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第8章 兆す翡翠 -3-
「レン!」
ひゅっと喉で息が鳴り、直後激しく咳き込んだ。
リュイに背中を撫でられ、ゆっくりと呼吸を取り戻す。
「良かった……!」
目が合うと、リュイは安堵の表情を浮かべた。
「俺……」
「突然意識を失ったんだ。まるで魂が抜けてしまったかのようだった」
その時のことを思い出したのか、リュイがわずかに身震いをする。
「目を覚まして良かった」
抱きしめられ、あたたかな温もりの中でレンは息を吐いた。
だが指先と、そして心の奥底が、まだひんやりと重い。
「……アヴェン」
抱きしめられながら、レンはぼそりと呟いた。
顔を覗き込んできたリュイに、夢で見たことを伝える。けれどそれは、説明するには難しいことだらけだった。
「……俺は、夢の中でエメルと呼ばれてた」
「エメル……最初の稀人の記憶を見たのか?」
「わからない」
レンが首を振ると、リュイは口に手を当てて考え込んだ。
「……レン、その相手の男、アヴェンは、エメルのことを『幼馴染』と呼んでいた、と言ったな?」
「あ、ああ、確かにそう言っていた」
頷いてから、レンは「あっ」と気づいた。
召喚される稀人は20歳前後の若者だ。その彼に幼い頃からの知り合いがいるのは辻褄が合わない。
「アヴェンの見た目……今のリュイより若く見えた。10代後半……くらいだったかも」
「記録によれば稀人の最年少は19歳。もっと若い時に召喚されたとしても、数年だけの付き合いの者を幼馴染と呼ぶだろうか……」
それに、唯一瘴気を祓える神格化された存在に対しあれだけ気軽に接するのは、よほどの信頼関係か、長い年月がないと難しいはずだ。
「確か俺の年齢も平均からは外れてるんだよな?」
「ああ、しかしその数字も、今残されている資料の寄せ集めに過ぎない」
そう言ってから、リュイは小さく息を吐いた。
「……レンの見た夢の主が本当にエメルなら、そもそも俺たちの尺度で測るのが間違っているのかもしれないな」
初代エメルは、今から一万七千年以上も前に召喚されたと伝えられている。だが、それを証明する物は何ひとつ存在していない。伝承や物語といった不確定な虚像でしか、エメルを表現する物はないのだ。
ただの夢で片付けるにはあまりに重く、しかし説明のつかない事由を前にして、二人の間に沈黙が流れた。
レンはふと顔を上げ、リュイの頬に残る傷へ手を伸ばした。少しのためらいのあと、そっと指先で触れる。
「ごめん……傷つけて」
「気にするなと言っただろう」
「部屋も荒れちゃったな。あ、そういえばスピカは――」
何も言ってこない精霊の姿を目で探そうとした時、突然扉が開き、ラティが飛び込んできた。部屋の惨状を見て一瞬だけ立ち止まり、だがすぐに駆けてくる。
「結界が崩壊した!」
ラティの声にリュイが即座に立ち上がる。
「瘴気は!?」
「既に森を枯らし始めてる……瘴気氾濫が起こっちまった……!」
レンは寝台から降り、魔晶球へ駆け寄った。
上部の黒い部分が蠢き、小さな触手をいくつも垂らしている。その言いようのない不気味さに本能的な嫌悪を感じ、レンは思わず後ずさった。
動けないレンの背後で、ラティが怒鳴るように言った。
「リュイ、俺はこれから辺境地域へ行く。アシュアは別件で王都に行ってるがすぐ戻るはずだ。お前は――」
レンの鼓動が鳴る。耳鳴りが、ラティの声を掻き消した。
部屋を出ていく靴音が響き、沈黙が残った。
自分にはまだ、瘴気を祓う力はない。わかるのだ。悲しいほどにはっきりと。
(俺に……夢の中のような力があれば……)
そう思った瞬間、胸の奥底に、ほんのわずかだが奇妙な気配がした。
「王様、おきる?」
耳元でスピカが囁いた。
「起きるなら、手助けしてあげる」
スピカの姿は見えない。声だけが、やけにはっきりと届いた。
「お前の中に眠る『彼』を解放してやろう――」
(彼……?)
「レン」
リュイに両肩を掴まれ、レンは振り向いた。
「レン、大丈夫だ」
瘴気氾濫の報に混乱していると思ったのだろう。リュイが優しい声で落ち着かせようとしている。
「……リュイ、俺の中に、何かがいるみたいなんだ」
「どういう意味だ?」
「俺にもわからない。けど、その力があれば、瘴気が祓えると思う」
「待て、危険だ」
「このまま何もしなかったらもっと危険だよ!」
レンの言葉にリュイが言葉を詰まらせる。
「きっと、大丈夫だよ」
レンはリュイに頷くと、姿の見えないスピカに願った。
その瞬間、眩い光がレンを包んだ。
「レン! レン――!」
リュイの声が遠くなっていく。
ふっと光が消え、あたりは闇に呑まれた。足元の感覚がなくなり、落ちていく。
体を駆け抜けていく風と、それとともに去っていく何か。肌を伝う感触が、少しずつ失われていくのを感じながら、レンは落ちていった。
どこまでも、どこまでも――。
◇ ◇ ◇
リュイは眩い光に思わず目を閉じた。
だがすぐに片目だけ開く。光の中でぐったりと横たわるレンの姿を見つけ、慌てて抱き上げた。
「レン、レン!」
レンの体の表面に漂っていた光が徐々に消えていき、最後の一粒が弾けた。腕の中のレンがわずかに身じろいだのを見て、意識があることにリュイは安堵した。
「レン」
もう一度名前を呼ぶ。
瞼が微かに震え、動いた。まつ毛が揺れ、わずかに濡れた瞳がリュイを見る。
宝石のような、透き通った翡翠色の瞳だった。
「……レン?」
呆然としながら名を呼ぶと、レンは一瞬だけ目を見開いた後、リュイを睨みつけた。
瞬間、腕の中の体が消えた。はっとして顔を上げると、立ち上がったレンが、まるで蔑むかのようにリュイを見下ろしていた。
「不敬だぞ、アヴェン」
アヴェンと呼ばれ、リュイはびくりと体を震わせた。
違う名を呼ばれたからではない。その瞬間、体が、細胞に至るまで、なぜか強烈な畏れを感じたのだ。
リュイは口を開いた。一瞬で乾いてしまった口内がひどくひりついている。
「レン……じゃないのか……」
翡翠の瞳を持つ彼は、とてもつまらなそうにリュイを一瞥した。
そうしてから、不意に口端を歪める。
「お前には、特別にエメルと呼ぶことを許そう」
エメル……初代稀人にして、絶対的な力を持つ神の化身。
エメルと名乗った彼が、片手をあげた。途端、リュイの体はとてつもない力で地面に押し付けられた。
強制的に平伏させられたリュイに、彼の冷たい声が告げた。
「こうべを垂れよ。お前たちの王が帰ってきたのだ」
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