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第7話「招く男」
ユウヒと会話していると、物事が思わぬ方向に転がることが、ままある。
今もまさにその状況で、俺は彼と並んで座り、路線バスに揺られていた。
「ねぇ、さっきから気になってるんだけど、それなに?」
俺が膝の上で抱えている洒落た紙袋を、ユウヒが指さす。
「フィナンシェ。手土産が必要なんじゃないかと思って。待ち合わせの前に、駅前の洋菓子屋で買った。和菓子のほうがよかったか?」
「手土産?えっと、僕にくれるの?」
「ご家族に、と思って。俺、友達の家なんて訪ねた経験がないから分からないんだけど、こういうときは何か持参するものだろ?」
「そうなの?」
「いや、分かんない。でも、夜会スタッフで俺の補佐してくれてる竹田に聞いたら、菓子折りを持っていったほうがいいって。……だけどあいつ、もしかして俺が女の子の家にでも、行くと思ったのかな?」
路線バスは駅前から、山の方に向かって走っている。乗客は少なく、俺たち二人と、数名だけだ。窓の外は暗く、どの辺りを走っているのか、地元ではない俺には少しも見当がつかない。
「あれ?言ってなかったっけ。父親も母親も、妹も弟も、海外。父の赴任先で暮らしてる。僕、一人暮らし」
「へ?そうなの?」
「うん。そうだよ」
俺は、急に肩の力が抜けた。
友達の家を訪ねるなんて初めてだったから、それなりに緊張していたのかもしれない。
そもそも、どうしてこうなったかと言えば、俺がユウヒに「ゆっくり話がしたい」と持ち掛けたからだ。
俺としては、今日は土曜日で昼で授業が終わるから「一緒にランチでも」というつもりだったのに。
ユウヒからの返事は違った。
「じゃあさ、今夜、僕んちに泊まりにおいでよ。土曜は大人クラスが多くて、レッスンは夕方で終わっちゃうんだ。な?いいだろ?」
この話をしたのは二限目の休み時間。目の前にいたのは、寝て起きたばっかりみたいなOFFのユウヒだったけれど、名案だというように、メガネの奥を輝かせていた。
迷っているうちに三限目の開始を知らせるチャイムが鳴り「じゃあ19時に郵便局で!」と待ち合わせ場所まで決まってしまう。
俺は昼過ぎに寮に戻って、慌てて外泊届を出し、今、こうしてバスに揺られている。
一年に3回だけ許される外泊の権利を、今まで使う機会もなく過ごしていたことが、功を奏したわけだ。
30分ほどバスに揺られたところで、ユウヒが降車ボタンを押す。
新興住宅地と思われる住宅街でバスは停まった。
「バス停から5分くらい歩くんだ」
バス通りから右に伸びる上り坂を進み、まだ新しそうな一軒家の前で、ユウヒが「ここ」と玄関を指した。
「自転車で帰ってくると、最後のこの上り坂がきついんだよねー」
そんなことを言いながら、鍵を開け「どうぞ」と俺を招き入れてくれた。
彼が、こんな大きな家で一人暮らしをしているとは、少しも想像しなかった。
家の中はちゃんと生活感があるが、充分に片付いている。
キッチンから続くリビングには着替えや日用品が、きちんと並べられていた。隣の部屋には、布団が畳んであり、その奥には洗濯物が室内干しされている。
リビングのテーブルやソファが、部屋の端に偏って配置されているのは、このフローリングで、ダンスの練習をするためなのだろう。大きな姿見鏡も、ダンス用なのかもしれない。
「僕の部屋は二階にあるんだけど、面倒くさくてほぼ一階で暮らしてるんだよね。そこのソファに座ってて。ご飯作るよ」
「ユウヒが?作ってくれるのか?」
「母親がさ、ミールキットって言うの?材料が全部セットになって届く宅配を手配してくれてて、定期的に届くんだよ。だから家に帰る日は自炊しないと、溜まっちゃうんだ」
彼は慣れた手つきで、壁に掛けてあったエプロンを制服の上に纏い、料理を始めた。
俺はさっきからただただ驚いている。この数分で、ユウヒという男の解像度が急に上がって戸惑っている。
一人で一軒家で暮らすことは、寮で暮らすより、ずっと労力を使うだろう。ダンスだってあんなに頑張っているのに……。
彼がキッチンに立つ後ろ姿を、俺は尊敬の目で見つめた。
すぐにいい匂いがしてきて、テーブルに回鍋肉が並んだ。
「二人前あるのがこれだけだったから」
「すごい、美味そう」
「美味いよ。味付けも付属の調味料を入れるだけだから、失敗しないし。ライスは冷凍してあるのをすぐチンするね」
俺だって料理はする。中学生の頃の弁当も自分で作っていた。でも、ユウヒの手際の良さには惚れ惚れしてしまう。
いや、たぶん俺はユウヒのことを舐めていたんだ。ダンスしかしていないのだと思い込んでいた。
俺の部屋に泊まらない日は、自宅に帰って用意された食事を食べ、用意された風呂に入り、洗濯も出しておけば畳んで部屋に置かれているような、夢みたいな生活をしていると思っていた。
甘えた男だと見くびっていた。
「すごいな、ユウヒは……」
思わずそう口にしたけれど、彼は「何が?」という顔をして、回鍋肉のピーマンを、せっせと俺の皿に移動させる。
その姿は、俺の知っているユウヒだったから思わず微笑んでしまった。
夕食は、テレビのバラエティ番組を見ながら食べた。
ユウヒはゲラゲラ笑いながら、テレビをあまり見ない俺に、芸人さんの解説をしてくれるが、彼だって詳しくはないようだ。
回鍋肉は美味しく、ユウヒは追加でご飯を解凍してくれ、それを二人で分け合って食べた。
食後には「俺が皿を洗うよ」と申し出てみたが、「いいのいいの」とユウヒが手慣れた様子で食洗器に入れていく。
「コーヒー飲むでしょ」
「あっ、うん。ありがとう」
テレビは知らないドラマが始まったので、ユウヒが消してしまった。
急に静かになったリビングには、コーヒーを淹れるゴボゴボという音だけが聴こえている。
ユウヒは俺に貸してくれるという着替えを取りに、二階へ上がっていった。その隙に、改めて部屋を見渡す。
ここがユウヒが生活している場所。俺の知らない彼が詰まっている場所。
テレビ横には、ガチャガチャで取ったのだろう変な顔をした熊のフィギュアが並べられている。
家族写真だと思われる写真立ての前には、少年漫画が積み上げられていた。
意外と甘いものが好きなのか、お菓子の買い置きも目に留まる。
ここに女の子が遊びにくるようなことは、あるのだろうか。俺を誘ったように、軽い感じでダンススクールの女の子を招き入れたりするのだろうか……。
『お湯張りをします。お風呂の栓はしましたか』
どこからか、そんな機械的な音声が聴こえ、ユウヒがテキパキと寝支度をしてくれているのが分かる。
そうだ、フィナンシェ。
すっかり忘れていたが、持参した菓子折りを開封し、テーブルに並べた。
ちょうどリビングへ戻ってきたユウヒが「美味しそう!」と言いながら、コーヒーをマグカップに注いでくれる。
そうしてようやく、俺の目の前の椅子に座ってくれた。
「で、話ってなあに?」
そうだった。ここへ来た目的を忘れそうになっていた。
「もしかして、告ってくれるの?」
「こくって?」
「チェッ、違うのかー。まぁいいや、それで?」
『こくって』という言葉が、自分の中で上手く漢字変換できなかった。こくって?何のことだ?
それよりも今は、寮に忍び込むリスクについて話を進めることにした。
「昨日の朝に発覚したんだけど、真夜中に学園の塀を乗り越えて骨折した奴がいるんだ」
「あぁ、それはダサいね。でも分かるよ。あの塀、結構な高さだから。怪我する可能性はある」
他人事なのに痛そうに顔を歪めたユウヒが、マグカップに口をつける。
「で、寮としても寮生全員に注意喚起をしてきた」
「あぁ。……つまり、僕はもう泊まれない?」
俺は首を横に振る。
「いや、ユウヒのオーディションまでは残り15日だろ?月、水、金に泊まるとして残り6回。俺も、バレないように上手くやる。だからユウヒも、今までよりも周囲の目に気を付けて忍び込んできて、って話」
「いいの?ハヤセ、寮長なのに」
俺は大きくコクリと頷く。
「もしも真夜中、誰かに見つかって咎められたら、ハヤセに貸してた参考書をどうしても今日中に返してもらいたくて取りに来たって言って欲しい」
「僕が、参考書?あまりに嘘くさいなぁ」
「じゃ、漫画にするか」
「そっちのほうが、リアリティあるね」
「とにかく、オーディションが終わるまでは、泊まりにきていいから」
「やったー!じゃあさ。オーディションが終わったら、結果がどうであれ、お礼にハヤセの願い事を一つ、僕が叶えるよ」
「願い事?」
「そう。なんでもいいよ。キスでも、デートでも、それ以上のことでも」
彼がふふふと笑ったとき、俺はさっきの「告ってくれる」の意味が突然わかり、唖然としてしまった。
先に風呂に入らせてもらう。下着は持参したが部屋着はユウヒのを借りた。
持ってくるのを忘れた歯ブラシは、買い置きを一本もらい、歯磨き粉はユウヒのを使わせてもらう。
俺は「告って」の衝撃からまだ抜け出せずにいて、寝支度をしながらもすっかり無口だ。
けれどユウヒは、楽しげにダンスの課題曲をずっと口ずさんでいる。無口になった俺に気付いたりもしていない。
俺はユウヒに告白しそうな雰囲気を、醸し出していただろうか?お礼としてキスや、デート、それ以上をして欲しそうな顔で、彼を見ていただろうか……。
ユウヒは?
ユウヒはそれに対し、どう思っているのか。迷惑なのか?いや、それなら「お礼」なんて自分から言い出さないだろう。
俺には彼の考えていることなど、分からない……。
分からないから、なお気になる。堂々巡りだ。
「ハヤセ、ねぇ、ハヤセってば」
「え?あぁ、ごめん。考えごとしてた、なに?」
「ハヤセは、二階の僕の部屋で寝て。僕はこの布団で眠るから」
なぜだろう。俺は当然のように一つの布団で一緒に眠るのだと思い込んでいた。
「そんな顔しないでよー。僕だって寂しいよ。でもさ、ここは寮じゃないでしょ。だから僕も歯止めが利かなくなっちゃう」
「歯止め?」
「いつも思ってるんだ、ベッドの中でハヤセを抱きしめながら。キスしたい、触りたい、気持ち良くしてあげたいし、僕もなりたいって」
「えっ、あ、え?え?」
「でも、我慢するって決めたから。願掛けっていうの?オーディションの二次が終わるまでは、我慢する!」
「そ、そっか」
「ごめんね、ハヤセ。期待しちゃってたよね」
俺はブンブン首を横に振る。断じてそんなつもりはなかったのだから。
ユウヒの右腕がダンスの振り付けのように、スッと前に出された。そして長い指で、俺の頬をやさしく撫でる。
辺りが静まりかえる中、彼の顔がゆっくりと俺に近づいてきて……、俺は思わず息を止める。
ONのままの美しく可愛いユウヒは、俺の唇の1センチ手前で方向を変えた。
そして頬に、チュっと音を立ててキスをしてくれた。
「これで許して。ね?」
今夜はたぶん、色々と考えてしまい眠れないだろう。
考えたって、ユウヒのことなど少しも分かる訳がないのに……。
—
翌朝は大慌てだった。
なかなか寝付けず、朝方になってようやく眠れた俺は、9時近くに目を覚ます。
階段を下りてユウヒの元へ行くと、彼もまだ眠っていた。
「ユウヒ、ユウヒ、おはよう。今日ってレッスン何時?まだ寝てて大丈夫?」
起こすのは可哀想だが、遅刻したらもっと気の毒だと思い、声をかける。
「ん、ハヤセ?」
寝ぼけたような彼は、俺を布団に引きずり込もうと長い腕を伸ばしてくる。
その甘い雰囲気に流されてしまいたかった。温かい布団に入り込みたかった。しかし、寸前で思いとどまり、再度声をかける。
「もう9時だよ。大丈夫?起きなくて」
「え!」
急に覚醒したユウヒは飛び起きて、すごい速さで支度を始める。
「ヤバい、ヤバい、どうしよう。あー、昨日、自転車置いてきたんだ。バスじゃん。ヤバい、ヤバい」
俺たちは朝食も食べず家を出て、バス停に向かって二人で走った。
こんなに急いでいても、家を出る前にはしっかりと火の元や施錠を確認していたユウヒ。その姿を見ながら、俺はこの男が好きなのかもしれないと、ようやく認める気になった。
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