ほら、ほら。
だから決めたのに。
もうやめようって。
誰かを好きになったり、誰かを特別に思ったり、そういうの全部、もう、やめようって。
自分の言葉で話すことも、自分の思いを話すことも、やめよう、そう思っていたのに、決めたのに。
そうしてまた、春は秋から逃げ出した。
自分の本当の気持ちから、逃げ出した。
もう終わりにしよう、と秋に告げた時、不思議ともう何も感じなかった。
胸が痛むことも悲しいことも苦しいこともそうした全部はすでに春のキャパをとっくに超えていた。
これでいい。
これがいい。
これが正解なんだ。
もう本当に、本当にやめよう。
そうして秋と離れてからの3ヶ月、秋のことを考えたくないと思っても、無理だった。
別れたあの日のやり取りを何度も回想した。
回想の中で、何度も秋に反論した。
言えなかった言葉を、思いを、回想の中の自分は口にした。
"特別だなんて言われたことがない"、そう言ったあの時の秋に、春は回想の中で何度も言った。
"特別だよ
特別に決まってる
秋だけが特別なのに
こんなにそう思っているのに、思っていたのに
なんで
なんで分かってくれないの?"
回想の中で、春は秋を強く抱きしめた。
"やめとけば良かった" 、そう言った秋に、"そんなこと言わないで"と、春は泣いて縋る。
みっともなくて情けなくて、それでもそれがありのままの自分だ。
"いつもみたいに言ってよ
いつも僕が逃げるたびに追いかけてくれて好きだって言ってくれるように、同じようにそれでも好きだって、そう言ってよ"
それでも結局回想でやり直しを終えても、春は1人だった。
終わりにしよう、そう言って自分が終わりにした。
その事実は変わらなかった。
由緒に連れられ行った秋のライブ。
秋はいつだってそうしてくれていたように、自分への想いを歌にしてくれていた。
でも、その歌はいつもとは違った。
"それでも好きだから一緒にいよう"、そうしていつも必ず一緒に歩む未来を描いてくれていた秋は、その新曲で、自分との未来は描いてはくれなかった。
別れの歌だった。
秋はもう、逃げた自分を連れ戻しには来てくれないんだろう。
そりゃそうだ、当たり前だ。
秋に甘えて頼って救ってもらうばかりで、自分は何も出来ていなかったんだから。
好きでいてくれていることに安心して、でも不安になるたびに逃げて、それでも追いかけて好きだと言ってくれてまた安心して戻って。
そんな情けない自分といるのなんて、もう懲り懲りだろう。
ひどく疲れただろう。
それでも秋は"幸せになれるよ"、"怖いことなんかないよ"、そう歌の中で春にそんなおまじないをかけた。
なんて優しい人なんだろう。
なんでそんなこと、今になってもしてくれるんだろう。
こんな自分に、臆病で弱虫で情けない自分に、そんなふうにしてくれるんだろう。
僕は何ひとつ、秋に何も出来なかったのに。
恭二も由緒も秋も、僕が僕自身として関わった人をみんな苦しめてしまった。
悲しませてしまった。
自分はなんて愚かな人間なんだろう。
嫌いだ。
自分が、自分のことが、今すぐ消えてしまいたいほど、どうしようもなく、嫌いだ。大嫌いだ。
声にならない声を漏らし、春は1人、泣きじゃくった。
だめだ、泣き止まないと。
もうすぐ由緒が帰ってくるだろう。
心配させるだろうし、聞かれてもこの気持ちをうまく話せないだろうし、話すべきでももう、ないだろうし。
そうして何度も涙を拭って深呼吸をしても、涙は止まらない。
消えたい、消えたい、逃げたい、逃げたい、何もかもから、人生から、自分自身から、逃げたい、消えてしまいたい。
春は衝動のままに立ち上がった。
床に置いていた上着を拾い上げる。
由緒には後で連絡を入れよう。
勝手に帰ってしまってごめん、仕事の打ち合わせが入って、とかなんとか、理由をつけて、謝ろう。
そうしてアパートのドアを乱暴に開いて、春はわっとのけぞった。
開いたドアの前には、秋がいた。
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