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第9話「泣く男」

 ユウヒが整形外科に行った木曜日の夜も、翌日金曜日も、彼が新幹線で東京へ向かった土曜日も、俺が送ったメッセージへの返信は『大丈夫だよ』のみだった。  それは、少しも大丈夫とは思えなくて、俺は心配を募らせた……。  ようやくまともなメッセージが届いたのは、オーディション当日、日曜日の午前だった。 『ハヤセ。今日の時間が決まった』『僕はFグループ』『15時からだから、配信見てね』『オーディエンス票、よろしく』  足の捻挫はダンスに影響があるのかないのか、それを聞きたかったけれど、不躾な気がして我慢する。 『ユウヒ、応援してるから。頑張れ!』  俺が伝えられたのはそれだけだ。  檜垣寮の食堂は、朝食以降、使用できなくなった。  今晩の夕食、明日の朝食は弁当形式で配布され、各自が部屋で食べることとなる。  まずはスタッフ一同で、床や窓を磨き上げた。普段から業者による清掃が入っているので、清潔は保たれているが、より美しい場所へ客を招き入れたいと皆が思っている。  次に隣の談話室との扉が外され、広い会場が出来上がった。  立涌寮から借りたテーブルが追加で運び込まれ、学園のホールからは照明機器が搬入される。  臙脂色のテーブルクロスがかけられただけで、夜会の雰囲気が高まり、皆のテンションがあからさまに上がった。  明日届くはずの、生花やバームクーヘンの手配を今一度確認し、ピアニストやマジシャンの入り時間、リハーサル時刻を確かめる。  細かく各方面に気を配りながら、俺はずっと壁の時計を気にしていた。  15時からのユウヒの配信を見るために、さりげなく抜け出し、自室に戻りたい。  既にIDを作って、配信チケットは購入済みだ。  スマホでも見られるらしいけど、せっかくなら少しでも大きな画面で見たいから、ノートパソコンで見るつもり。  竹田にだけは「ちょっと私用で抜けたいから、その間よろしく」と伝えてある。  できたら彼にも一票投じてもらいたかったけれど、流石に前日準備の最中に俺と竹田が二人して抜けるわけには、いかない。  14時半のことだった。  学園正門の守衛さんから、寮に連絡が入る。 「近隣女子高生の父親だと名乗る方がいらしていて、夜会についての説明を求めています」  は?  今日は日曜日のため、学園の先生方はおらず、寮父が対応に出た。  どうやら他県から引っ越してきた家族で、「夜会などという怪しい招待状を娘が貰ってきたが、男子校の男子寮からの誘いに娘をのこのこと参加させられん」ということらしい。  だったら、断ったらいいのに。  時間が気になる俺にとって、迷惑でしかない。  しかし、寮父は伝統行事である旨を丁寧に伝え、寮長である俺に「会場を見せて差し上げなさい」と言ってくる。  俺はイライラを必死に隠しながら食堂に案内し、臙脂色のテーブルクロスに真鍮のキャンドルスタンドをセットする様子や、ピアノの調律師が作業しているところを見せる。 「立食の形式で食事も提供されます。料理の数々は当寮のシェフが腕によりをかけ調理いたします」 「乱暴な男子生徒がいたりはしないだろうね?」  あー、もうイライラする。この父親は、壁の時計を何度も見上げる俺の様子に、気を遣ったりはしてくれない。 「伝統ある青海波学園の生徒ですので。そこは信用していただくしかありません」  学芸会のような手作り感のある会ではないことを理解した父親は、渋々納得し帰っていった。  正門まで見送り、時計を見れば15時を10分ほど過ぎていた。  俺はとりあえず人の気配のない駐輪場まで移動し、スマホでオーディションの配信にログインする。  時間が少し押していたようで、ちょうどFグループが始まったところだった。  どうやら一つのグループは20人程の挑戦者で構成されているらしい。この中から何人が第三次審査に進めるのか、俺は把握していない。  一人一人が名前と番号、簡単な自己紹介を審査員に伝えていく。  ユウヒは、103番だ。  彼の番になり、画面がユウヒのアップになる。 「葉月ユウヒです。よろしくお願いします」  画面越しでも緊張しているのが伝わってくる。  だけど今日のユウヒは、もちろんONの姿。笑顔はキラッキラだ。  この男は、人の目線が集まると、なお輝けるタイプなのだろう。  配信についているチャットコメントにも『103番、かっこいいー』とか『103番の笑顔ヤバい!』とか流れてきた。  あと心配なのは、捻った足の調子だけ……。 「では、5人ずつ課題曲を踊ってもらいます」  舞台の上はユウヒをセンターにして、5人が並んだ。  ユウヒが繰り返し練習していたあの曲が流れ、彼らが踊り始める。  動きはスムーズで、足の怪我が影響しているようには見えなかった。 「いい……めっちゃいい……よし!」  声を出し、拳を握りしめ見守る。  スマホの小さい画面なのが、もったいない。  途中、自由な振り付けで踊る箇所も、ユウヒはダントツでキレがあり、それでいて体幹がブレず、流れるような美しい動きに惹きつけられた。  曲が終わり、5人が肩で息をしながら一礼したとき、俺は画面に向かって拍手を送る。  そして『103番葉月ユウヒ』という選択肢を押し間違えないよう何度も確認し、オーディエンス票を一票を投じた。  俺の頭には、既にユウヒの合格を讃える言葉が浮かんでいる。  ユウヒしか見えていなかった俺は、彼が合格することを1ミリも疑わずに、夜会の準備へ戻った……。 —  食堂へ向かうと、前寮長のタケル先輩が入り口から中の様子を伺っていた。  例年、受験を控えた三年生は準備には関わらず、当日だけの参加となる。 「先輩!」  背後から声をかけると、先輩はおどけた仕草で振り向く。 「ハハハ。見つかっちゃった。明日が夜会だと思うと楽しみで覗きにきちゃったよ」  本当は、心配で見に来てくれたのだろう。 「気にかけてくださって、ありがとうございます」  素直にそう礼を言えば、先輩はやさし気に目を細めた。 「ハヤセ、最近変わったよね」 「へ?」 「こんなこと俺が言うのもおこがましいけど、前は殻に籠ろうとしているところがあったでしょ。でも、夜会の準備を始めてからかな、殻から外に出てきたように感じるよ」 「殻……」 「夜会の準備以外にも、なにか心境が変わるようなことがあったのかな?」  探るように笑いかけられれば、ユウヒの顔が思い浮かぶ。 「とにかく、明日を楽しみにしてるから。よろしくね」  俺は、自室に戻るため階段を登り始めたタケル先輩の後ろ姿に、深々と一礼した。 「あ、ハヤセ。私用って言ってた件は、終わったのか?」 「ありがとう竹田。もう大丈夫」  俺たちは、チェックリストに基づいて、全ての箇所を時間をかけ確認した。  よかった。全く問題は無さそうだ。 「それでさ、竹田。実は大きな問題がまだ一つ残ってて……」 「え?なに?こんな直前でやめろよな」  竹田の顔が歪む。 「いや。あのさ、俺、まだ招待状を誰にも渡せてない」 「は?何言ってんの、明日だよ。主催寮の寮長っていうのは、とびきり美しくて可愛い子を連れてくるとか言われてんだよ。今さらのタイミングでその辺の子に声かけても、檜垣寮寮長からの招待だって聞いたら、恐れ多いって逃げ出しちゃうぜ」 「え、まさか。そんなことないだろ」 「それで、ハヤセ的にはどうするつもりだったの?」 「招待状を渡したい子がもう一人いるって寮生が、どこかにいるだろって思ってた。だから竹田、そんな奴を知らないかなって」 「無理無理。寮長の招待状を、二番目にいいなって思ってる子に渡そうって男がいるかよ」 「まじか……」 「ダメ元で駅前にでも行って声かけてくるしかないな。ここはもう大丈夫だから。早く行け行け!」  駅前で声をかけるなんて、俺に出来るわけが無かったが、竹田が怖い顔をしていたので、とりあえず招待状を手に寮を出る。  郵便局近くの大手コーヒーショップへ行き、窓側の席に座って外を眺めた。  外はもう暗い。色づいた街路樹を街灯が照らし、秋を彩っている。  正直、このまま時間切れになり「招待する子がいない」という状況に陥ってもいいかな、と思っていた。  それが最も気楽でいい。  突然、テーブルに置いていたスマホが振動する。  手に取るとユウヒからのメッセージだった。そうだ!もう結果が出た頃だろう。逸る気持ちで文面を確認する。 『今、電話してもいい?』 『ちょっと待って、三分後に俺からかけ直す』  俺は慌ててカフェオレを飲み干し、店から出た。  外の気温は下がっていた。それでもユウヒの朗報が聞けると思うと、寒さなど気にならない。  郵便局の前でユウヒに電話をかける。 「もしもし」  俺の声は弾んでいたと思う。 「もしもし……」  しかし、ユウヒの声は沈んでいた。彼が泣いていると、たった四文字で分かってしまった。  俺は彼になんと声を掛けていいのか、分からなくなる。言葉が出てこなかった。  鼻を啜るユウヒの背後からは、駅の構内放送が聞こえている。もう東京駅にいるようだ。 「足の調子、良くなかった?」  ようやく問えたのが、足のことだった。 「違うんだ……、そうじゃ、ない……」  ユウヒの泣き声が、スマホの向こうで悲痛に響く。 「さっき、レッスンスタジオにも、電話した。僕の結果を聞いて、受付のおばさんも、コーチも、みんな、足が本調子じゃなかったから、仕方ないって……言ってくれて」 「だって、怪我さえしなければ」 「違うんだ……。ハヤセ、違うんだ。僕、怪我をしたとき、本当は、少しだけホッとした」 「え?」 「これで落ちても、足のせいに出来るって、実力が足りてないのに、足が痛かったことを、言い訳に使えるって、そう思った……」 「言い訳って……」 「本当に、バケモンみたいに上手いのが、いっぱいいたよ……。怖かった……。足を怪我してなかったら、きっともっともっと、怖かった……」 「ユウヒ……」  それから10分ほど、スマホの向こうで泣くユウヒの声をじっと聞いていた。 「……涙って流すと、スッキリするものだね」  強がったようにユウヒが言う。その声は少しだけ元気になっていた。 「付き合ってくれて、ありがと。そろそろ新幹線が発車するから切るよ」 「あのさ、ユウヒ」  俺は彼の泣き声を聞きながら考えていたことを、口にする。 「結果がどうであれ、お礼に俺の願い事を一つ、叶えてくれるって言ったよな」 「あぁ、うん、言った気がする」 「明日、俺のために時間を作ってよ」 「え?でも明日って……」 「これから、こっちに帰ってきて、ダンススタジオにも顔出すんだろ?」 「あ、うん。ちゃんと報告しに来るよう言われてる……」 「あの受付のおばさんに明日のこと、伝言しておくから」 「え?なに?どういうこと?」  新幹線が発車間近だと、アナウンスが聞こえる。 「乗り遅れるよ、ユウヒ。急いで。明日、会おうな」  そう言って、俺は通話を切った。

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