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第2章 微かな揺らぎ -2-
アシュアがリュイ・クォーリアを連れてくるまでの時間は、「すぐに」と言われた通りあまりにも短く、レンの思考をまとめるには不十分だった。
アシュアの後ろから現れたリュイは、全身至る所に蜘蛛の巣が絡みつき、まるで狭い洞窟を這いずり回ったかのような有様だ。
「百年ほど手入れを怠っていた牢でしたので」
アシュアが取り繕うようにそう言った。
しかし、ここに来るまでの間に払う程度のことはできただろう。それをしなかったのは、敢えてくたびれた様子を見せ、情に訴えようとしているのだとレンは察した。
もっとも当人のリュイは、袖口に絡まった蜘蛛の糸を黙々と払っており、その表情や動きからは、そうした気配は感じられなかったが。
アシュアに促され、リュイは一歩前に出て跪いた。
眠らされた時は髪と目の色しかわからなかったが、改めて見ると、その顔立ちは非常に整っていることに気付く。
服越しでもわかる鍛え上げられた肉体は、蜘蛛の巣や埃まみれでも力強さを帯び、むしろそれらが彼の精悍な美しさを際立たせているかのようだった。
「……なぜ、俺を眠らせた?」
レンは考えた末、リュイにそう問いかけた。
リュイが顔を上げる。藍色の瞳から以前の鋭さは消えていたが、他の者たちがレンに向けるような敬愛や畏怖は感じられない。
「貴方が御心を昂らせたので」
端的に答えると、リュイは口を噤んだ。
元から無口なのか、あるいは余計なことは言わないようにしているのか。
――表情の読めない彼の顔が揺らいだら、どうなるのだろう。
不意にレンはそれを確かめたくなり、更に問いを重ねた。
「使ったのは魔法?」
「はい」
頷いたリュイが、続きを促すようにレンを見る。
「騎士でも魔法が使えるんだ?」
「使える者は限られております」
「魔法が得意なら、あなたが瘴気を祓えば?」
レンが言葉を重ねると、リュイの睫毛が微かに揺れた。
表情は相変わらず硬いままだが、そのわずかな変化が動揺の代わりだった。
「……私ごときができることではありません」
「俺しか瘴気を祓えないのに、俺がちょっと怒っただけで手をあげるんだな」
レンはわざと挑発するように語気を強めてみた。
もっと動揺を見せるかと思ったが、リュイの表情は一切変わらない。
「傷つける意図はありませんでしたが、気に障ったのなら謝罪します」
「無理やり眠らされて、怒らないやつはいないと思う」
「仰る通りです。申し訳ございませんでした」
無表情で謝罪を並べられたら普通なら気分を害するところだが、不思議と、レンの中に怒りは湧かなかった。
その代わり、もっと会話を交わしたい。そんな思いがレンを突き動かす。
「眠らせる魔法って難しいのか?」
「簡単な部類ではありません」
「他に使える人はいる?」
「はい。神殿には治療師や魔術師もおりますので」
リュイがちらりと背後へ視線を向ける。
最初にレンの体調を気遣った白いガウンの男が慌てて一礼した。彼が治療師で、その背後に控える黒いローブ姿の男たちが魔術師なのだろう。
「神殿騎士の仕事って、具体的には何?」
「神殿内の秩序と平和を守り、何より――」
リュイは言葉を切り、深く息を吐いた。
「……何より、稀人様をお守りすることが、私たちにとって最も重要な任務です」
「へえ。あれがあなたの守る手段ってわけか」
「……あのままでは、貴方の身が危険であると判断いたしました」
言っている本人も苦しい言い訳だと自覚しているのだろう。
リュイの後ろで、アシュアが眉間に皺を寄せて小さく首を横に振る。
「あなたの処遇は俺が決めていいんだってさ。ところで俺のいた国では、こういう場合は前例に則るんだけど……前例はある?」
「記憶違いでなければ、152代目の稀人様へ不敬を働いた者が、死罪になっております」
リュイはすらすらと答えると、まっすぐレンを見据えた。
「俺が同じ罰を与えると言ったら、どうする?」
「従うまでです」
「待て、リュイ!」
アシュアが慌てて声を上げたが、リュイの視線は微動だにしない。
「本当に? 死ぬのが怖くないんだ」
――騎士とは、そういうものなのか?
レンはそう思いかけたが、次に返ってきたのは意外な答えだった。
「この世に、喜んで死ぬ者はおりませんよ。もちろん私も」
変わらず淡々と告げたあと、リュイはふっと口元に笑みを浮かべた。
「ただ、貴方が本当にそうお命じになるのなら――従う、というだけの話です」
その一言に、レンは初めて、リュイという人物の輪郭に触れた気がした。
同時に、胸の中に澱んでいた靄が、少しずつ晴れていくのを感じる。
(……彼は、稀人じゃなくて『おれ』を見てくれている?)
思い違いかもしれない。けれどレンは、そう思いたかった。
「……わかった。うん、決めた」
レンは頷くと、心のままに言葉を紡いだ。
「リュイ・クォーリア。あなたには、俺の世話をしてもらう」
室内にどよめきが走る。
リュイにとってもよほど不意打ちだったのか、彼は目を見開き、探るようにレンを見た。
「俺はこの世界について何も知らない。教育係みたいなのはいるかもしれないけど、俺はあなたに教えて欲しい。俺を守るのが神殿騎士の仕事なら、そこに世話を加えてもいいんじゃないかな」
「世話、ですか」
動揺を滲ませた声でリュイは反復し、考え込むようにしばらく押し黙った。
「……世話というのは……どこまでのことでしょうか」
硬い表情のまま真剣に問いかけるリュイに、レンは少し意地悪したい気分になった。
「食事とか着替えとか? あ、風呂もあるのか。ここの風呂って豪華そうだな」
冗談めかして言うと、リュイは生真面目な顔で熟考したあと「承知しました」と頷いた。
その反応が可笑しくて、レンは最後に、彼に一番やってもらいたいことを付け加える。
「俺のことはレンって呼び捨てにすること。敬語も一切禁止」
「…………」
今度こそ言葉を失ったリュイを見て、レンは満足げに微笑んだ。
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