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第5話

5話 動きだす静寂たる鼓動 「こちら、霧島の住所です」  端末の上には、真歩のアパートから数駅程離れた場所にピンがさしてある。各駅停車しか止まらない静かな街。その一角に霧島の住むマンションがある。こういうきっかけこそなければ、霧島の家を訪れることは無かっただろう。不謹慎だが少しワクワクしている自分がいる。  まさか、こんな近くに住んでいたとは…。飲みの時、いつも真歩の帰宅時間を気にしてくれていた霧島。路線こそ違えど、霧島にもメリットがあったようで少し安心した。    真歩は、玄関で素早く靴に履き替え、勢いのまま家を飛び出した。最低限の荷物しか持たず、肌寒い街中を駆け抜けた。ただひたすらに、霧島の身を案じながら――。    「寒い思いはしていないだろうか」「お腹はすいていないか」「今、泣いていないか」  今までの霧島を思えば、なんでも無いように飄々としていてくれるだろう。しかし、あの夜の霧島は、雪解けと共に消えていく霜のように、所在が不確かだった。それこそ玖珂さんがいっていた、人間味の無い頃の様な儚さ……。  挙げたら切りのない問いかけに、今答えてくれるのは真歩の早打ちする鼓動のみ。  ――霧島に、会いたい。ほかの誰でもない、彼に……。  玖珂さんに送ってもらったURLをもう一度開く。次の電車は3分後だ。このまま走っていれば問題ない。  はやく、はやく……!急かす肩は呼吸と共に上下を繰り返し、体に疲労を訴えるが、止まってなんかいたくない。  途中、赤信号で立ち止まる、この瞬間さえもどかしい。早く彼を冷たい冬から、小春日和まで連れ戻さないと。オレが、霧島にできる精一杯を……!  ICカードを改札に通し、階段を駆け上がる。その時、電車が出発のアナウンスを告げる。想像よりも早く入線していた電車に慌てて走り込む。  笛の合図とともに、真歩の背中で扉が閉まった。  シュー、と鳴る電車は続けて、がたがたと真歩を霧島の元へ届けだした。  ――間に、合った……!真歩は寸でのところで電車に乗り込めたのだ。周りの乗客が真歩の忙しい動作に瞠目していた。恥ずかし気にコートの襟で顔を隠そうにも着ているのは部屋着のパーカーのみ。この時期に似合わない心もとない服装だ。  けれども、そんな恥ずかしさなど気にもならない程には、今は霧島に対して必死だ。  振り返った扉の奥。いつもとは反対側に進む景色。見たことのない土地に不安を覚えるどころか、霧島に近づいている安心感のような、優越感の様なものさえある。    ――不思議な心地に、真歩はまだ気づきたくないと、瞼で蓋をする。    初めて降りた霧島の最寄り駅は、静かなところだった。近隣にカフェや店はなく、代わりなのか二台の自販機と、赤い正方形の吸い殻入れだけの簡素なものだった。  白線の消えかかっているロータリーを左に突っ切る。すれ違う人などおらず、車二台がすれ違える広い道を10分ほど歩いた。  路地を進んでいれば、住宅街と一寸した店がぽつぽつと存在した。霧島も歩いたであろう町と風景。霧島はここを何往復したんだろうか。アスファルトが溶けるうだる夏の日も、今日みたいに指先まで凍えてしまう冬の日も。たかが路地1つに霧島の痕跡を探してしまう。    そういえば、歩きながら横目で捉えた一軒の本屋が脳にこびりつく。品のいい老夫婦が商いしていると、飲み会の席で言っていた気がする。入ったこともないその本屋になんだか愛着が湧いてしまう。    霧島はどんな顔で本を選んでいるのか。  いつもの様な気の抜けたニヒルな笑いで?それとも、武灯冬和と名乗る小説家らしく、真剣な顔をして――?もしかしたら、話し上手な霧島の事だ、本屋の店主におすすめの本を教えてもらっているかも知れない。  真歩の知らない霧島がそこにいる気がして、その暖かな生活を微かに見てみたく思ってしまう。  いつもは霧島に勧められた本を手に取っていたが、次は真歩のお眼鏡に適ったものをあの店で買ってみよう。  もしかしたら、霧島も来てくれるだろうか――。一緒に入店して、気になる本を見せ合って、「それ読んだことある」なんて一枚上手でいるだろうか。お互い読んだことのない本を一冊ずつ買ってくれるだろうか。そのままカフェに入って、読破するまで付き合ってくれはしないだろうか。  霧島の事を考えると、未来への希望が尽きない。真歩には夢がなかったはずなのに、気が付けば小さな未来が生まれていた事に、まだ本人は気づいていない――。   「目的地に到着です」無機質な合成音声が、真歩の手元から鳴る。ドキリとして見上げた右側、自動ドア、インターホン完備の綺麗なマンションがあった。  ――ここの、301号室。霧島の住む家である。  並ぶ、郵便ポストと、生活感のある駐輪場。車を持っている人は少ないようで、三台ほどしかない駐車スペースには、『契約前』の立て看板か出ている。霧島が暮らしている部屋が、自動ドアを隔てた先にある。冒険の様な小さな緊張感が静かに内側で跳ねる。  呼び出すために、部屋番号を入力する。そんな単純な動作さえ、真歩には重大な任務のようであった。何と言えばいいだろう。どこまで踏み込んで良いんだろう。頭の中で謎と配慮が蹂躙する。指が震えるのはきっと寒さのせいだ。そうでもないと、真歩の胸の中にノックをしてきた、霧島の心地よい音に言い訳ができないではないか。    あの夜、霧島の姉と再会した日。今の顔を見られたくないといった霧島。一寸このままで居させて欲しいと言った霧島。最後には、言葉とタバコの匂いだけを置いて忽然と消えた。  不誠実だと、一口にはそう言ってしまえるが、霧島なりの暗部であったことには変わらないだろう。霧島が詳細を語るかもわからない、真歩がそれを受け止めきれるかもわからない。しかし、真歩はそんな独りぼっちの旅路の中で、光を与えてくれた霧島から離れるつもりは毛頭なかった。    ――えぇい!ままよ!  ぐるぐる可能性の話をしていても進まない。今度は真歩が霧島の星になる。その決意は揺らぐことなく、インターホンで主を呼び出した。  なぞられた液晶はひどく冷たい。屋外の静けさをふんだんに吸い込んだパネルは、真歩の指先から熱を吸い取っていく。心臓が高鳴り、緊張に拍車をかける。蹴り破られそうな身体が寸でのところで原型を保っている。走っている時と似た焦燥感と緊迫感に泣き出しそうとなる。逃げたくて逃げたくてしょうがない真歩を繋ぎとめるのは、ただひたすらに霧島を無事に思う不安だけだった。  少しの呼び出し音。でも一生のように長く感じた時間。プツッ、相手が応答する小さな音が、世界をつなぎ合わせた。  呼吸が止まる。ギリギリの周波数を拾った真歩の耳は、静かな霧島の室内を聞いていた。静寂すぎるノイズが霧島の心を映しているみたいで鳥肌が立つ。心地の良い喧しさのない霧島の家はやけにグレー色で、再度、不安が顔を出す。 「……どちら様?」  かすれて、疲れ果てている。そんな気だるい声がスピーカーから漏れる。スピーカー越しに聞こえた霧島の声に安堵する。良かった、生きてた。  どうして姿を消したのか、連絡を付けなかったのか、言いたいことなど山ほどあったのに、真歩の心の中を占めるのは安心感ただ一つだった。  泣き出しそうな双眸を一度伏せて、掌を当てる。涙がこぼれているわけじゃないのに、静かに嗚咽が出そうだ。ギリギリと締め付けられていた心臓が日の光の下露わになる。中心こそ冷え切っているが、確かに今、温かくなろうとしている。横に引き延ばした口角を変えることなく、次の言葉をひたすらに考えた。  そんな感動など霧島には伝わっていない様で、マイク越しに言葉を発さない来訪者に違和感を覚えているようだった。悪戯だと勘違いされて、このままだと切られてしまうだろうか。不安になりながら、精一杯の次の一言を絞り出した。 「……きり、しま?」 「神渡!?」

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