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第10話
10話 余韻と明ける暮
粥を平らげた後、真歩は霧島の薬用に白湯を準備していた。飯まで作ってくれたからと洗い物を引き受けようとした霧島へ「病人なんだから、座ってる!」と指をさしてけん制してみたら、しおしおと罰が悪そうな顔と共にソファへ戻っていった。矢鱈従順な霧島が可笑しくて上機嫌で準備をしていると、背中に声を掛けられる。
「なんか神渡、俺が弱ってると楽しそうだね…」
「え~?ちゃんと心配してたよ?ただ従順な霧島が面白いだけ」
底抜けに明るく軽い調子で反論したが、霧島らしい余裕が戻ってきたこと、食事が食べられたこと…。幾つもの嬉しい事が作用して動かす手は非常に軽い。タンゴでも踊るように次々と片付けられていく。温かい暖房と、先ほどの粥の香りが混ざり合って幸せな冬の香りがする。
そして、真歩はまだ知らない。家事を見る霧島がとても優しい宇宙を携えていた事を。
無事に回復している霧島に安堵すると同時に、激動した真歩の1日も終わりを告げようとしている。その事実が異様に冷たくて、忘れ難く思ってしまう。季節が移ろう様に日は過ぎて、霧島のための奔走が過去のものになるのが異様に怖かった。元気になってくれるのは良い、嬉しい。でも、過ぎた事として、霧島は忘れていってしまうのだろうか。真歩1人がこの1日を執拗に覚えていたって、霧島もそうで無いと意味が無いじゃないか……。
そういえば。真歩は、はたと思う。とても大事な何かを忘れている気がする。霧島に会う事が出来たらしなくてはならない何かが有ったように思う。あれ、元々おれはどうやって霧島の元を訪ねたのか。引っかかりこそ覚えるが明確な回答が思い浮かぶことは無く、霧島と過ごすなんでもない時間ばかりが過ぎていく。
しかし、違和感の正体はすぐにわかる。真歩のスマホが着信を告げて小さく揺れていた。
「神渡ー電話」
「あ、うん」
いち早く着信に気付いてくれた霧島が真歩のスマホを拾い上げ、手渡そうとする。しかし、表示画面を見た霧島の顔が曇った。
090-××××-×××× からの着信
「…この番号」
「電話帳に登録されていない番号だね…」
「うーん」と頭を悩ませる霧島を他所に真歩は応対を急ぐ。恐る恐る真歩が応対ボタンを押している時も、霧島は思考する事を止めなかった。
「あ、それ」
霧島の脳の引き出しが開くのと真歩が第一声を放つのはほぼ同時だった。
「もしもし、神渡さん。ワタクシ玖珂ですが…」
「く、玖珂さん!?」
そうだ、この引っ掛かりは、事の発端である玖珂さんに連絡し忘れていた事だ。点と点が結ばれて急に活発になる心臓と流れ出す冷や汗が止まらない。ひたすら謝る事に徹していた真歩の声をため息1つで受け流した玖珂は、言葉を選ぶようにして続けた。
「その声のご様子ですと、霧島と会えたみたいですね」
「はい、報告が遅くなってしまって本当にすみません」
「…まあ、良いです。元をたどればウチの作家の不始末ですから。で、霧島の方はいかがでしたか?」
「あ、はい。実は霧島……」
熱があった事、家が荒れていた事などを、真歩が見てきた事を拙いながらに玖珂へ伝える。ただ、節々で霧島が「おい」だとか顔を青くさせていたが、何か問題だろうか。少なくとも真歩から見た玖珂さんは“余裕のある大人”に見えたが……。
「成程……。申し訳ありませんが、霧島に代わって貰っても良いでしょうか?」
殊勝な声色の玖珂さんが霧島と話したいという。断る理由もないので「お待ちください」と一声かけて霧島へ引き継ぐ。スマホを手渡した時の霧島は変に青白い顔をしていて真歩の眉間にしわが寄る。
「ほら、霧島。早くしないと玖珂さんが…」
「神渡…お前まじ…余計な事まで……」
「何が?良いから早く」
本気で理解できない、そんな顔をして霧島へスマホを握らせれば、「覚えとけよ…」なんて恨めし気にいう。
意を決したように霧島がスマホを耳に当て、「もし…」と言い淀む。次の瞬間、通話中のスマホとは思えない様な強烈な音が霧島の耳を劈いた。
「ぐぉら!武灯ォ!てめぇナニ風邪拗らせてんだよ!!」
ビクンと、霧島と真歩の肩が跳ねるのは同時だった。豹変した玖珂さんと電話を対応する霧島は、真歩に背を向けており真歩と言えば段々小さくなっていく霧島を見る事しかできない。今更さんざん詳細に霧島の事を語ってしまったのが仇となってしまい胃が痛くなってきた。
「俺、言ったよな?ここ一週間ぐらい東京から離れるって?面倒事起こすなって?」
「ハイ…」
「ったく、お前。神渡さんがいなかったら大変だったんだろ?いつでも俺が面倒見れる訳じゃねえんだから……」
「言い返す言葉もございません…」
近況報告って詳細な方が良いんじゃないか、と言う善意でまさか霧島を売ってしまう結末を迎えるとは……。しおしおと小さくなっていく霧島をただ見ている事しかできず、後悔と自己嫌悪が募っていく。「あそこはもっと上手い言い方があったかも知れない」反芻する自分の台詞、にひたすら点数を付けて段々と縮こまる真歩。霧島と言えば、ぶつぶつと口だけを動かすように謝罪を述べている。
「……神渡さんに、ちゃんと感謝しろよ?」
「ッ!い、言われなくても……!」
「おう」
小声で交わされた応酬は真歩には届かず、渦中の真歩と言えば自己嫌悪に忙しくて、霧島の目は先ほどの悲し気な物から、柔らかいものに変わっていた事に気付けないでいる。
電話で問答している霧島が、自分以上に小さくなっている真歩に気がついてトタトタと歩み寄る。そのまま、しゃがんだ真歩の頭に掌を乗せて、子供みたいな顔で笑っている。反省の色を全く見せない霧島に、そしてその気掛かりな行動に真歩の目がいっぱいに見開かれる。
「――ッ!?」
気まぐれで頭を撫でた霧島の手はサッと引っ込められ、また背中を向けて玖珂と話し込んでしまった。失った人肌に、必要以上の喪失感を感じた。
一体なんだったのだろうか、今のは……。言葉も忘れて電話中の霧島の背中を呆然と見つめる真歩。しかし霧島の横顔は、玖珂との電話を楽しんでいる様に見えて面白くない。さっきまでおれを撫でて子供みたいな顔を向けていたのに、今は玖珂へその笑顔を明け渡している。真歩が見てしまったその事実が、割れたガラスの上を素足で歩く様な痛みを覚えさせる。
「神渡」
「!」
霧島に声を掛けられ、意識が戻ってくる。口をへの字に曲げた真歩が霧島へ振り返る。ふくれっ面にジト目を隠しきれなかった真歩の顔に霧島は一瞬驚く。
「玖珂さんが代われって……何怒ってんの」
「怒ってない」
「神渡~?」
スマホを受け取った真歩はこれ以上霧島へ顔を見せまいと後ろを向いてしまう。そのまま玖珂と数回応対を重ねて電話を切る。手に持ったままだったスマホをズボンのポケットに仕舞い込み、なんであんな態度をとってしまったのか考える。
霧島と玖珂さんは、ビジネスとしてお互い誠実に対応し合っているだけで、そこに必要以上の執着や確執は無い様に真歩は感じる。寧ろ、友人として迎え入れられている真歩の方が一歩上手だというのは明白であろう。……いや待て、何が上手なのか?ただの友人同士で、それ以上でも以下でも無い今の関係に玖珂を引っ張り出してくることがまずもって可笑しいのだ。
形容し難い感情ジェットコースターに振り回される気分だ。霧島の身を案じて数駅離れた彼の家までやってきて、甲斐甲斐しく世話を焼き、今は玖珂との電話を不満に思っている。自分の激動の1日に疲労を感じない方が可笑しい。
案の定、霧島もおれに何と声をかけていいか悩んでしまっているし、病人を困らせるのは不本意だ。気持ちを切り替えて、いつも通りのおれに成ろうとする。人並み以下の夢と希望しか持たないのに、霧島が受け入れてくれた、あの時のおれに――。
「ごめん、霧島。少し疲れたから帰るよ」
「ん?おう。神渡にまで移したら…それこそ玖珂さんにも何言われるかわかんねぇし」
引き留められると、期待していなかったわけではない。でも病み上がりの霧島が心配なのも事実で。真歩は霧島を慮って科白を吐く。ふざけた調子で軽口を叩く霧島の口から出た玖珂と言う言葉。この期に及んでその名前を聞いてしまい頬が少し引き攣る。
「看病ありがとな。気を付けて」
「うん、ありがとう。また飲みに行こう」
「お大事に」そう一言告げて真歩は逃げる様に霧島宅を後にした。
一体自分はどうしてしまったのだろうか、何から逃げているのだろうか。知りたくない感情が堰き止められなくて焦りに形を変えていく。霧島と、今まで通り付き合えるかな……。漠然とした不安が真歩の考え得る内で一番最悪な未来を覗き見る。
「もう……昔に戻りたく無いや……」
彩のなかった日常をただひたすらに消費しているだけの人生。そこには大きな楽しみも悲しみも無く、いっその事世界から迫害された方がマシとすら思っていた。しかしその世界を彼が、――霧島が変えてくれたから今の真歩がある。世界を楽しいとすら思ってしまう真歩は、もう灰色の世界に戻れない。冬の夜、独り言の様に呟いた言葉は霧島には届かない。
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