26 / 40

第8章 兆す翡翠 -2-

 さえずりと共に、小鳥が一斉に飛び立った。空へと羽ばたいていく小鳥たちを目で追った後、レンは森を抜けた。  眼前に広がる小さな村。木造の家が幾つか建ち並び、中央には物見櫓と広場がある。レンは初めて見る光景だったが、心にふと、望郷に似た感情が湧いた。 (……また、あの夢か?)  遠くから、人々の笑い声が聞こえた。着飾った一団が、広場へと歩いてくる。  その中に、リュイに似た彼――アヴェンがいた。彼の隣には、花束を抱えた美しい女性が寄り添うように立っている。それを見た瞬間、心が鉛のように重くなるのを感じた。 「おお、戻ったか!」  こちらに気づいたアヴェンが、手を大きく振った。  姿だけでなく、声もリュイによく似ている。近寄るアヴェンをよく見ると、今のリュイより、少しだけ幼さが残って見えた。 「……結婚、するのか」  自分の意思とは関係なく口から言葉が出た。頷くアヴェンを見て「そうか」と息を吐く。 「お前に相談なく悪かった。だが間に合って嬉しいよ」  リュイは、レンに向かってこんな言い方はしない。だが、レンの心は、違和感なくそれを受け取っている。 (もしかして、誰かの追体験をしている……?)  レンの思考を邪魔するように、アヴェンは言葉を続けた。 「幼馴染のお前に祝福されるのが一番嬉しい」  そう言われた時、心が一層重くなった。油断すればその場に崩れ落ちてしまいそうな重苦しさだ。 「祝ってくれるだろう?」  藍色の瞳に見つめられる。  呼吸が一瞬止まった気がした。  呆れとも、悲しみとも、後悔とも違う。いや、それらすべてを混ぜたような、形容し難い感情の波を、ため息で吐き出した。 「もちろんだ」  そう言うと、両手を広げた。  途端に、雲は晴れ、陽光が降り注いだ。地面の草木がさわりと揺れ、一斉に花が咲く。人々が歓声を上げ、歌い、踊り出した。  どこからともなく現れた精霊たちがそれに混ざるのを、レンは呆然と見つめていた。そこにいる全ての人が精霊と語らい、笑い合っている。  レンは、絵本で見た景色を思い出した。  スピカが言っていた「普通」は、このことだったのだろうか。ここは今よりずっと昔で、昔の人々は、普通に精霊と語り合っていたのだろうか。  とても美しい、本当に美しい祝福の光景だった。  だが、心はなぜか、ずっと冷たいままだ。 「アヴェン、今日のこの日を祝福しよう」  祝いの言葉なのに、心は冷えている。  自分が『彼』じゃないからか、それとも、彼自身がそう思っているからなのか、レンにはわからない。  アヴェンに促され、喧騒から離れた。  木立の下に立つ。葉擦れの音が、妙に耳についた。 「北の瘴気はどうだった?」  横に並んだアヴェンが、つと顔を寄せて問う。 「全て祓った。しばらくすれば水が清められ大地を潤すだろう」 「それは良かった。あそこは良い石が採れる。明日にでも鉱夫を向かわせよう」 「急ぐこともあるまい。……結婚にしてもそうだ。私は相手の名前すら知らされていなかったぞ」 「それはだな……」  口籠るアヴェンを見て、問い詰めるような口調になってしまったことに気づいた。 「……実はあの娘は、興行で村を訪れた一団の踊り子でな」  そう言いながら、アヴェンが照れくさそうに頬を掻く。 「俺がその……つまり彼女の仕事を奪ってしまったから、責任を取ったということだ」  アヴェンが女性へと視線を向けた。花束を抱えた彼女が、誰かと語らいながらそっと腹を撫でる。  ――子が生まれるのか。  そうわかった途端、また心が冷えるのを感じた。この感情のまま指を鳴らせば、たちまち大地が凍るほどに。 「つまり……」  しかし口から出てきたのは、呆れたような笑い声だった。 「あの娘は舞台ではなく、お前の上で踊った、ということか」  なぜそんな言葉が出てきたのかわからない。  まるで、心と思考と体が、まったく別の物のようだった。  アヴェンが一瞬目を丸くし、ついで吹き出した。 「お前もそういう冗談を言うのだな」  アヴェンはひとしきり笑ったあと、視線をまた妻となる女性へと向けた。 「生まれる子の名は、お前に付けてもらいたい」  彼の目は未来に向けられていた。  妻と、やがて生まれてくる子。彼らと築く未来を守っていく、そんな眼差しだった。 「……お前の頼みなら」  そう返す。アヴェンはこちらに微笑みを向けた。  ――この笑顔が、見られるのなら。  不意に、誰のものかわからない言葉が浮かぶ。  正面に立ったアヴェンが、突然跪き、手を取った。  風が吹き、ほんの一瞬、人々の喧騒が消えた。  木々のざわめきも、小鳥のさえずりも。まるで、そこだけが切り離されたかのように。 「……貴方が宿命に身を捧げるように、俺もこの命を貴方に捧げよう」  囁くように宣言したアヴェンが、手の甲に口付ける。 「親愛なる我が友……エメル」  エメル――初めて召喚された稀人の名だ。  レンがそれを理解したのとほぼ同時に、激しい痛みに襲われた。  まるで身を引き裂かれるような激しい衝撃。無数の感情が渦巻き、喚き、暴れ出す。  ふと、まるで張り詰めていた糸がぷつんと切れたかのように、それらが消えた。 『うそつき』  声が響いた。少年のような、老人のような――ただただ絶望を孕んだ声だった。 『――お前の真実の愛を、私は得られないのに?』

ともだちにシェアしよう!