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第10章 神へ至る夜 -5-
風が小石を巻き上げ、窓を叩いた。
結界は貼り直されたものの、嵐は止む気配を見せない。
リュイが部屋に入ると、エメルは窓辺の椅子に座り外を眺めていた。
昼近くに寝台を出てから、ずっとこうしてただぼんやりと過ごしている。その姿は、窓辺で外を眺めていたかつてのレンを思い起こさせた。
リュイの存在に気づいていないのか、エメルはしばらくすると、頭を壁に預けて目を閉じた。ほどなくして微かな寝息が続いた。
リュイは、無意識に自分の腰元へ手を伸ばした。指が短剣の柄に触れる。だが、指先は震え、柄を掴めなかった。
レンの体を傷つけたくない。それにもし結界が消えたら――葛藤するリュイの前で、不意にエメルが目を開けた。
寝るフリをしていたのだと、リュイは察した。
エメルはリュイを一瞥もせず、窓の外を眺めながら、口を開いた。
「……昔、私がこうして窓辺でまどろんでいた時、お前は今と同じように、私を見つめていたな」
エメルの言うお前とはアヴェンのことだろうか。眉根を寄せたリュイに、エメルは構わず言葉を続けた。
「あの時、お前が後ろ手にナイフを隠し持っていたことを、私は知っていたよ」
エメルはゆっくりと息を吐き、瞼を閉じた。
「殺したいほど憎んでいたはずの私に、なぜお前は何も言わず、態度も変えず……」
エメルはもう一度息を吐くと、目を開け、視線を窓の外へと戻した。
「お前はなぜ、ずっと、私のそばにいたのだろう」
そう言ったきり、エメルはまた身じろぎひとつせず、ただ窓の外を眺め続けた。
◇ ◇ ◇
「アヴェン、アヴェン!」
部屋に入り、声を張り上げて呼ぶと、アヴェンは読んでいた本を閉じて顔をあげた。
「どうしたエメル」
「あんな立派な神殿を立ててくれたことはありがたいが、やはり神に祭り上げられるのは私の性に合わないよ」
アヴェンは立ち上がると、肩をすくめた。
「そう思うのはあなただけだ。民はみなあなたを王と呼び、神と崇めている」
「だが、私は瘴気を祓うことしかできない」
「だからこそだ。お陰で、辺境以外は随分と暮らしやすくなった」
アヴェンが窓の外を指差す。外に広がる光景は穏やかで、どこまでも続く草原の向こうには、青い空が広がっている。
「それよりも、あなたの生誕祝いをどうするか考えねば」
呑気なアヴェンを見ていると、抗議するのがばからしく思えてくる。だが、これだけは伝えなければと、口を開いた。
「間違っても盛大にやろうなどと言うなよ。あと、見合いの話を持ってくるのもナシだ」
「そろそろ身を固めてもいいと思うのだが」
「何度も言っているだろう。私は結婚するつもりも、子を為すつもりもない」
アヴェンはしばらく考えたあと、「どうしてもか?」と食い下がってきた。
「どうしてもだ」
諦めきれない様子のアヴェンに、深く息を吐く。
「また同じ話を持ってきたら、本気で怒るぞ」
そう言って背を向ける。
「本気、か……」
アヴェンの声が背中にかかる。
「……怒りでもなんでも、ぶつければよいのに」
視界が暗くなる間際、続くアヴェンの言葉が、耳に届いた。
「しかしそれは、俺も同じか」
チカチカと視界が揺れ、また場面が変わった。
目の前に、不安げな顔をした少年が立っている。
「今度は東の森まで行くって?」
「うん……」
頷くと、少年は少し苛立たしげに、亜麻色の髪をがしがしと掻いた。
「昨日、湖の瘴気を祓ったばかりだろ? 毎日のように歩き回って力を使って……大丈夫なのか?」
「うん。瘴気を祓うのは、そんな難しくないんだ。最近は少しずつ、他の魔法もうまくなってる」
「そうか……」
少年は息を吐くと、安心させるような笑みを向けてきた。
「きっとみんなエメルに期待しているんだよ。ほら」
少年が指差す先に精霊が現れ、ダンスを踊った。
「星降る民も君を讃えている。君がいなかったら、俺たちは全員、明日をも知れぬ命だ」
精霊のダンスを眺めながら、心に湧いたのは孤独感だった。
「……なんで、僕なんだろう。みんな僕のことを、神の子って言う」
無意識に少年の服の裾を掴んだ。
「僕は怖いよ、アヴェン」
アヴェンはこちらに視線を向けると、顔を覗き込んできた。
「大丈夫だよ、エメル」
アヴェンの指が目元に触れる。
そっと、涙を拭われた。
「俺がずっと、そばにいる」
アヴェンに抱きしめられ、目を閉じた。
「アヴェン、愛してる。愛してるよ。ずっと僕のそばにいて」
「ああ、俺も愛してるよ、エメル」
世界が再び瞬き、暗転した。
風が唸る。嵐の夜へと落ちていく。
「なぜ私の治療を拒むのだ、アヴェン!」
視界の先に、寝台に横たわるアヴェンの姿があった。顔は青白く、生気が感じられない。
「……わかるからだ、これが俺の天命だと」
土色の唇から漏れる声は、風の音に掻き消えそうなほど弱々しい。
アヴェンは天命と言ったが、まだ三十にも満たないそれは、あまりに早すぎる。
「ばかなことを言うな! アヴェン、頼むから……」
「エメル……俺のことを想うなら……どうかこのまま俺を逝かせてくれ」
「だめだ! だめだだめだ! そんなことは許さない!」
叫ぶと、アヴェンは笑みを浮かべた。
「……お前の泣き顔を見たのは、子どもの頃以来だな」
震える指に、目元を拭われる。
「……ずっと……おまえのそばにいたのに……おれは……」
アヴェンが息を吐き、目を閉じた。
「シイラ……」
ぽつりと呟かれたのは、死んだ妻の名前だった。
「シイラ、きみのところに――」
アヴェンは囁くように言うと、大きく息を吸った。
「――すまない――……」
乾いた口を開閉させるが、ひゅーひゅーと息が漏れるだけで、声が聞こえない。やがてゆっくりと息を吐くと同時に、アヴェンは言った。
「あいしている……」
その声を最期に、藍色の瞳から光が消えた。
「…………アヴェン、お前は」
胸が痛い。ナイフを突き立てられ、抉られ、なお切り裂かれた痛みだった。
「お前は……最期まで……私を見てはくれなかったな……」
それが絶望なのか、怒りなのか、悲しみなのかも最早わからない。
ふらつく足を動かし、部屋を出た。
建物の外に出た途端、轟音とともに背後の建物が崩れ落ちた。
同時に地面が割れ、幾つもの竜巻が、枯れた草木を宙に飛ばした。
体から、力と感情が溢れ出てくる。制御できないそれらがうねり、周囲を呑み込んでいった。
――このまま、すべてを……。
「……とうさま?」
不意に、耳にかすかな声が届いた。
視線を動かすと、十にも満たない子が、必死に大木にしがみついているのが見えた。
彼の面影が、少年時代のアヴェンと重なる。その眼差しが、救いを求めるように、こちらを見つめた。
「……お前はまだ私に……この世界を守れというのか……」
視線を伏せ、息を吐いた。
涙が頬をつたい、顎から滴り落ちる。
親指を噛み、血に濡れた指で宙に円を描く。
淡く光った円が、地面に紋章――魔法陣を浮かび上がらせた。
魔法陣の上に立ち、両手を雷雲へと高く掲げた。
何かを叫んだ気がする。何と言ったかは、覚えていない。
直後、一筋の雷が体を貫き、体は光の粒となって消えた。
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