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第9章 歪なる静謐 -4-

 リュイは言葉を返せない。  今まで信じていたものが、全て覆ったのだ。  呆然とするリュイに、エメルは慈愛に満ちた眼差しを向けた。 「そう悲観することはない。私が全て終わらせる」  リュイは咄嗟にエメルを見たが、彼の言った言葉を理解するのに数秒かかった。 「私が最初に瘴気を祓ってから一万七千年余り、祓っても祓っても瘴気は生まれる。そんな世界で生きながらえることに、何の意味があるのか」 「この世界を滅ぼすと……そう言っているのか?」  リュイが問うと、エメルは不思議そうに首を傾げた。 「ではまだ続けるか? 無辜の……なんの関わりもない異界の者の命を使って?」  リュイは答えられず、言葉を呑み込んだ。  そんなリュイを見て、エメルは満足そうに頷いた。 「いいのだ、アヴェン。お前はいつも答えを出さない」  風が吹いた。  リュイは自分の膝が震えていることに気づいた。先ほどからずっと、足元がおぼつかない。  エメルの発した言葉は、受け入れ難いという段階をはるかに超えている。けれど完全に拒絶できないのは、リュイ自身が心のどこかで、掟に対して否定的な感情を持っていたからかもしれない。 「兄上!」  声と共に、弟の背中が視界に飛び込んできた。 「兄上、ご無事ですか!?」  リュイとエメルの間に立ったレリオは、エメルを見るとびくりと全身を震わせた。 「あ、兄上、この方は――」  レリオはそう言うと、ぺたりとその場に座り込んだ。両目からは涙がとめどもなく流れ、顔を上げることもできず、がくがくと震えている。 「ここには誰も入れないはずだが。……兄弟か、なるほど」  エメルは考える仕草をすると、不意に片手をあげた。その瞬間レリオの体が浮かび、蔦のようなものが全身に巻き付いた。 「ひっ……」  エメルが、縛り付けられたレリオの背後に立つ。  首筋に手を這わせながら、試すような目をリュイへと向けた。 「魔法陣の本来の姿に戻し、この者を犠牲に瘴気を祓うか、瘴気を放置し世界を終わらせるか。お前はどちらを選ぶ」  リュイは立ち上がろうとしたが、抑えつけられ体が動かない。  それでもエメルを睨みつけながら、口を開いた。 「俺の体を使え!」 「お前は残る側だよ」  レリオが嗚咽を漏らしながら、抵抗しようと身を捩らせた。 「暴れるな。王エメルの依代になれるのだ」  エメルがレリオの首筋に爪を立てるのを見て、リュイは「やめろ!」と叫んだ。  エメルは、優しい――だが冷めた眼差しをリュイに向けた。 「近しい者を犠牲にするのは、許せないだろう。そんな当たり前のことも、自身に置き換えなければ人は気づけない」  エメルの言葉は、リュイにひとつの記憶を呼び起こさせた。  レンが召喚され、目を覚ました彼を初めて見た日。  二度と元の世界に戻れないと知り激昂した彼を、リュイは強制的な眠りという暴力で抑えつけた。あの時の自分は、なんと傲慢だったのか。  帰りたいと泣いていたレンの姿を思い出す。  リュイは目を伏せると、その場に跪いた。 「……私の弟を解放してください。その代わりに、私の命を貴方に捧げます」 「知ってはいたが、お前は強情だな」  エメルはしばらく何か考えたあと、手を動かした。レリオの体が消える。 「レリオ!」 「騒ぐな。神殿の外に放り出しただけだ。なに、死んではいない」  エメルはそう言い、リュイに近づいた。 「趣向を変えよう」  眼前に立ったエメルが身を屈める。  耳に、ねとりと舌の感触がした。 「お前の体をもらう」  リュイは死を覚悟したが、微笑んだエメルがしたのはリュイへの口付けだった。 「なにを……っ」 「言っただろう。お前の体をもらう、と」  エメルは身を起こすと、片手を空へと掲げ、ひと振りした。 「今、瘴気を止める結界を張った。ただしそれは、夜明けまでしかもたない」  そう言ったエメルが、指先でリュイの顎先を持ち上げる。 「アヴェン、私を抱け」 「なっ……」 「毎夜、お前が私を抱くたびに、私は結界を張り直そう」  つまり、拒否すれば結界は消え、瘴気が世界を滅ぼす。 「だがその体は……」  レンの魂が、彼が、眠っているはずだ。 「世界を犠牲に己を貫くのなら、そうするがいい」  エメルは囁くように言うと、リュイの頬を撫でた。 「閨で待っているぞ」  そう言い残し、エメルは姿を消した。

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