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第5章 静謐の律 -2-
自室に戻ったレンは、椅子に座りぼんやりと考えていた。視線の先にあるのは、わずかな光を放つ台座に載った『魔晶球』と呼ばれる半透明の球体だ。球の下部は白く、上にいくほど濁っていて、てっぺんに至っては墨が塗られたように黒い。
魔晶球は、瘴気の状態をわかりやすく視覚化した魔道具だ。黒い部分は瘴気で、すべて黒くなると世界が滅ぶと言われている。
数日前、神殿魔術師がこの魔晶球を部屋に運び込んだ時、それはすでに三分の一ほどが黒くなっていた。魔術師が言うには、先代稀人が亡くなって五十年ほど経つが、その頃からほとんど変わりがないらしい。
(……けど、そんな時間が経ってたら、いつ結界が壊れてもおかしくないんじゃないか?)
レンの不安は尽きない。
三分の一が黒くなっていればそう思うのも当然だろうが、レンの心情に反して周囲は冷静だ。
元々、瘴気がたびたび迫る辺境地帯はほとんどが無の大地となっていて、瘴気と人里を隔離する森が間に広がっている。瘴気がこの森に到達すると瘴気氾濫の合図となるが、ここ数百年はそうなる前に稀人により浄化されていたという。
つまり今の状態が、この国による平常状態だ。
そう説明されても、やはりレンは考えずにはいられない。
この世界に召喚され、二度と帰れない事実を突きつけられ、けれど肝心の瘴気を祓う力は得られていない。レンが発揮したのは、召喚初日に怒りで嵐を呼んだことだけだ。あれが稀人特有の力だとしても、そんなものは誰にとっても不要だろう。
レンはため息をつくと、魔晶球から目を逸らした。
何かしていないと落ち着かない気分になり、夕飯でも作りに行こうかと立ち上がる。前にリュイが作ったスープのレシピを聞いておけばよかったなと思いながら歩き出すと同時に、部屋にノックの音が響いた。
「レン、夕飯にしよう」
リュイが部屋に姿を見せる。傍にある配膳台にスープを見つけ、レンは思わず顔を綻ばせた。
「それ……」
「ああ、前においしそうに食べていたから、気に入ったのだろうと思ってな」
紅茶とクッキーもそうだが、今日のリュイはレンを甘やかしすぎているのではないか……妙な気恥ずかしさを感じながら、レンは皿を並べた。
「俺、そんなに顔に出やすい?」
リュイは答える代わりに口端をかすかに上げた。別の者がやれば気障に見える仕草も、リュイがやると不思議と様になっている。
「リュイの家……クォーリア家って、三大伯爵家のひとつって言ってたよな」
「そうだが、何か気になることでも?」
「仕草とかいちいち決まってるなと思ってさ」
レンの言葉に、リュイはわずかに目を見張る。
翡翠宮の中では軽装になることの多いリュイだが、それでも常に背筋を伸ばし凛とした姿勢を崩さない。貴族の血脈と日々の習慣がそうさせているのだろうか。
「レン。それは……気に障ったということか?」
「え? 逆だよ逆」
レンがそう言うと、リュイは小さく吐息を漏らす。
「それなら良かった。態度を改めるとしても、多少の時間はかかるからな」
また甘やかされている気配を感じ、レンは話題を変えた。
「俺、爵位には詳しくないけど、三大伯爵ってどれくらい偉いの?」
「ああ、公爵に次ぐ第二位だ。三家をあわせた領地は広大だが、稀人関連に従事する性質上、政治への発言は控えることになっている」
「ふうん、政教分離みたいなものか。……あ、そういえば」
レンはふとはじめて会った日のことを思い出し、顔を上げた。
「最初会った時に宰相がいたけど、王政ってことは王様がいるんだろ?」
「……ああ」
頷くリュイの瞳が一瞬だけ翳るのを、レンは見逃さなかった。不思議に思いながらも、頭に浮かんだ疑問を優先する。
「えっと……俺、王様に謁見しなくていいのかな」
「……いずれは」
リュイは短く答えると、レンから視線を逸らした。
その言葉の裏に含まれる『何か』が、レンの胸に引っかかる。
(会わせたくない……? それとも、王様のほうが俺に会いたくない、とか……?)
会いたくないなら会わなくてもレンは問題ないが、それよりもリュイの態度のほうが気になった。
「……気のせいならいいけど、もしかして、俺に言えないことがある?」
リュイはレンから目を逸らしたまま、無言で配膳を始めた。その態度がレンの問いへの答えに見え、レンは思わず目を伏せた。
「お、おれ、お腹空いたな!」
咄嗟に出した声は変に裏返り、レンは慌てた。
「こ、このスープのレシピ教えてもらおうと思ってたんだ。豆の食感が特に良くて……リュイが考えたのか?」
「いや、これは母から教えられた。母も祖母から教えられたそうだ」
リュイが答えてくれたことにレンは安堵した。
「お母さんは神殿の外で暮らしてるの?」
「クォーリア伯爵領で暮らしている」
「ああ、キアニア地区の外だっけ」
エメル神殿を中心にしたキアニア地区。その三方に三大伯爵家の領地があると教えられたことを、レンは思い出す。
「ここの生活にもう少し慣れたら、キアニア地区にも行ってみたいな。あとリュイの実家も見たいし、他の場所も見てみたい」
レンは何気なく言ったが、リュイが何の反応も返さないことに気づいて視線を泳がせた。
なぜか鼓動が激しくなり、胸の奥が締め付けられるような感覚に陥る。
「……リュイ?」
そっと名前を呼んだが、リュイはレンを見ようとせず、険しい顔のまま虚空を睨んでいる。
深掘りしてはいけない。レンの直感がそう告げた。これ以上、聞いては駄目だと。
「…………もしかして、神殿から出るのに面倒な手続きがある、とか」
駄目だと思いながら、レンの口から言葉がついて出た。リュイの表情の変化を見て、レンは自分の言葉があながち間違いではないと気づく。
「そ、そうだよな。万が一外で怪我したら大変だし。警護つけるなら色々決めることも多いだろうし。お、俺の国でも、そういう話聞いたことあるよ。一年くらい前から計画決めたりするんだろ? 俺はそれでもいい……から――」
レンは口を噤んだ。リュイの目がレンに向けられたからだ。そしてそこには、レンが初めて見る緊張の色が宿っていた。
レンの前へと向き直ったリュイが、突然跪く。
二人の間に張り詰めた空気が流れた。
「……貴方に」
静かな、けれど重苦しさの孕んだ声で、リュイが言う。
「……貴方に、伝えなければならないことがあります」
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