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第4話
4話 烈火と深淵色
横目に映った霧島の顔から、さっと血の気が引いた。
いつも余裕を纏う唇が、はっ、と短い息をこぼす。
切れ長の双眸は、目の前の女性だけを、まるで悪夢の再現でも見るように捉えていた。
「……姉、さん」
そう呼びはしたものの、その声音も眼差しも、肉親へ向ける穏やかなものとは程遠かった。
初めて対面する霧島の姉は、美しさよりも先に“圧”を感じる。一歩踏み出された瞬間、周囲の空気が震えた気がした。
霧島が「姉」と呼ぶにはあまりにも、怨念と怒りが渦巻きすぎている。
「あなた……、まだ文字書きの真似事なんてしているの?」
「っ……」
「早く!本家に戻りなさい!」
霧島の腕を取って、引きずろうとする姉との間に割って入る。緊張でうまく体が動かないが、今動かないと後々後悔する気がした。何より、いつもの饒舌が一欠片もない霧島は、異常だ。
「っな!何やってるんですか!」
「煩い!弟をどうしようと、私の勝手だ!」
「これ以上、霧島に危害を加えるなら警察を呼びます!」
〝警察〟という言葉に、ピクリとその女は反応した。その隙に、腕をはたき落とすように霧島を引き寄せる。
「貴女が何者かも、霧島とどんな関係なのかも、関係ありません。……お引き取りください」
今にも舌打ちを鳴らそうと結ばれた唇は、喉元まで上がってきた言葉を一度押し込め、再度唇を開いて霧島へ呼びかけた。
「…言うとおりに、しなさい。あの家は、そういう家、なのよ…」
冷たいアスファルトを鳴らしながら、姉と名乗る女はその場を後にした。真歩は、背が見えなくなるまで姉を睨みつけた。
「霧島……」
背を向けたまま呼びかけた。しかし返ってきたのは、彼らしくない、冷たいトーンだった。
「ごめんね。嫌なところ見せちゃったね」
覇気も軽口もない、霧島の口調が気持ち悪い。霧島へ振り返ろうとした時、真歩の頭を冷えた空気が覆った。包むように真歩を胸で抱え、両の目を覆う冷えた指先が触れる。
「霧島?」
「ごめん、今の顔、見られたくねぇわ」
「一寸だけこのままにさせてくれ…」
涙こそ溢れていないが、泣きじゃくる子供の様な声色と、恐怖を抑え込めるように震えていた。
突然の行動に真歩の体は固まってしまった。旋毛に感じるすすり泣く様な呼吸と、背中に感じる見た目より厚い胸板が、霧島冬一の存在を証明しているようだ。
――霧島が、冬の冷気に攫われてしまうのでは。あり得ない想像すら実現してしまいそうな、消え入りそうな霧島に不安にさせられる。
「ホントは、駅まで送ろうと思ったけど、……ここで解散でもいいかな」
「ごめんね」囁くように落とされた言葉を最後に、握りしめた結晶みたいに感覚が遠ざかる。指で遮られていた視界がクリアになって、慌てて後ろを振り返った。
――最後に呟かれた言葉と、タバコの残り香を残して、忽然と霧島は姿を消していた。
それから数日、霧島と連絡を取ることさえ叶わなかった。あの晩帰宅後にLIMEへ連絡を入れたが、現在既読すらついていない。敢えて未読無視をしているのか、それともスマホ自体を見れていないのか……。
件の霧島は、今思い出しても異質そのものだ。
怯えた表情と声色。何かを堰き止めるように、饒舌な口は沈黙していた。目元に影を落としていたあの人物は、よく知る霧島冬一とは程遠い。ドッペルゲンガーでも見たような不安さえある。
真歩から、続けてのメッセージはしなかった。――否、出来なかった。
真歩と霧島はあくまで、『同窓会で久しぶりに再開した旧友』。その肩書以上は存在しないし、育てるつもりなど真歩には無かったはずだ。
ただ物珍しい、かつての知り合いと酒が飲める年齢になった、というだけの理由で会っていたに過ぎない。
そうとでも思わないと、あの『大人』の霧島が、人との関わりを重んじない真歩の心を溶かしたのに、再度放置した憤りが晴れなかった。
――捨てられた、と思ってしまうには近すぎた。
――神渡真歩は、人付き合いが苦手故、扉の開け方を知らない。
「気持ちがざらついている」そう思った真歩はスマホを閉じようと指をスライドさせた。端末を下から持ち上げLIMEを閉じようとしたとき…。
090-✖✖✖✖-✖✖✖✖ からの着信
突然、着信を告げる音楽が、静かな部屋の中に木霊する。耳にこびりつく高い音色が鼓動を急かし、思考よりも先に指が動いた。電話番号を確認するより前に、緑色のボタンを押してしまった。
「しくじった!」声こそ出なかったものの、緊張で心臓は強く響く。言葉が出ず、沈黙していた真歩へ、知らない男の声が神妙そうに語りかけた。
「神渡……真歩さん?」
「?」
初めて聞いた声の男が、真歩の名前を心得ているのに、どうしようもない不安を感じる。電話番号も、名前も、どこから漏れたのだろうか、と回転する思考は酷く凍てついている。
「何方、ですか?」
「失礼しました。ワタクシ、無灯冬和 先生の担当をしております、玖珂綴弥 と申します。」
「武灯冬和」、その名前に覚えはなかった。何度も記憶を反芻しても、真歩の知り合いにそのような人物は居ない。
「えっと、」おそらく間違い電話だろうと、言わなくてはいけないのに、適切な言葉を探しきれず、真歩はモゴモゴと口籠る。言いにくそうな気配を察してか、玖珂と名乗る男が、新たに口を開いた。
「あなたには、霧島冬一、と言ったほうが伝わりますか?」
――霧島。その名前を耳が拾い、一気に心がざわつく。
霧島を知っている?霧島とはどういう関係?――今の霧島は何処にいるの?
津波のように押し寄せる質疑を一旦堪え、冷静を装って電話に応える。
「玖珂さんの言う武灯冬和……。霧島とは現在も連絡を取り合う旧友です」
旧友を、呼び慣れぬ名前で呼ぶことがなんだか気持ち悪い。おかげで歯切れが悪い回答をしてしまったことを後悔した。しかしそんなことは胃に返さない様に、玖珂は話を続ける。
「そうですか、なら話が早いです。ここ数日、武灯…、霧島と連絡が取れないことはご存知ですか?」
「はい」
嗚呼、心得ているとも。なんせ、今真歩を悩ませる最大の問題が、霧島冬一の心の行方である。
あの日、姉を前にして衝撃を受けていた霧島と連絡がつかない。背後関係は知らないものの、玖珂も『霧島と連絡が取れないこと』は共通認識のようだ。
「そうですか……やはり神渡さんも、ご存知でしたか」
電話の向こうで、玖珂が小さく息を吐いた。その息が矢鱈と、緊急性を要している物に感じてしまい、心が落ち着かない。
「現在、霧島の安否など、ワタクシにはわかりません。マンションを訪問しようにも、仕事の関係で、1週間程周辺を離れておりまして…」
言葉を慎重に選ぶ気配がする。真歩は、ただ事じゃない雰囲気にのまれまいと気を踏ん張る。しかし、玖珂の声のトーンといい、既読のつかないLIMEといい、不安を煽る材料はいくらでも見つかった。
「そこで、お願いがあります」
切り替える様な声色に、ピクンと肩が揺れる。玖珂からの提案は予想だにもしない物だった。
「神渡さん。あなたに、一度霧島のマンションを訪れていただけませんか。生存確認だけでもいい。それにコレは――あなたにしか頼めない」
心臓が大きく跳ねる。
提案内容もさることながら、真歩にしか頼めない。その部分が引っかかった。
「おれにしか頼めないって……どう言うことですか?」
「霧島たっての頼なんです。いうのも、霧島はワタクシに何も話してくれない人でして…」
玖珂の困惑と、苦笑いが端末越しに伝わる。
「ワタクシが担当につく前の霧島と言ったら、正直、生きてる心地がしませんでした。しかし数カ月前頃ですかね、徐々に生気が戻り始めた…と言いますか、ボヤッとしていた人間味がはっきりしてきましてね」
「そのおかげで、原稿を落とすことも減ったんです」クスクスと笑うように、短い声を漏らす玖珂。しかし、真歩は玖珂の言わんとしている意味がイマイチ飲み込めずにいた。
「その頃から、あなたと……神渡さんと言う人物と酒を飲んだだの、沢山話し込んだだの、楽しそうに話すんです、彼」
知らなかった。流星の様に真歩に降り注いだ真実。
元気のない頃の霧島がいた事。真歩と会う様になってから活力を漲らせる霧島がいたこと。自分のことを楽しげに仕事仲間に漏らしていた事実。
そのどれもが真歩に雪解けを覚えさせる様だった。
「もちろん、驚きました。霧島が自分の事を語る日が来るなんて、とね」
「あ、俺今小説家やってる」恥ずかしそうに、でも誇らしげに、頬を掻きながら唇を歪める霧島の顔が不意にフラッシュバックする。
そうか、だから霧島は恥ずかしそうにしていたんだ。玖珂曰く、霧島自身をほぼ明かさないという。だからこそだろう、職業を問われることも、話を聞いてもらう事も、霧島にとっては初めての経験で、特別な記憶だったんだ。
「そして、ワタクシは霧島の知り合いをあなたしか知らない。知っていましたか?霧島の私用ケータイ、あなたの番号しか入っていないんです」
「肉親の番号までないんです」おちゃらけているわけでもなく、どうにか笑みは携えようとしているのが伝わる、悲しい温度の笑い声だった。
「だからこそ、神渡さんにしか頼れないんです。――霧島の家へ行って頂けませんか?」
「わかり、ました」
真歩は迷わなかった。霧島は自分だけの星が輝く宇宙を背負っている――真歩はずっとそう思っていた。宇宙に輝く星は、『霧島冬一』という存在を語り、彩るものだと。
でも実際は違っていた。磨き上げられた星々の中、霧島はずっと一人ぼっちだったんだ。
「そんな世界、寂しすぎるだろ」真歩だからわかる痛み。寒さ。今もなおその寒さの中で霧島は独り、膝を抱えているのだろうか。そう思ってしまったら、彼を放っとけなくなってしまった。
食い気味に真歩が応えれば、玖珂は面食らった様に呼吸を飲み、張り詰めた糸が緩む様に小さく笑った。
「住所は後ほどお送りいたしますね」
「武灯先生を、霧島をよろしくお願いします」力のこもった一言に、真歩も電話越しに強く頷き返す。
寒い世界で苦しんでいる霧島に何があったのか。まずそれを聞き出さない限り、真歩も霧島も進めない。
真歩は静かに息を吸い、霧島の影へと歩き出す覚悟を決めた。
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