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第8章 兆す翡翠 -2-
さえずりと共に、小鳥が一斉に飛び立った。空へと羽ばたいていく小鳥たちを目で追った後、レンは森を抜けた。
眼前に広がる小さな村。木造の家が幾つか建ち並び、中央には物見櫓と広場がある。レンは初めて見る光景だったが、心にふと、望郷に似た感情が湧いた。
(……また、あの夢か?)
遠くから、人々の笑い声が聞こえた。着飾った一団が、広場へと歩いてくる。
その中に、リュイに似た彼――アヴェンがいた。彼の隣には、花束を抱えた美しい女性が寄り添うように立っている。それを見た瞬間、心が鉛のように重くなるのを感じた。
「おお、戻ったか!」
こちらに気づいたアヴェンが、手を大きく振った。
姿だけでなく、声もリュイによく似ている。近寄るアヴェンをよく見ると、今のリュイより、少しだけ幼さが残って見えた。
「……結婚、するのか」
自分の意思とは関係なく口から言葉が出た。頷くアヴェンを見て「そうか」と息を吐く。
「お前に相談なく悪かった。だが間に合って嬉しいよ」
リュイは、レンに向かってこんな言い方はしない。だが、レンの心は、違和感なくそれを受け取っている。
(もしかして、誰かの追体験をしている……?)
レンの思考を邪魔するように、アヴェンは言葉を続けた。
「幼馴染のお前に祝福されるのが一番嬉しい」
そう言われた時、心が一層重くなった。油断すればその場に崩れ落ちてしまいそうな重苦しさだ。
「祝ってくれるだろう?」
藍色の瞳に見つめられる。
呼吸が一瞬止まった気がした。
呆れとも、悲しみとも、後悔とも違う。いや、それらすべてを混ぜたような、形容し難い感情の波を、ため息で吐き出した。
「もちろんだ」
そう言うと、両手を広げた。
途端に、雲は晴れ、陽光が降り注いだ。地面の草木がさわりと揺れ、一斉に花が咲く。人々が歓声を上げ、歌い、踊り出した。
どこからともなく現れた精霊たちがそれに混ざるのを、レンは呆然と見つめていた。そこにいる全ての人が精霊と語らい、笑い合っている。
レンは、絵本で見た景色を思い出した。
スピカが言っていた「普通」は、このことだったのだろうか。ここは今よりずっと昔で、昔の人々は、普通に精霊と語り合っていたのだろうか。
とても美しい、本当に美しい祝福の光景だった。
だが、心はなぜか、ずっと冷たいままだ。
「アヴェン、今日のこの日を祝福しよう」
祝いの言葉なのに、心は冷えている。
自分が『彼』じゃないからか、それとも、彼自身がそう思っているからなのか、レンにはわからない。
アヴェンに促され、喧騒から離れた。
木立の下に立つ。葉擦れの音が、妙に耳についた。
「北の瘴気はどうだった?」
横に並んだアヴェンが、つと顔を寄せて問う。
「全て祓った。しばらくすれば水が清められ大地を潤すだろう」
「それは良かった。あそこは良い石が採れる。明日にでも鉱夫を向かわせよう」
「急ぐこともあるまい。……結婚にしてもそうだ。私は相手の名前すら知らされていなかったぞ」
「それはだな……」
口籠るアヴェンを見て、問い詰めるような口調になってしまったことに気づいた。
「……実はあの娘は、興行で村を訪れた一団の踊り子でな」
そう言いながら、アヴェンが照れくさそうに頬を掻く。
「俺がその……つまり彼女の仕事を奪ってしまったから、責任を取ったということだ」
アヴェンが女性へと視線を向けた。花束を抱えた彼女が、誰かと語らいながらそっと腹を撫でる。
――子が生まれるのか。
そうわかった途端、また心が冷えるのを感じた。この感情のまま指を鳴らせば、たちまち大地が凍るほどに。
「つまり……」
しかし口から出てきたのは、呆れたような笑い声だった。
「あの娘は舞台ではなく、お前の上で踊った、ということか」
なぜそんな言葉が出てきたのかわからない。
まるで、心と思考と体が、まったく別の物のようだった。
アヴェンが一瞬目を丸くし、ついで吹き出した。
「お前もそういう冗談を言うのだな」
アヴェンはひとしきり笑ったあと、視線をまた妻となる女性へと向けた。
「生まれる子の名は、お前に付けてもらいたい」
彼の目は未来に向けられていた。
妻と、やがて生まれてくる子。彼らと築く未来を守っていく、そんな眼差しだった。
「……お前の頼みなら」
そう返す。アヴェンはこちらに微笑みを向けた。
――この笑顔が、見られるのなら。
不意に、誰のものかわからない言葉が浮かぶ。
正面に立ったアヴェンが、突然跪き、手を取った。
風が吹き、ほんの一瞬、人々の喧騒が消えた。
木々のざわめきも、小鳥のさえずりも。まるで、そこだけが切り離されたかのように。
「……貴方が宿命に身を捧げるように、俺もこの命を貴方に捧げよう」
囁くように宣言したアヴェンが、手の甲に口付ける。
「親愛なる我が友……エメル」
エメル――初めて召喚された稀人の名だ。
レンがそれを理解したのとほぼ同時に、激しい痛みに襲われた。
まるで身を引き裂かれるような激しい衝撃。無数の感情が渦巻き、喚き、暴れ出す。
ふと、まるで張り詰めていた糸がぷつんと切れたかのように、それらが消えた。
『うそつき』
声が響いた。少年のような、老人のような――ただただ絶望を孕んだ声だった。
『――お前の真実の愛を、私は得られないのに?』
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